- ※信の設定が特殊です。
- 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
- 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
- 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.
苦手な方は閲覧をお控え下さい。
撤退不可
信は重い気分のまま、目を覚ました。体にはまだ昨日の疲労が残っている。
昨夜、桓騎とオギコがいなくなった後、兵たちに素行調査に失敗した旨を伝え、作戦続行か撤退かは今朝まで保留にし、兵たちにはしっかり休むように告げていた。
頭を悩ませていた信がようやく眠りについたのは日が昇り始めた頃だった。
那貴がいなければ桓騎の天幕に印がないという異変に気付けなかった。
それに、あのまま調査を続けたとしても、ギュポーのせいで取り乱した所を捕らえられていたかもしれない。
そして桓騎とオギコがこちらの野営に現れた理由も謎のままだ。
もしかしたらこちらの動きを探っているのかもしれないと思うと、慎重にならざるを得なかった。
天幕を出ると眩しい朝陽が目に染みて、信は思わず顔をしかめた。
「…撤退だ」
出立の準備のために、天幕を片付けている兵たちに信は声を掛けた。
昨夜の失敗もあったことから、全員が納得したように頷く。他の兵たちと同じように、那貴も頷いていた。
「那貴、悪い。俺があそこで叫ばなければ…」
信は那貴の前に立つと、昨夜のことを改めて謝罪した。
ギュポーに対する拒絶反応だけはどうしようもなかったのだが、あの時に自分が叫ばなければ素行調査を続けられたに違いない。
大将軍という立場であっても、自分の非を素直に認めて謝罪する信の態度に、那貴はあははと笑う。
「今回は仕方ないさ。大王だって、あんたに危険な目に遭ってまで、成し遂げて欲しいとは思ってないはずだ」
「う…」
他でもない嬴政の頼みということもあって、しっかりと成果を持ち帰りたかったのだが、相手が悪かった。
蒙恬と王賁からも何かあればすぐに撤退するように釘を刺されていたし、信は此度の任務を諦めることにしたのだった。
「ま、あんたの頼みなら、大王様の前で桓騎軍の過去の行いを話してやってもいいぜ?」
「最初からそうすれば良かったよなあ…」
出立の準備が出来たと報告を受けた信は、兵たちに改めて撤退の指示を出す。
既に桓騎軍も出立の準備を終えて動き始めているらしい。
「じゃあ、このまま戻るぞ。戻ったらすぐに北の河了貂たちと合流する」
兵たちは誰一人として嫌悪の表情を浮かべなかった。信が大いなる信頼を寄せられている証拠でもある。
楚と秦が南の平地で戦っている間を狙って、趙の李牧が北から攻めてくるかもしれない。
予定の三日を待たずして合流する分には何も問題ないだろう。
昨夜の失敗を告げれば河了貂と羌瘣にバカにされそうだと、信は既に気が重かった。
三日目で自分たちの隊と入れ替わる百人隊も、後を追い掛けてこちらに向かっている。
何事もなかったかのように彼らと入れ替われば、今回の作戦は終了だ。
誰一人として桓騎軍から被害を受けなかっただけ成功だと考えようと信は自分を慰めた。
桓騎軍たちが進んでいる方向とは反対の、来た道を戻ろうとすると、地響きと共に、背後から複数の馬の足音が聞こえた。
「百人隊、お前ら一体どこに行くつもりだ?」
桓騎だ。反射的に振り返りそうになり、信は寸でのところで留まった。
天幕を出てから、布で顔を隠していなかったのだ。
もう撤退をすると決めており、桓騎軍と接触せずに出立するつもりだったため、油断していた。こんな時に限って布を持っていない。
(信っ!)
彼女が布で顔を隠していないことにいち早く気づいた那貴が、さり気なく彼女の背後に立ち、自分の体で隠してくれた。
撤退を決めてからも、那貴は用心深く顔を隠していた。桓騎軍の執拗さを知っていたからこそだろう。
「まさか怖気づいて逃げようとしたんじゃねえだろうな」
振り返った信は、那貴の肩越しに桓騎の方を見た。
桓騎を中心に、側近である雷土、黒桜、摩論たちも揃っており、馬上からこちらを睨み付けている。
昨夜もいきなり現れていたが、どうして今朝になってまた来たのだろう。
「おい、隊長はどいつだ。逃げようとしたってんなら、足の一本落として本当に逃げられなくしてやるよ」
ドスの聞いた声で雷土が問うと、信たちにさらなる緊張が走った。
野盗の性分でもあるこういった脅し文句こそが、飛信軍と性格の合わない理由の一つだ。
百人隊を結成するにあたり、建前として一人の兵に隊長の役割を担わせていたが、素直にその兵を出す訳にはいかなかった。
桓騎軍に情という言葉は存在しない。
敵の領土にある集落は容赦なく焼き払い、財産と女を奪い、老人や子供であっても容赦なく虐殺する。
そこまで外道な行いをする者たちが、味方だからという理由で見逃すはずがない。
本当に足を落とされることになるのではないかと信は不安を募らせた。
(さすがにもう諦めるか…)
意を決した信が正体を気づかれるのを覚悟して、桓騎たちの前に出ようとした時だった。
「あんたはここにいろ」
信を隠すように彼女の前に立っていた那貴が突然、顔を覆っていた黒い布を外したのだ。
(那貴ッ!?)
何をしているのかと信が目を見張っていると、彼は後ろ手で、外した黒い布を信に握らせる。
これで顔を隠せというのか。しかし、それでは那貴の正体が気づかれてしまう。
信が戸惑っていると、那貴が颯爽と歩き始め、桓騎たちの前に立ちはだかった。
「…俺が隊長だ」
「那貴ッ?なんで、てめえがここにいる!」
雷土を中心に、桓騎軍の者たちがざわめいた。
彼らの視線が那貴に向けられている隙に、信は彼から受け取った布で顔を隠す。
「飛信軍に入っておいて、こんな百人隊の隊長とは、随分と出世したじゃないか」
皮肉交じりに黒桜が那貴に言葉を掛けた。
「あんまり一つのところに留まるのは好きじゃなくてね。で?なんだっけ?」
とぼけるように那貴が肩を竦めると、雷土が背中に背負っていた剣を手に取る。
「お前ら、まさか逃げようとしたのか?もしそうなら、てめえの足を落とす」
「相変わらず物騒だなあ、桓騎軍は。出立の準備が少し遅れただけだろ」
「さっさと足を出せ」
馬から降りた雷土が那貴に剣の切っ先を向けるのを見た途端、信は駆け出していた。
「やめろッ!」
那貴を庇うように、信は彼の前に立つ。
雷土に剣の切っ先を向けられてもなお、信は怯むことなく彼らを睨み付けていた。
「なんだてめえは」
「蒙虎…この隊の副長だ」
用意していた名を名乗る。蒙という姓を聞いた雷土が眉間に皺を寄せた。
「…てめえ、まさか蒙驁将軍の身内か?」
「ああ。だが、訳ありで迷惑を掛けるから詳しいことは言えない」
蒙恬が考えておいてくれた台詞を言うだけだったのだが、信は布の下の顔を緊張で強張らせていた。
目の前にいる雷土ではなく、背後にいる桓騎からのねっとりとした視線に、信は背中に嫌な汗を滲ませた。
見つめられているだけなのだが、全てを見透かしているようなあの瞳に、体がまるで拒絶反応を出しているようだ。
那貴が目の前に現れた時も、桓騎だけは表情を変えず、微塵も動揺していなかったことに信は気づいていた。
蒙驁将軍の身内だという言葉を聞いた雷土が背後を振り返り、まるで知っているかと確認するように桓騎を見る。
しかし、桓騎はその口元を楽しそうに緩ませるだけで何も答えない。
「…さっさと行くぞ。次に遅れたら、最後尾の兵の首を落とす」
桓騎が手綱を引いて馬を進ませたので、他の側近たちは大人しく彼の後を追って行った。
雷土だけは何か言いたげに那貴と信の方を睨んでいたが、黙って後を追い掛けていく。
「…こうなりゃ仕方ねえ。出立するぞ!伝令にもそう伝えろ」
信は低い声で全員に指示を出した。桓騎たちに目をつけられたこの状態でさすがに撤退は出来ない。
疑いを掛けられてしまった以上、今から撤退を始めれば確実に追撃されるだろう。
内輪揉めで楚国との戦に影響が出ることだけは何としても避けたかった。
まさかここで桓騎に目をつけられることになるとは思わず、信は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「ま、こうなりゃ仕方ないな」
信を慰めるように、那貴がぽんと肩を叩く。信の正体を隠すためとはいえ、那貴の正体が気付かれてしまった。
咄嗟の機転を利かせてくれた那貴のおかげで、信の正体と此度の計画が全て勘付かれずに済んだのだのだが、感謝の気持ちよりも罪悪感の方が大きい。
「…悪い。全部、俺のせいだ」
信が項垂れながら謝罪する。
桓騎軍から飛信軍に抜ける時も、仲間たちには裏切者だと散々罵られて嫌な気分になっただろうに、危険も顧みず桓騎たちの前に出てくれた。
昨夜のこともあり、信は自分を責めた。
「気にするな。むしろ俺の場合、正体がバレた方が動きやすくて良かったかもしれない」
兵たちに出立を急ぐように声を掛け、那貴は先に歩み始める。
信は唇を噛み締めて、彼の後を追いかけた。
撤退不可その二
その後、何故か桓騎は軍の最後尾――信たちの百人隊の前方を馬で歩いていた。
側近たちに先導を任せて、まるで信たちが逃げないかを見張っているかようだった。
時々こちらを振り返るのを見ると、完全に疑われているらしい。
(どうしてここまで俺たちを疑う…?たかが百人隊にそこまで興味を持つか?)
信は兵たちに紛れながら、桓騎の動向を探っていた。
那貴がこの隊を率いていることを知ったからか、それとも蒙驁の身内がいると知ったからか。
だが、那貴から聞いていた話だと、そのようなことに興味を示すことも、しかも自分の目で確かめるような男ではないはずだ。
様々な奇策を用いて敵軍を翻弄する桓騎だが、彼の思考が読めずに苦戦する敵が多いのも納得出来る。
味方である信でさえ、彼の考えていることが少しも分からなかった。
「那貴」
前方を歩いていた桓騎が振り返り、後ろを歩いている那貴に声を掛ける。
「なんすか、お頭」
「うちを出てから、長いこと飛信軍に居たんだろ。どうだった?」
桓騎の口から飛信軍の話が出るとは思わず、信は思わず顔をしかめた。
「漠然とした質問っすね」
苦笑を浮かべながら、那貴が言葉を続けた。
「思ったより、居心地良かったですよ」
過去のこととして伝えているのは、恐らくまだ飛信軍にいることを悟られないためだろう。
桓騎が鋭い男だというのは那貴もよく知っていた。
だからこそ、些細な会話の糸口から、今回の任務を嗅ぎつけられないよう、細心の注意を払っているようだ。
「…飛信軍の女将軍はどうだった?向こうでも千人将やってたんなら、何度か会ったんだろ」
自分の話題が桓騎の口から出て来たことに、信ははっとして目を見開いた。
気づかれたかと冷や汗を浮かべたが、そんなはずはない。桓騎はただ那貴の口から飛信軍の話を聞きたいだけなのだ。
早鐘を打ち始めた自分の心臓に、落ち着け、と信は何度も言い聞かせる。
「噂通り、強い女でしたよ」
当の本人が後ろを歩いているのだが、那貴は少しも動揺を顔に出さない。
きっと桓騎ならば、会話の糸口からでなく、顔色の変化にも敏感に気づくだろうと思っていたからだ。
那貴の言葉を聞き、桓騎がつまらなさそうな表情になる。
「それだけか?もっと良い話が聞けると思ったんだがな」
んー、と那貴が考える素振りを見せる。
「お頭の好みではないことは確かです」
嫌な笑みを浮かべて那貴がそう言った。
馬上にいる桓騎が、ちらりと那貴に視線を落とす。
「論功行賞の時に傍で見たが、あれは山の女より色気に欠けるな。確かに、俺の好みじゃねえ」
(色気がなくて悪かったなッ!つーか、お前の好みなんて知らねえよッ!)
布の下でぎりぎりと歯を食い縛りながら、信が拳を握った。
兵たちが自分に落ち着けと言わんばかりに狼狽えた視線を送っていることに気付き、信は冷静さを取り戻す。
山の王である楊端和と色気を比較されると、ぐうの音も出ない。
楊端和も信と同じく大将軍の座に就いており、美しく、そして強い女性だった。
嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻す時に、楊端和とは初めて出会った。
同性であってもつい見惚れてしまったほどの気高さを兼ね備えている女性だ。
そんな彼女と比べられれば、大半の男が楊端和を選ぶだろう。
負け惜しみではないが、よりにもよって桓騎に女として楊端和と比べられたことに、信の中で苛立ちが込み上げて来た。
秦の怪鳥の異名を持つ父と、同じく六大将軍の一人である母。
血の繋がりはないのだが、その二人の娘というだけで、天下の大将軍の娘とは化け物のような強さを秘めている女であるという噂が中華全土に広まっている。
噂は色んな場所にたちまち根を生やしていき、化け物のような強さから、化け物のような外見をした女だというものになっていることもあった。
戦に出る時は母である摎のように仮面で素顔を隠していることも原因なのかもしれない。
一体どんな娘なのか気になっている者はこの中華全土に多く存在している。
恐らく桓騎もそのうちの一人だったのだろう。
論功行賞で隣に並んだ信を横目で見ていた時、一体彼は何を思ったのだろうか。
「好みじゃない女に、なんでいきなり興味を持ったんすか」
もっともらしい那貴の問いに、桓騎がまるで何かを思い出すかのように目を伏せた。
「―――あの目は悪くない」
ゆっくりと瞳を開きながら告げた桓騎に、那貴がはっとした表情を浮かべる。
一体何の話だと信が小首を傾げていると、いきなり桓騎が振り返ったので、信は慌てて目を逸らした。
不自然な視線の背け方に勘ぐられただろうかと不安になる。
桓騎が笑った気配を感じて、信は恐る恐る顔を上げた。
もうこちらを見てはいないようだったが、桓騎を見つめている那貴の顔が強張っている。どうしたのだろうか。
「那貴。それと副官の蒙虎だったか?今夜、俺のところに来いよ」
「は…!?」
桓騎の口から名を呼ばれ、信は思わず声を上げていた。
信の驚いた声を聞いた桓騎が再び口の端をつり上げる。
元々そういう顔なのだろうが、笑うと不気味に思えてしまうのはどうしてだろうか。
自分の中の桓騎に対する拒絶反応がそういう風に見せているのかもしれない。
那貴は顔を強張らせたまま、肩を竦めた。
「作戦なら摩論から聞きますよ。お頭、そういうのはいつも摩論に任せてるでしょう。どういう風の吹き回しっすか?」
「おいおい、誰が戦の話をするなんて言った?」
「え?」
那貴の顔がさらに強張った。
「今の話の続き、聞かせろよ。特別に美味い酒を用意しておいてやるから、逃げんなよ」
そう言うと、桓騎は馬の横腹を蹴りつけ、馬を走らせた。どうやら先導していた側近たちと合流するらしい。
桓騎の姿が見えなくなってから、兵たちがようやく安堵した表情を浮かべた。
信だけは桓騎の言葉を理解するまでにしばらく時間がかかっており、眉間に皺を寄せている。
「…まずいな」
表情を曇らせて那貴がそう呟いたので、信も同意した。
「なんで俺らがあんな奴と酒飲まなきゃならねえんだよ。これから楚との戦を控えてるっていうのに、ふざけやがって…」
「そこじゃなくて…完全に目ぇつけられてるぜ、信将軍」
那貴の低い声から、冗談ではないことを察した信が小首を傾げる。
「口ではああ言ってたけど…お頭は、完全にあんたのことが気になってる」
はあ?と信が大声で聞き返した。
「なんだよ、楊端和より色気がねえとか、俺の好みじゃねえとか好き放題言ってたくせに」
苛立つ信の隣で、那貴の曇った表情は晴れることはなかった。
「問題は山積みだ。まず今夜、あんたはお頭にその顔を見られるかもしれない」
「へ?」
きょとんと目を丸めた信に、やはり分かっていなかったと那貴が肩を落とした。
「酒を用意しておくってことは、俺らに飲ませるつもりだろ。顔を隠したまま酒が飲めるか」
那貴に説明され、信は「あッ!」と大声を上げた。その通りだ。
信が黒い布で隠しているのは目から下で、酒を飲むためには口元まで覆っている布を外さなくてはならない。
顔を見せろと直接言われた訳ではないが、酒の席に誘うということは、桓騎が信の顔を見ようとしている何よりの証拠だった。
「お頭に正体を気づかれたとしても、あんたの立場的に殺されることはないと思うが…」
歯切れの悪い那貴の言葉に、信がどうしたと問う。
「…殺されないとしても、殺されない程度に何かをされる可能性は否定できないな」
沈痛な表情で那貴はそう答えた。腕を組んで、信は口を噤む。
「このまま少しずつ速度を落として、桓騎軍と距離を空けて撤退するか?お頭は先導の側近たちといるから、森にでも逃げ込んじまえば、馬の足じゃ深追いは出来ないだろ。馬に乗ってない桓騎軍の兵だけなら、この百人隊でも撒ける」
那貴の撤退の案はもっともだ。しかし、信は意外にもその案に難色を示したのだった。
「…俺らが逃げたら、那貴はまたあいつらに好き勝手言われるだろ。それはだめだ」
何度か瞬きをしてから、那貴がふっと笑う。
「あんた、自分が将軍っていう立場なの、自覚あるのか?」
「はあ?当たり前だろ」
たかが一人の兵が、仲間だった者たちから後ろ指をさされないために、撤退を拒否したのだ。
付き従う兵たちのことを誰よりも考えているという点では、確かに信の右に出る者はいないだろう。
飛信軍に移って来た時も散々桓騎軍の者たちには好き勝手言われたが、その話を人づてに聞いた信はまるで自分のことのように憤怒したのだ。
いつも自分ではなく、誰かのことを優先する彼女に、那貴は桓騎軍にはない居心地の良さを改めて感じるのだった。
両腕を頭の後ろで組んだ那貴はやれやれと困ったように目を伏せた。
「…そりゃあ、好かれて当然だな」
「?何がだよ」
「こっちの話だ。さて、今夜どうするかねぇ…下戸って言っても、あのお頭が引くはずがないだろうし…」
信が撤退の意志を見せないと分かった那貴は今夜、桓騎からの酒の誘いをどう断るべきか頭を巡らせた。
疑念その一
夜になり、野営の準備が始まった。
信と那貴は素知らぬ顔で天蓋の準備をしていたが、桓騎軍の兵が現れたことで思わず身構えた。
「おい、那貴と蒙虎はいるか?お頭が呼んでるぞ」
「………」
わざわざ呼び出しに来るとは、やはり桓騎は自分たちを逃がすつもりはないらしい。
信と那貴は顔を見合わせる。周りの兵たちも緊張を浮かべた顔で二人を見ていた。
安心させるように信は彼らに「行って来る」と声を掛け、那貴と共に桓騎軍の野営地に向かう。
桓騎軍の兵に案内され、彼らの野営地に到着する。
昨夜はなかったはずの印が天幕が見えて、やはり昨夜は意図的に印を外していたのだろうと那貴は考えた。
「来たな」
天幕の近くで火が焚かれていた。
傍にある椅子に腰掛けている桓騎が信と那貴の姿を見て、楽しそうに目を細める。
もう先に飲み始めているらしい。杯を傾けている桓騎の姿を見て、信は思わず眉を顰めた。
明後日には戦を控えているというのに、こんな状況で酒を飲むなど、まるで緊張感が感じられない。この男は一体何を考えているのだろうか。
桓騎の奇策は、戦では前例がなく、先の読めぬものばかりだ。
それはまるで彼の思考と同じで、桓騎が何を考えているのかは、信だけでなく桓騎軍の兵たちも分からない。
那貴の話を聞くかぎり、桓騎が腹を割って話をするような人物は軍に一人もいないようだった。
信頼している仲間にさえ本心を見せない彼は、腹の内に一体どんな黒いものを抱えているのだろう。
(って、何考えてんだ俺…!政のための調査だろ)
今回の目的は桓騎軍の素行調査だ。
正体が勘付かれるかもしれないという危機感はあるが、嬴政のためにもその目的を果たさなくては。信は布の下できゅっと唇を噛み締めた。
「随分と機嫌が良いんすね、お頭」
桓騎の近くにある椅子に那貴が腰を下ろしたのを見て、信も空いている椅子に腰を下ろす。
側近の雷土たちはそれぞれの天幕にいるのか、この場に姿がなかった。
那貴の言葉に桓騎は何も答えず、酒瓶を掴んだ。それから台の上に用意してあった二人分の杯に酒を注いでいく。
「飲みながら飛信軍のことを聞かせろよ」
酒の入った杯を桓騎が二人の前にそれぞれ置く。杯を取ろうとしない信を見て、桓騎が気怠そうに口を開いた。
「…蒙虎、酒を飲むのにその布は邪魔だろ」
やはりそう来たかと那貴は桓騎を見据えた。
あれこれ理由をつけて蒙虎の顔を見ようとしている桓騎は、一体この兵が何者かと疑っているに違いない。
蒙驁の身内ならば命を奪われることはない。
しかし、それが嘘だと気づかれれば、ましてや飛信軍の将がここにいると知れば、誰かの差し金だと疑うに決まっている。
桓騎軍と飛信軍の相性が悪いのは桓騎も知っているはずだ。
だからこそ信が単独で潜入するはずがないと考えるだろう。そうなれば自分と同じ大将軍である信に指示を出した者がいると睨むはずだ。
大将軍である彼女に指示を出せる者は限られるし、なおかつ桓騎軍の動向が気になっている者と言えば、おのずと答えに辿り着くことになる。
「…顔を知られたら蒙驁将軍に迷惑が掛かるんでな。無礼を承知で、このままでいさせてもらう」
信はここでも白老と呼ばれる蒙驁将軍の名前を出した。
いくら本心を見えない桓騎とはいえ、彼が蒙驁に恩を感じているのは事実だ。
蒙驁に迷惑が掛かるとくれば、無理強いは出来ないだろうと信と那貴は考えたのだ。
その読みは当たったようで、桓騎はそれ以上何も言うことなく、杯を口に運んでいる。
この場で信の正体に気付かれることがあれば、撤退も止むを得ないと考えていた那貴はこっそりと安堵の息を吐いた。
「北の酒蔵から取り寄せた美味い酒だぞ。遠慮しないで飲め」
「………」
目の前に置かれたままの酒杯に、信が目を輝かせている。
酒好きな信は、素行調査中である緊張感と、どんな酒なのかという好奇心の狭間で心が揺れていた。
もちろん飲むためには顔を半分隠している布を外さなくてはならないので、飲む訳にはいかないのだが…。
「…で、飛信軍の話でしたっけ?」
那貴は桓騎がこちらを見ていない隙に、自分の杯と信の杯をすり替える。
まるで乱れた髪を直すような、さり気ない仕草だった。
何をしているのだと信が不思議そうに見つめて来るが、那貴は構わずに桓騎の返事を待つ。
静かに酒を口に運んでいる桓騎は、那貴が信と杯を取り換えたことに気付いていないようだった。
「向こうは随分と居心地が良かったみてえじゃねえか」
足を組み直した桓騎に、那貴は曖昧に頷く。
「…今さら飛信軍の何が知りたいんすか?」
「女将軍のことだ」
まさか再び自分の話題になるとは思わず、信はぎくりとした。
本人がここにいるのだから、決して口を滑らせる訳にはいかないと、那貴は桓騎のことをじっと見据えている。
「話したいんなら、わざわざ俺に聞かなくても、お頭の方から行けば良いじゃないですか。同じ大将軍でしょう?」
「残念ながら、向こうから嫌われてるみたいでな」
少しも残念そうに思っていない桓騎と目が合い、信はさり気なく目を逸らした。
桓騎に見つめられると、信の中に存在している桓騎に対しての嫌悪感が胸をざわつかせる。
今まで信は桓騎と面と向かって話をしたことはなかったのだが、桓騎軍と飛信軍の相性が悪い話は彼も知っていたのかもしれない。
「…飛信軍の女将軍は下僕出身っていう話だ。元下僕と元野盗で気が合うと思ったんだがな」
「………」
名前に元がつくだけで、野盗とやっていることは何ら変わりない桓騎軍の悪行の話を思い出し、信は思わず眉を寄せた。
彼女の表情の変化に気づいたらしい桓騎が楽しそうに目を細める。
「なんだ?蒙虎。何か言いたそうな顔だな」
「えッ…あ、いや…」
まさか話を振られるとは思わず、信は狼狽えた。
ここで動揺していることに気付かれれば、自分が飛信軍の女将軍であると気づかれてしまうかもしれない。
「…俺も下僕出身だから、驚いただけだ」
咄嗟に信はそう口に出しており、それからすぐに後悔した。
蒙驁の身内だという架空の存在を演じていたのだが、下僕出身である自分がなぜ蒙家と繋がりがあるのだと疑われるかもしれない。信は背中に嫌な汗を滲ませた。
「ほう?下僕の分際で、蒙の姓を得るとはとんでもねえ出世じゃねえか。白老も本当に人が良い御仁だ」
どうやら蒙家の養子だと思われたのだろう。良いように誤解してくれて、信は布の下で安堵の息を吐いた。
桓騎のような元野盗と、王翦のような野心家を副官として従わせている蒙驁の懐の深さを考えれば、下僕出身の人間を養子にしたとしてもおかしいことではない。
蒙恬もそれを見越して蒙の姓を名乗れと言ったに違いない。
「…ああ。蒙驁将軍には感謝している」
信の言葉を聞き、桓騎の瞳に穏やかな色が宿った。蒙驁将軍に恩を感じているのは確かなのだろう。
他人に心を読ませない男だとは思っていたが、ちゃんと人間らしい部分もあるのだなと思い、信は思わず桓騎を見つめていた。
その視線に気づいたのか、桓騎が立ち上がる。
「蒙虎」
信の前にやって来た桓騎は、肩にその腕を回し、彼女の顔を覗き込むようにして顔を近づけて来た。
「ッ…」
鋭い双眸に見据えられ、信は思わず息を詰まらせた。彼の黒曜の瞳に、怯えた自分の姿が映っており、心臓が早鐘を打ち始める。
「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」
口をつけずにいた酒杯を掴んだ桓騎はそれを信に握らせた。
酒を飲ませるのを理由に顔を見ようとしているらしい。まだ彼は諦めていなかったのだ。
疑念その二
(まずい!)
那貴が弾かれたように立ち上がる。
「お頭、蒙虎は下戸だ。酒の匂いだけも気分が悪くなるから、勘弁してやってくれ」
那貴の言葉を聞き、意外にも桓騎はあっさりと信から腕を離した。
「飲めねえなら仕方ねえな」
幸いにも正体に気づいた様子はなさそうで、桓騎は自分の席へと戻っていく。信は布の下で再び安堵の息を吐いた。
桓騎に対する嫌悪感のせいだろうか、体が小刻みに震えており、心臓はまだ早鐘を打っていた。
椅子に腰を下ろした桓騎が、台の上に両足をどんと置いた。
「今日は気分が良い。俺に飛信軍の女将軍のことを教えるなら、うちの軍のことを色々と教えてやっても良いぜ」
「は…?」
桓騎の提案に、那貴は思わず聞き返した。
当然だろう、千人将として桓騎軍に属していた那貴には不要な情報だからだ。
しかし、桓騎は那貴には一目もくれず、じっと信のことを見据えている。
「蒙虎。うちの軍について、俺に聞きたいことがあるんだろ?」
はっと目を見張った。蒙虎という名を彼に告げてから、一言もそんなことを言っていないというのに、どうして桓騎はこちらが桓騎軍について知りたがっていることを察したのか。
(…教えてくれるっていうなら丁度良いか)
少し悩んでから、信は布の下でゆっくりと口を開いた。
「桓騎軍についた隊のほとんどが全滅してるって噂がある。奇策を成り立たせるのに、わざと殺してるんじゃねえだろうな?」
嬴政に頼まれた素行調査であるものの、先に口を衝いて出たその疑問は、信がずっと気になっていたことだった。
軍が隊を手駒として使うのは当然のことだが、桓騎が用いる奇策を成すために、わざと見捨てているような真似をしているのではないかと信は睨んでいた。
教えてやると言った割には答えようとせず、酒を飲んでいる桓騎に、信が鋭い眼差しを向ける。
「俺らはあんたに従う立場なんだから、気になるのは当然だろ。答えろよ」
怒気を込めて催促すると、桓騎はにやりと口の端をつり上げた。
「生きるか死ぬかはそいつら次第だろ。策を成すのに、奴らの生死は関係ない」
「………」
腹が立つ返答だが、筋は通っている。
わざと殺している訳ではないようだが、失われていく味方兵の命に、桓騎が少しも興味も抱いていないことは分かった。
「なら、次は俺の番だな」
桓騎が酒で喉を潤してから、那貴と信を見据える。質問の数だけ質問を返していく等価交換といったところか。
何を訊かれるのだろうと信が身構えていると、桓騎が発したのは予想外の言葉だった。
「飛信軍の女将軍と大王はデキてんのか?」
「はああッ!?」
思わず信は立ち上がっていた。
驚愕している信に、那貴が諦めにも似た表情を浮かべながら目頭を押さえている。
背もたれに身体を預けながら、桓騎は不思議そうに小首を傾げていた。
二人の視線を受け、信は顔から血の気を引かせていく。これだけ動揺したのなら、確実に怪しまれたに違いない。
「どうした?」
「い、いや…!元下僕出身の女が、大王となんて、立場的に、二人がそんなこと…」
「男と女である以上、そんな綺麗事が通じる訳ねえだろうが」
桓騎にそう言われると、膝から力が抜けていき、信はずるずるとその場に座り込んだ。
信は嬴政と、彼の弟である成蟜から政権を取り戻す時からの仲であり、親友である。
秦王である嬴政の金剛の剣として、大将軍である信は幾度も秦軍を勝利を導いて来た。今までもこれからも自分たちの関係は変わらない。
それに、後宮には嬴政のために喜んで足を開く美女がごまんといるのだ。
決して嬴政にそんな目で見られたことなど一度もないし、誓って男女の仲になったことはない。
許されるなら、今すぐここでそれを証言したかった。
(マジかよ…)
恐らく自分と嬴政の関係をそんな風に考えているのは、桓騎だけではないだろう。
だからこそ、彼は真相を確認するために、二人のことをよく知ってそうな自分たちに尋ねたに違いない。
男と女という性別だけで、周りからそんな風に誤解されていることに、信は落胆した。
「いや、そんな話は聞いたことがない。将軍が大王の下へ行く時、軍師の河了貂も一緒だった。…故意に二人きりになりたいのなら、お供は連れて行かないだろ」
那貴の言葉を、納得したのかそうでないのか、桓騎は表情を変えずに耳を傾けていた。
今度はこちらが質問する番だ。
信はこほんと咳払いをして、冷静さを取り戻してから桓騎のことを見据える。
「…戦の最中、敵の領地にある村を焼き払うだけじゃなくて、村人たちを虐殺したり、金目の物を奪ってるっつー噂がある。…全部お前の指示か?」
二つ目の質問に、桓騎は興味が無さそうに目を逸らした。
「…答えねえなら、そうだと受け取るぞ」
信は腕を組んで桓騎を睨み付けた。ようやく目が合った時には、桓騎の口の端がつり上がっており、嫌な笑みを浮かんでいることに気付く。
「白老の身内だからって随分と強気だな」
「とっとと答えろ」
大将軍の一人である桓騎を前にしても恐れを見せず、それどころか、信はあからさまに敵意を剥き出していた。
もしも桓騎の側近が近くにいたのならすぐに斬られていたに違いない。
今の立場は、名も知られぬ百人隊の副官だと理解しているのだろうか。那貴はその不安を顔に出さず、信を横目で見ていた。
重い沈黙が三人を包み込んだが、その沈黙を破ったのは桓騎だった。
「命じた訳じゃねえが、俺らの軍はそういうのの集まりだからな。別に珍しいことじゃない」
やはり元野盗というのは名前だけで、現役らしい。信のこめかみに鋭い怒りが走った。
(やっぱりこいつは早めに抑えとかねえと、後が面倒だな)
嬴政の中華統一を成し遂げるためには桓騎の奇策が、桓騎軍の力が必要なのは分かるが、野党の性分はどうにか抑えねばならない。
彼らの悪行によって、嬴政の名が汚れてしまうのだけは許せなかった。
回答し終えた桓騎が気怠そうに頬杖をつく。酒の酔いが回って来たのだろうか。
次は桓騎がこちらに質問をする番だ。何を訊かれるのだろうと身構えてると、
「蒙虎」
低い声で名前を呼ばれ、信はどきりとした。
「―――お前は、何者だ?」
桓騎の双眸に宿る底なしの闇を見て、那貴と信は同時に生唾を飲み込んだ。
ただの好奇心や興味から来る質問ものではない。立派な尋問だった。
嘘を吐くことは許されないという威圧感より、嘘を吐いても意味はないといった絶望に近いものを感じさせる視線に、信は言葉を喉に詰まらせる。
下手に答えれば、見えない何かに首を斬り落とされてしまうような恐怖さえ感じた。
信は桓騎には見えない台の下で強く拳を握り、自分に喝を入れる。
こんなことで怯むなど、大将軍の名が泣いてしまうと自分に言い聞かせ、信は目を逸らすことなく桓騎を睨んだ。
「…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな」
その答えは、桓騎と那貴の予想を遥かに超えるものだった。
一瞬呆けた顔をした後、桓騎は喉奥でくくっと話い声を上げる。
桓騎はよく笑う男だと、信は昨夜から学んでいた。
父である王騎も、よく独特な笑い方をしていたことを思い出す。
死地に立った時でさえも、まるで敵兵に余裕を見せつけるように、王騎は口元にいつも笑みを浮かべていた。
だが、この男の笑い方は王騎が見せていたものとは違った余裕を感じさせる。
見ているこちらは訳もなく腹立たしくなるような、嫌な気にさせる笑みだった。
「…じゃあな」
もうこれ以上は用はない。信は颯爽と立ち上がった。
差し出された酒を一口も飲まずに帰るのは少々気が引けたが、桓騎に顔を見られる訳にはいかなかったので、諦めることにした。
「蒙虎」
野営地を出ようと背を向けた信に、桓騎が呼び掛ける。
振り返ると、桓騎は楽しそうな瞳でこちらを見つめていた。
「…俺は気に入った女は逃がさない主義だ。足の腱を切ってでも捕まえる。覚えとけ」
何を言っているのだろう。桓騎の言葉の意味が理解出来ない信は、呆れたように肩を竦める。
「執念深い男は嫌われるぞ。覚えとけ」
まるで挑発するように返した信は振り返ることなく、桓騎軍の野営地を後にした。
「…もう嫌われてるって言っただろうが」
残された桓騎がそう呟いたのを、那貴は聞き逃さなかった。
これ以上ここに長居する理由はない。信の後を追い掛けようと那貴が立ち上がる。
「あー、お頭と那貴だ!」
近くに側近はいないと思ったのだが、千人将であるオギコが二人の姿を見つけて駆け寄って来た。
「お頭ー!あっちの天幕で女の人がずっと待ってるよ」
「ああ、待たせておけ」
連れ込んだ娼婦のことだろう。信がいる間に知られなくて良かったと那貴は僅かに安堵した。
きちんと金で彼女たちの夜を買っているのだから、悪行と言われれば異なるだろうが、信のことだから、戦が始まる前なのに何を考えているのだと逆上するに決まっている。
「あ、お酒だ!一緒にお酒飲んでたの!?」
台の上に置かれている酒瓶と杯を見つけたオギコが円らな瞳を好奇心で輝かせる。
「こっちは口つけてねえから飲んで良いぞ」
那貴が信の前に置かれていた方の杯を差し出すと、オギコは嬉しそうにごくごくと喉を鳴らして酒を飲んだ。
―――中身は桓騎が飲んでいた酒と同じものだと分かっていたが、信の杯にだけ薬を仕組んでいることを那貴は初めから勘付いていた。
娼婦を抱く時に、桓騎が戯れに媚薬や眠剤の類を酒に混ぜて飲ませているのを知っていたからだ。
もしも本当に蒙驁の身内ならば、下手に手出しは出来ない。
大人しくさせるには薬を使うのが一番だと桓騎は考えたのだろう。
だが、那貴がそれを知りつつも、その場で指摘することが出来なかったのは、他でもない信のためだ。
薬が入っていることを知った信は逆上するかもしれない。
この場で騒ぎを起こして側近や兵たちに取り囲まれる状況こそ、桓騎と二人きりになるより危険だと判断し、彼女には何も告げなかったのだ。
しかし、ここまでして蒙虎の顔を見ようとするなんて、桓騎から強い執着のようなものを感じる。
やはり言葉にしないだけで、正体に気づいているのだろうか。
「……ん、んんッ!?な、なんらか、体が、しび、へ、て、…」
「オギコ?」
目を白黒させながらオギコがずるずるとその場に崩れ落ちていく。
意識はあるようだが、舌がもつれているだけでなく、上手く体を動かせないでいるようだった。
その姿を見て、那貴がまさかと冷や汗を浮かべる。
彼に渡したのは、那貴が信とすり替えておいた杯――薬が入っていない方の杯だったのに、酒を飲んだオギコにはあからさまな症状が出ていた。
オギコが地面に倒れ込んだのを見て、すり替えておいたはずの杯に薬が入っていたのだと気づいた那貴は、顔から血の気を引かせた。
思い出したように、桓騎が那貴の方を振り返る。
「お前ら二人とも、飲まなくて良かったな?」
「!」
はっと目を見開いた那貴が、口をつけなかったもう一つの杯に視線を向ける。
まさか桓騎は、那貴が杯を取り換えるのを想定していたというのか。
桓騎の言葉から察するに、渡された両方の酒杯に薬が仕組まれていたらしい。
那貴が杯をすり替えようとも、信と自分のどちらかが口をつけた時点で、負けが決まっていたのだ。
もしも、片方だけが眠らされていたのなら、二人とも眠らされていたら、今頃どうなっていたのだろう。
娼婦が待っているという天幕へ向かう桓騎の後ろ姿を見つめながら、那貴は背筋を凍らせた。
やはり桓騎は、恐ろしい男だ。
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