キングダム

アナーキー(桓騎×信←那貴)前編

キングダム 桓騎 信 桓信
記事内に商品プロモーションを含む場合があります
Pocket

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

大王勅令の極秘任務

その日、信はある軍の将と兵たちの素行調査を頼まれた。

これが任務でなく依頼だったなら、そして秦国の大王であり、友人である嬴政からの直々の頼みでなかったのなら、速やかに断わっていただろう。

承諾はしたものの、信は少しも意欲的にはなれなかった。桓騎軍の悪行は、信の耳にも届いていたからだ。

―――咸陽宮の城下町を見渡せる露台で、蒙恬と王賁が驚愕の表情を浮かべた。

「ええッ!?信が桓騎軍に!?」

「バカッ!声でけえよ、蒙恬!」

誰にも聞こえないように、慌てて信は蒙恬の口を塞いだ。

もごもごと手の下で何か呻きながら、蒙恬は焦った表情を浮かべている。普段は冷静沈着な王賁も眉を顰めていた。

辺りを見渡し、誰にも聞かれなかったことを確認して信はほっと安堵する。手を外すと、蒙恬は声を潜めた。

「いくら大王の頼みだからって、それは危険だって!じいちゃ…祖父の蒙驁将軍に仕えてくれるから、あんまり言いたくないけど…良い噂は一つも聞かないぞ?」

だから・・・だろ」

飛信軍を率いる若き女将軍であり、秦国の六大将軍の王騎と摎の娘の信は何度目になるか分からない溜息を吐いた。

―――桓騎軍の兵として潜入し、彼らの素行を調査するというのが、信に与えられた任務だった。

元野盗である桓騎は、奇策を用いて、数々の戦で勝利に貢献している。
論功行賞でもその名を呼ばれることは多く、秦国でも桓騎の存在は広く知れ渡っていた。

しかし、知れ渡っているのは将の名前や武功だけでなく、素行の悪さだ。

戦に巻き込まれた村が桓騎軍によって焼き尽くされたり、そこに住んでいた者たちも殺されたという話があった。老人や子供相手であっても、決して例外はない。

兵糧だけでなく金品を奪い、女は連れ去る。元野盗の集まりだと聞いていたが、その話だけ聞けば、名前に「元」がつくだけで、野盗と何ら変わりないではないか。

さらには敵軍を動揺させるために、敵兵の亡骸を使って脅しのように、士気を下げることもあると噂で聞いている。

先に行われた山陽の戦いでは、魏兵たちの目玉をくり抜いて敵将の元へ届けたり、 まるで見世物のように屍を磔にしたとか。
そんな残虐極まりない桓騎軍に仕えるよう命を受けた隊は、確実と言って良いほど全滅している。

奇策を用いるからなのか、桓騎軍は他の軍よりも兵の被害が少ない。しかし、彼の軍に仕える隊が必ずと言って良いほど全滅しているのは信も少々気になっていた。

桓騎軍の下につくのは、未だ名の知られない数百人規模の小さな隊ばかりだ。

恐らく、蒙恬の率いる楽華隊が一度も桓騎軍についたことがないのも、祖父である蒙驁が手を回しているに違いない。
そして王賁率いる玉鳳隊も同様に、桓騎軍につかないように王翦が何かしら手を回しているのだろうか。

(奇策を成すために犠牲に使ってるのかもしれねえが…)

中華統一を目指す秦にとって、桓騎のような奇策を用いる将は必要不可欠だ。

彼の戦略が勝利を導くとはいえ、信も桓騎のことはあまり好きになれなかった。噂だけで相手を判断するのは良くないことだとしてもだ。

信は桓騎と共に戦場に立つことはあっても、受け持つ拠点が異なることもあって、直接の関わりはなかった。

過去に信が総大将を務める戦では、桓騎軍も参加していた。飛信軍の軍師である河了貂が他の軍や隊に軍略を伝える席にも、桓騎が姿を見せたことは一度もない。

桓騎軍の軍師であり、桓騎の側近でもある摩論もなかなかクセのある男だったし、桓騎軍とはそういった者の集まりのようだ。

その戦での論功行賞の時に信は嬴政から名前を呼ばれ、同じく名前を呼ばれた桓騎が隣に座っていた。

思えば、桓騎の姿をしっかり見たのは、あの時が初めてだったかもしれない。

無意識のうちに身体が彼を拒絶しているような、怖気にも寒気にも似た感覚を、信は今でも覚えている。
横目で桓騎がこちらを見ていたことには気付いていたが、信は一度も彼と目を合わさなかった。

若い女ながら、桓騎よりも先に大将軍の座に就いており、六大将軍の王騎と摎の娘である自分の存在がどのようなものかを見定めていたに違いない。そのような興味を抱く者はこの中華全土に多くいる。

あの時は桓騎から声を掛けられることもなかったが、もしも目を合わせていたら、何を言われていたのだろうか。

「ッ…」

無意識のうちに鳥肌を立てており、信は腕を擦った。蒙恬が頬杖をつきながら、苦笑を深める。

「よりにもよって信に素行調査を頼むか…随分と無茶言うなあ、うちの大王も」

「政が無茶言うのは今に始まったことじゃねえよ」

腕を組んだ王賁が眉間の皺を崩さないまま、信を見据えた。

「…今からでも桓騎に殺されない策を考えとけ。大将軍だと名乗る前に首を撥ねられるかもしれんぞ」

「ああ、それは大丈夫だ」

二人を安心させるように、信はにやりと笑った。

「桓騎軍の兵に紛れる。完璧な作戦だろ?」

「どこが?男のフリして兵に紛れるなんて、そんなの潜入するに当たって大前提だろ」

「バカの一つ覚えだな」

「ええぇ…」

信にとっては自信のある作戦だったらしい。しかし、そんなものは作戦ではないときっぱり否定した蒙恬と王賁に、彼女はあからさまに肩を落とす。

落ち込んだ信に、本当に正体を隠して潜入する気があるのかと王賁がこめかみに青筋を浮かべた。

今にも彼女に掴みかからんばかりの怒りを察し、蒙恬は「まあまあ」と信を庇うように二人の間に立つ。

「んー…作戦かあ…」

腕を組んで、信は思考を巡らせる。

将軍には本能型と知略型の二種類がある。言い換えれば力か知恵かという二択だ。信は本能型の将軍に分類される。

兵たちの士気を湧き立たせる信の強さはもちろんだが、軍略はからきしで、軍師の河了貂と、冷静に戦況を見極めることができる副官の羌瘣がいなければ、飛信軍はここまで育たなかっただろう。

「そもそも信が作戦通りに動けるとは思えないんだけどね」

「ああ?どういう意味だよ」

蒙恬の言葉に、信が眉を顰めた。

元々の性格なのだろうが、良い意味でも悪い意味でも、信には表裏がなく、嘘を吐くことが出来ない。

そんな彼女が兵に紛れて桓騎軍に潜入するなんて、本当に出来るのだろうか。王賁と蒙恬は顔を見合わせると、呆れたように溜息を吐いた。

「…それじゃあ、名を尋ねられたら、蒙の姓を名乗った方が良い。蒙驁将軍の身内だと分かれば、きっと殺されることはないだろう」

「俺が蒙の姓を語るとなると……じゃあ、蒙信か?」

「正真正銘のバカか貴様。姓を偽りながら、なぜ素直に名乗っている」

王賁の正論に、信が面倒臭そうに顔をしかめる。こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか。蒙恬のこめかみがずきずきと痛んだ。

もしも正体を怪しまれた時に、桓騎を副官として迎え入れた白老・蒙驁の身内だと分かれば、桓騎も悪いようにはしないだろう。蒙恬はそう睨んでいた。

だが、それは桓騎に名前を尋ねられるという前提の話だ。自分の軍でもない隊の兵になど、桓騎が興味を持つはずがない。

そんな彼に名前を尋ねられる状況に陥るということは、確実に信が潜入時に何かやらかした時に違いない。

素行調査をするとはいえ、正義感の強い信が、彼らの噂に聞く悪事を目の当たりにして、果たして黙っていられるのだろうか…。

蒙恬と王賁は言葉には出さずとも、絶対に無理だろうと考えていた。
そして、悪事を働いた桓騎軍の兵たちを信が一掃するのは、今回の話を聞いた時から目に見えていた。

兵に変装するとはいえ、正体は中華全土に名を轟かす天下の大将軍の娘だ。そこらの兵が簡単に取り押さえられるはずもない。そして、騒ぎを聞きつけた側近たちが、謎の兵の話を桓騎に伝える。

騒ぎが大きくなるにつれ、興味を持った桓騎が自ら出向いて信の前に現れる…そこまでの過程は安易に予想出来た。

蒙恬と王賁が不安に思っていたのはそれだけではない。信が強いのは分かっているが、桓騎の奇策に適うかどうかは別だ。

今回は戦でないにせよ、頭の切れる彼に目を付けられて面倒なことにならないか、それが一番の不安の種だった。

しかし、信といえば兵に潜入することしか事前に考えていなかった。彼女は今回の件を、あまり深刻に考えていないらしい。

このまま無策で桓騎軍に潜入なんて、確実に失敗する未来しか見えない。下手したら、弁明する前に桓騎軍の全兵力で取り押さえられて、首を飛ばされてしまうかもしれない。

蒙恬が更なる不安を覚え、恐る恐る尋ねた。

「…信、まさかとは思うが…」

「ん?」

「桓騎軍に潜入するに当たって、知らない百人隊に、たった一人で、入り込むつもりじゃない…よな?」

蒙恬に問われた彼女はきょとんと目を丸める。

「そのつもりだったぞ?」

「このバカ女がッ!」

ついに痺れを切らした王賁の鉄拳が信の頭に振り落とされた。いでええッ、と信が泣きそうな声を上げる。

普段なら受け止めることも出来たはずなのに、王賁の凄まじい勢いに対応出来なかったようで、信は両手で頭を押さえて涙目でしゃがみ込んでしまう。

普段なら穏やかに王賁を落ち着かせる蒙恬だったが、今回ばかりは見て見ぬふりだった。痛む頭を擦りながら、信が涙目で二人を睨み付ける。

「な、なんだよッ!羌瘣だって、俺だって初陣の時は誰も知らねえ百人隊で伍組むとこからだったぞ!?」

「それは過去の話でしょ。…信が少しも作戦らしい作戦を練れていないのはよく分かった。よし、今から大至急で作戦会議だ」

桓騎軍に行く前に話してくれて良かったよと、薄ら笑う蒙恬のこめかみにも青筋が浮かび上がっているのが見えて、信は顔を引き攣らせた。

「じゃ、じゃあ、まずは名前から考えるか!何にするかなあ…」

腕を組んで、信がうーんと考える。不思議なことに、背中に携えている剣がきしりと音を立てた。その音は決して聞き間違いではなく、二人の耳にも届いていた。

山陽の戦いで信が討った魏軍の将、輪虎の剣だ。王騎と共に廉頗の屋敷に出入りしていた信にとって、輪虎は兄のような存在であった。

輪虎との手合わせで信は一度も勝ったことがなかったのだが、山陽の戦いで初めて彼に勝ったのだ。

彼の命の重みを背負うと心に決めた彼女は、彼が生前使っていた剣を廉頗から引き継いだ。

蒙虎・・!虎ってのは?」

信は笑顔で二人に提案した。

彼女が輪虎の剣を見てそう提案したことに、蒙恬と王賁は訳を訊かなくても、輪虎の名前を取ったのだと察する。

安易すぎると思ったが、飛信軍の信を連想させる要素は少しもない。

あれだけ苦戦を強いられた将軍の名から取ったという理由には正直納得したくないが、一時的な偽名だ。そこまで深くこだわる必要はないだろう。

偽名を決めてから、蒙恬を中心に、今回の桓騎軍への潜入における作戦会議が始まった。

「…よし、それじゃあ、作戦を振り返るよ?これから急いで、信頼出来る飛信軍の中から、なるべく名の知られていない兵を集めて、百人隊を結成する。常に飛信軍と連絡を取り合う伝令係も忘れずに任命する」

おう、と信が頷いた。

「返事だけは潔いな」

「なんだと?」

王賁に横槍を入れられ、信のこめかみに鋭いものが走る。瞬時に睨み合いが始まり、蒙恬は大きく手を叩いた。

小気味良い音によって二人の意識が蒙恬へと戻る。

「喧嘩は後にしろよ。もしかしたら大王様のお願いで、信が命を落とすかもしれないんだ」

低い声を発した蒙恬が二人を宥める。信は背筋を正し、蒙恬の話の続きを聞くことに集中する。

「信は大前提として、目的である素行調査に集中すること。もしも桓騎軍の悪事を目の当たりにしても、その場では絶対に堪える。いい?」

信は頷いた。先ほど王賁が言ったように返事は潔いが、きっと悪行を目の当たりにすれば、頭に血が昇ってなりふり構わず止めようとするだろう。それを見越して、蒙恬は次の言葉を紡いだ。

「もし、悪事を発見した場合は、とにかくその場から撤退だ。目の当たりにした事実を大王様に伝えればいい」

ぐっと唇を噛み締め、信は渋々頷く。蒙恬は、すっと深く息を吸ってから言葉を続けた。

「一番最悪なのは、信が桓騎軍の兵を切り捨てた場合だ」

「………」

「桓騎が出て来るとすれば、その場合だけだろう。その時は、名を尋ねられなくても、絶対に蒙の姓を名乗る。五体満足じゃないかもしれないけど、命は保証されるはずだ。あとは隙を見て逃走。…良い?」

蒙恬に真っ直ぐに目を見つめられながらそう尋ねられた信は、少しも納得していない表情で、小さく頷いた。

彼女の表情を見て、王賁の眉間に鋭い皺が寄る。口を開こうとした王賁を、蒙恬がさっと手を挙げて止めた。

「…と、まあ、そんな感じで作戦を立ててみたけれど、結局は信次第だからなあ」

「上手くやってやるから、んな心配すんなって!」

信の笑顔と説得力のない言葉に、蒙恬は苦笑を深めた。王賁も呆れた表情を浮かべている。

「…信」

蒙恬が彼女の手をそっと握った。

「戦と同じで、無駄死にだけはしないで欲しい。この国には、大王様には、信が必要なんだから」

真っ直ぐに信の目を見据え、蒙恬が告げる。

「ありがとな、二人とも!ぜってー無事に帰って来るから、その時は朝まで飲むの付き合えよ!」

花が開いたような満面の笑みを浮かべ、信は蒙恬と王賁の肩を軽く叩いた。

少しも緊張感のない彼女の態度に、二人はますます不安を募らせたが、それ以上はもう何も言うまいと顔を見合わせたのだった。

 

出立前のひととき

嬴政が信に頼んだ桓騎軍の素行調査。
軍の総司令官を務める昌平君もその話を聞いており、此度の戦に飛信軍は参戦しないことになった。

蒙恬と王賁と念入りに考えた作戦通り、飛信軍の兵から百人隊を結成し、桓騎軍の指示に従う。状況を知らせる伝令係も任命した。
桓騎軍の下についた隊がいつも全滅している話は、兵たちの間でも噂になっていたらしい。

信は大王命令による極秘任務であること伝えた上で、桓騎軍の素行調査に協力することを兵たちはすぐに承諾してくれた。

「三日だ。三日だけ耐えてくれ。あと、もしも俺が桓騎軍の兵どもに手ェ出しそうになったら、ぶん殴ってでも止めろ!頼むぜ!」

信の言葉に兵たちが苦笑する。どうやら兵たちも、信ならやり兼ねないと思っていたらしい。

三日の期限を設けたのは、軍の総司令官である昌平君からの指示だった。
此度の戦の舞台になる平原までは移動に三日かかる。その三日目で信が率いる百人隊は撤退する予定になっていた。

そして本来、桓騎軍につく予定の百人隊と入れ替わる手筈になっている。秦から見て、南にある楚国の侵攻を防衛するのが此度の戦の目的だった。

しかし、南に戦力を費やせば、その隙を狙って李牧のいる趙国が北から攻めて来るかもしれない。

桓騎軍の素行調査が大王嬴政からの命令であるとはいえ、さすがに李牧率いる趙国の侵攻には備えなくてはならない。趙の侵攻に備え、飛信軍の戦力は何としても保持しておきたかったのだ。

「懐かしいなあ」

信は久しぶりに一般兵が着る鎧を身を纏った。普段の鎧よりも防御力に欠けるが、こちらの方が大きく腕を振るえて動きやすい。

信が不在の間は軍師である河了貂と、副官の羌瘣の二人に飛信軍の指揮を任せることになっていた。
出立の準備が整ったと連絡を受け、信は河了貂と羌瘣に声を掛ける。

「そんじゃ、テン、羌瘣。悪いけど後は任せたぜ。また三日後な」

「往復するんだから六日後だろ」

河了貂の冷静な言葉に、信が「あ、そっか」と納得する。

こんな調子で大丈夫なのだろうかと河了貂が不安そうに眉を落とした。

「李牧がこの機を狙って北から攻めて来るかもしれないんだから、もしそうなったら桓騎なんかに構ってないで、さっさと戻って来いよ!」

「おう、心配すんな。すぐ戻って来る。何かあればすぐに伝令を寄越せ」

妹同然である河了貂を安心させようと、彼女の丸い肩をぽんと叩き、信は黒い布で口と鼻を覆った。

普段の戦場では、母である摎のように仮面で顔を隠しているということもあって、信は顔を隠しながら行動することに慣れていた。

「お、なんか昔の羌瘣みたいじゃね?カカカ。完璧に男だろ」

ぎろりと羌瘣に睨まれる。

信に何か言い返そうと考えた羌瘣が急にしゃがみ込んで地面に手を突っ込んだので、信たちは小首を傾げた。

「…さっさと行ってこい」

「ひッ――ぅああああああッ!お前それやめろって言ってるだろおおッ!」

羌瘣の手に握られているものを見て、珍しく信が仰け反って甲高い悲鳴を上げた。

羌瘣の手には多数の足を持つ毒虫、ギュポーが握られている。この醜怪な虫は、地面の中に巣を作る習性があるらしい。

からかった罰だと言わんばかりに、羌瘣は真顔で信にギュポーを突き付けていた。

幾つもの死地を駆け抜けている信であったが、彼女はこのギュポーと呼ばれる毒虫が苦手だった。羌瘣に背中を掴まれて、多足をもだもだと動かしている様子がまた気持ち悪い。

信は幼い頃、この虫で遊んでいたことがあった。
その際に、思い切り手を噛まれ毒を受けて三日三晩寝込んだことが恐怖となって、彼女の中に深く根付いているらしい。

天下の大将軍がこんな虫一匹に怯むだなんて笑い話だ。信の弱点を知り得た羌瘣は時折、ギュポーを使って信をからかうのだ。

信がギュポー嫌いであることは口外を禁じており、飛信軍の中だけの機密事項となっていた。

不適の笑みを浮かべている羌瘣と怯え切っている信に、河了貂が「二人とも大人げない」と呆れている。

羌瘣がギュポーを地面に戻してから、ようやく安堵した信は「行って来る」と彼女たちに大きく手を振った。

 

出立

今回のためだけに結成された百人隊に声を掛け、いよいよ出発する。馬に乗らず、歩兵として出陣するなんて、何年ぶりのことだろう。

今から移動を始め、桓騎軍と合流するのは夕刻だろう。たった三日とはいえ、正直に言うと気が重かった。
もしかしたら桓騎に近づきたくないという本能の警告なのかもしれない。

「…つーか、潜入なんてしなくても、那貴が政に知ってること話せば良いだけだよなあ」

「は?そんな恐れ多いこと出来る訳ないだろ」

「何が恐れ多いことだよ。ただ喋るだけじゃねえか」

元桓騎軍の千人将である那貴がやれやれと肩を竦めた。

「大王にあんな失礼な口聞いてるのは、中華全土どこを探してもあんただけだろうよ」

「あ?お前こそ大将軍の俺に失礼な口聞いてるだろうが」

「飛信軍なんてみんなそうだろ。態度のデカさだけで言うなら、桓騎軍より上かもな」

那貴の言葉に、むっとした表情を浮かべた後、信が肩を震わせて笑った。つられて那貴も笑い出す。

今回の任務を遂行するに当たり、百人隊を結成する時に、那貴は「俺も行く」と率先して名乗り出てくれた。

百人隊に名の知られている兵は入れないようにと蒙恬から言われていたが、桓騎軍の良し悪しを知っている彼が居れば心強いと、信は那貴の同行を許したのだ。

桓騎軍の者に気付かれないよう、那貴も信と同じように口元を黒い布で覆っていて、顔の半分を隠している。

過去に信が総大将を務めた戦で、飛信軍は桓騎軍と共に戦ったことがある。
どうやら那貴はその時に飛信軍に居心地の良さを感じたようで、桓騎軍から移って来た異例な存在だった。

飛信軍に移ると申し出て、桓騎から引き止められなかったのか問うと、那貴はあっさりと頷いた。

―――桓騎軍は軍であって、軍のような規律はない。あそこはお頭が白と言えば白、黒と言えば黒っていう集まりなんだよ。他の奴らにはボロクソ言われたけどな。

つまり、桓騎の指示一つで何でも許されるという訳だ。あの軍の中では、将である桓騎こそが規律なのかもしれない。

桓騎は元野盗。そして彼に付き従っている者たちも野盗の集団だ。
そのせいか、桓騎軍の兵たちは全員気性が荒く、飛信軍の兵たちと度々言い争いになることもあった。

同士討ちは禁忌とされているため、信はその度に兵たちを落ち着かせるのだが、桓騎はそう言った場にも一度も姿を見せない。

噂だけが一人歩きしているのかと思っていたが、恐らく本当に噂通りの男なのだろう。本当に自分の娯楽以外は何も興味がない男のようだ。

それでも付き従う兵が多いのは、桓騎が慕われている何よりの証拠に違いない。

「…なあ、那貴から見て、桓騎ってどんな男だ?」

歩きながら、信が那貴に問い掛けた。

間近で桓騎という存在を見て来た那貴ならば、噂以上の情報を知っているに違いない。

「今さら俺が話したところで、将軍の中のお頭の想像図は覆せないと思うがな」

苦笑を浮かべた那貴に、信は自分の知っている桓騎の噂を話し始めた。

「…敵兵の目ん玉くり抜いて送り付けたり、見世物みたいに死体を吊るしたり、金目の物を奪って、女も犯して。兵器ならともかく、村まで焼き払って…悪党以外の何者でもねえだろ」

今までの戦で桓騎軍が行ったことを皮肉っぽく言うと、那貴は桓騎を庇うような発言はせず、素直に頷いた。

「何せ、あの人の趣味は、何をしたら一番相手が苦しむかを考えることだからな」

あっさりと肯定した那貴に、信はますます気が重くなる。

絵に描いたような大悪党である男の下に自ら行かなくてはいかないなんて。こんなに気が重いのは、戦で敗北が決まり撤退した以来だ。

しかし、今回のことは他の誰でもない嬴政の頼みだ。断る訳にはいかなかった。

今までの桓騎軍の悪行について、嬴政は目を瞑らざるを得ないと思っていたらしい。

蒙驁が野心家である王翦と、元野盗の桓騎の二人を副官にしているのは、二人の才を認めており、何よりその才は秦の未来のためになるという判断からだった。

中華統一するにあたり、桓騎軍の悪事は民からの信頼に大きく影響が出ると睨んだのだろう。

嬴政の元には噂程度にしか入って来ない桓騎軍の悪行を、代わりに確認して欲しいというのが嬴政の頼みだった。
誰よりも信頼しているからこそ、他の誰でもない信に頼んだのだ。

(政の中華統一の足枷になるんだったら、今のうちに抑制しとかねえと後が大変だな…)

 

桓騎軍の野営地へ

一日目の夜。前方を歩いていた桓騎軍と合流し、今日は野営で休むことになった。

「蒙虎」

夕食の後、那貴にそう呼ばれて、信は少し反応が遅れた。
そうだ。もう桓騎軍の目があるのだから、信という名を隠さなくてはならない。

「どうした?」

「桓騎軍の野営地はそう遠く離れてない。調査に行くなら付き合うぜ。お頭の天幕なら印がついているから、見ればすぐに分かる」

那貴も桓騎軍に顔を知られている。

飛信軍に移ったはずの那貴がここにいると知られれば、連鎖的に信の存在も気づかれてしまう。信と同じように顔を隠しているのは、彼の心遣いだった。

「…ああ、行くか」

信は顔を隠している布が解けないように、後ろの結び目をきつくして立ち上がった。

夕刻に桓騎軍と合流した時、桓騎は軍の先頭を走っているようで、さすがに姿を見ることは叶わなかった。

桓騎軍の野営地はここから少し離れた場所にある。素行調査のためには、桓騎軍の野営がある場所に忍び込まなくてはならなかった。

さすがにこの野営地から百人隊全員で移動することは出来ない。
大人数の移動は目立ち過ぎる、もしも桓騎軍の者たちが何か伝令を伝えに来た時に、誰もいなければ怪しまれるだろう。怪しまれぬように兵のほとんどはここに残さなくてはならない。

目立たずに捜査を行うために、信は那貴と二人だけで桓騎軍の野営地に潜入することに決めた。

自分たちが戻らなければ細心の注意を払いつつ、兵の半分は桓騎軍の野営に来るように、そして残りの半分は引き返すように指示を出す。

まさか初日から桓騎軍に気付かれて全滅させられるだなんて最悪な筋書きにはならないだろうが、念には念を入れなくてはならない。

もしも桓騎軍と戦闘になり、信を含めて五十の兵が全滅した場合を想定する。
残りの五十の兵が追撃に遭ったとしても先に退避していれば全滅は避けられるはずだ。

そうなれば待機している副官の羌瘣率いる飛信軍や、軍の総司令官である昌平君に状況を伝えることが出来る。

楚国の戦を控えているため、追撃にまで兵を割くことはないとは思うが、桓騎の奇策にはどんなものがあるのか信も分からない。飛信軍と相性が悪いのは性格だけでなく、恐らく戦略もだ。

桓騎軍には敵も味方もないのだと那貴から話を聞いていた。

桓騎が敵だとみなせば秦国の軍や隊であろうが、敵である。彼こそが桓騎軍の規律なのだから、何があってもおかしくはない。

桓騎軍の野営地まで距離はそう遠くないところにあった。
馬を使えば嘶きや蹄の足音で見つかる危険が高まると考えた二人は森の中を通りながら野営地へ近づいていく。

「…今頃は飯と酒で気分良くいるだろ。そう身構えなくても平気だ」

まるで安心させるように那貴が囁く。

信が那貴と二人だけで桓騎軍の野営を視察に来たのは、とっておきの秘策があるからだ。その秘策を使えば、命は助かるという保証がある。

それこそが蒙虎という名前と存在だった。蒙恬が祖父であり、桓騎が秦国の中で唯一恩を感じている蒙驁の存在を仄めかす架空の存在。

―――蒙の姓を名乗ったなら、必ず蒙驁の身内か問われるはずだ。その時は馬鹿正直に語る必要はない。訳ありで迷惑を掛けるから詳しくは言えないとだけ言うんだ。絶対に顔も見せるなよ。

蒙恬には何度も釘を刺されたが、蒙驁の存在を後ろ盾につければ大丈夫に違いない。信はそう考えていた。

いくら元野盗とはいえ相手も人間で、夜目が利かないのは同じである。

何より顔を見られて正体に気付かれることを恐れた二人は、明かりを持たずに、空から差し込む月明りだけで森の中を進んでいた。

「見えて来たぞ。あそこだ」

草木を掻き分けて進んでいると、先方に明かりが見える。人の気配や談笑から、桓騎軍の野営地に来たことを察した。

草陰に身を潜めながら那貴が野営を見渡している。焚火の周辺で兵たちが酒を飲んで談笑している姿が見えた。

「…おかしい」

那貴が眉間に皺を寄せている。どうしたと信が小声で尋ねると、彼は野営地から目を離さず口を開いた。

「お頭の天幕が見当たらない。いつも印がついているはずなのに、今日はそれがない。…妙だ」

口元に手を当てながら怪訝な表情を浮かべる那貴に、信は目を見張った。

将軍である桓騎がこの場にいないはずがない。場所を変えて天幕を立てているにせよ、辺りを見渡す限り、野営が可能なのはここしかないだろう。

信は嫌な予感を覚えた。単純に天幕に印をつけていないとも考えられるが、それはおかしい。

いつも印がついているはずの桓騎の天幕に、なぜ今日に限って印がないのか。

まるで桓騎がこちらの素行調査のことを知っているのではないかという不安を覚え、信は生唾を飲み込んだ。

楚国の奇襲に備えているとも考えたが、まだ決戦の場である平地までは移動に時間がかかる。それに、こんな場所に奇襲をかけるような軍略を立てる者は楚国にいないはずだ。

奇襲の対策を取っているにせよ、他の兵たちに野営をさせながら、桓騎だけがいないというのもおかしい。

もし奇襲の対策を取っているにせよ、兵たちがこんなにも寛いでいるのも妙だ。楚国からの奇襲を警戒しているという説は否定されるだろう。

「…戻るぞ、那貴」

信は那貴に声をかけると、今来た道を戻ることにした。那貴も天幕の印がない違和感を拭えないようで、素直に頷く。

「ッ…!?」

戻ろうとした時に、信の足に何かがぶつかった。

木の根かと思ったが、目を凝らすとまるで桶のようなものが転がっているのが見えた。足をぶつけた拍子に転がしてしまったようだ。

(なんだ?桶…?)

どうしてこんなものがここにあるのだと信が疑問を抱いた途端、桶のあった場所に見覚えのある大きな虫が蠢いているのを見つける。

目を凝らしてみると、それは信の大嫌いな毒虫、ギュポーだった。

「―――」

全身の血液が逆流するような感覚に、信が息を詰まらせる。ぶわりと全身の鳥肌が立った。

こんな状況で声を上げればどうなるか分かっているはずなのに、心に根付いているギュポーに対する恐怖は構わずに信の中を暴れ回った。

「ぎゅッ、…きゃぁあああああ――――ッ!」

咄嗟に那貴が手を伸ばして信の口に蓋をするが、既に悲鳴は桓騎軍の兵たちの耳に響き渡った後だった。

「おい、女の悲鳴だぞ!」

「近くにいるんじゃねえのか?なんでこんなとこに?」

那貴の手の下で、もごもごと悲鳴の余韻を上げていると、桓騎軍の兵たちの声が聞こえた。彼らが動き出したのを見て、那貴は信と共に身を屈めた。

「良い女なら捕まえて輪姦マワしちまおうぜ」

その言葉を聞いて、那貴はやはりそうなるかと苦笑を浮かべた。

桓騎軍の兵たちは見境がない。相手が良い女ならば玩具のように凌辱し、弄んで、最後はごみのように捨てるのだ。

その様子を、那貴も桓騎軍にいる時は傍で見て来たはずだったのに、今は無性に許せなかった。

「撤退するぞ」

ここで信が捕らえられ、女だと気づかれれば、きっと弁明する前に彼女が汚されてしまう。

命が無事だったとしても、女としては心に一生の傷を負うことになる。何としても避けなくてはと那貴は考えた。

信が安易に男たちに屈するはずはないし、彼女の強さも分かっているのだが、那貴は桓騎軍の兵たちに彼女を触れさせたくないと感じていた。

桓騎軍の兵たちが集まって来る前に、何としても逃げ出さなくてはと、那貴が信の手を掴んで走り出す。

信の手首は想像していたよりも細くて驚いた。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

身を屈めているとはいえ、足音は隠せない。
二人分の足音を聞きつけた兵たちが「あっちだ!」と仲間に声を掛け合っている。

「わ、悪い、那貴…!俺のせいだ…」

ようやくギュポーによる動揺が落ち着いた信は、今にも泣きそうなほど顔を歪めながら謝罪した。

(意外と女らしいところもあるんだな)

飛信軍に入ってから信がそんな表情を見せたのは初めてのことだったので、那貴は走りながら、つい見惚れてしまう。
こんな時に何を考えているのだと那貴は思考を振り払った。

「とにかくここから離れるぞ。うちらの野営まで戻れば何とでもなる」

「ああ!」

後ろに目をやるが、桓騎軍の兵たちの声と気配が近づいて来ている。近い距離ではないが、まだ追い掛けて来ているらしい。

ひたすら走り続け、ようやく自分たちの野営地の明かりが見えると、二人はほっと安堵の息を吐いた。

それまでずっと握っていた信の手首を放したが、那貴の手の平には彼女の温もりが名残惜しく残っていた。

 

任務失敗

信が膝に手を当てながら、長い息を吐いていた。

「はー…まさか何も出来ずに引き返すなんてな…那貴がいてくれて助かったぜ」

信がやれやれと肩を竦める。手首を掴んでいたことを意識しているのは自分だけだったようだと那貴は苦笑した。

顔に疲労を滲ませながら、信と那貴は待機している兵たちの元へ向かう。

「悪い、待たせたな……ん?」

待機していたはずの兵たちが重々しい空気を纏っている。信と那貴が戻って来たのを見た彼らは、何か言いたげな表情を浮かべていた。

どうしたのだろう。彼らの視線を追い掛けると、紫の鎧に身を包んだ男が焚火の前にある椅子に腰を下ろしていた。

「お頭…!?」

那貴の小さな声に、信が目を見開いた。桓騎軍の野営地にいるとばかり思っていた桓騎がいたのだ。

(なんでこいつがここに!?)

信も那貴も驚いて言葉を失っている。お供としてついて来たのか、桓騎軍の千人将であるオギコが桓騎の肩を揉んでいる。

辺りを見渡す限り、どうやら桓騎軍からやって来たのはこの二人だけのようだった。一体なんのために来たのだろうか。

戦の作戦などは参謀である摩論が伝えるはずだ。桓騎自らが百人隊の野営地に出向くなど、目的がまるで分からない。

信と那貴の姿を見て、桓騎はにやりと口の端をつり上げた。
顔を隠しているとはいえ、この男に睨まれると、まるで全てを見透かされているような嫌な気持ちになる。

「…おい、なんで桓騎将軍がここにいる」

近くに立っていた兵に声を潜めながら尋ねると、「分かりません」と彼は首を横に振った。

ふらりとこの野営に桓騎が現れたかと思うと、戦の作戦を伝える訳でもなく、ただ座っているだけだという。

用件を尋ねても何も答えず、オギコも桓騎の肩を揉むのに必死で、まるで話にならないのだそうだ。

信は那貴に目を向けると、彼は小さく首を横に振った。那貴が桓騎軍に居た時も、このようなことは一度もなかった。

桓騎軍との付き合いが一番長い那貴でさえも、桓騎の目的が分からないらしい。

一体何を目的に、桓騎はやって来たのだろう。
重々しい空気の中、複数の足音が聞こえて信は顔を上げた。

「おい、百人隊!こっちに女が来なかったか!」

先ほどの桓騎軍の兵たちだった。その数は合わせて十人。まさかここまで追い掛けて来るとは思わなかった。

それまでオギコに肩を揉ませて寛いでいた桓騎がようやく顔を上げる。

「お前ら、何かあったのか」

ここに来て、ようやく桓騎が口を開いた。
桓騎軍の兵たちもどうしてここに桓騎がいるのだと驚いているようだったが、先ほどの出来事を話し始める。

「俺らの野営の近くで女の悲鳴が聞こえたんだ。この辺りに集落なんてなかったはずなのによお。良い女だったらお頭にも献上しようって思ってたんだぜ」

鼻息を荒くして話す男たちに、信は寒気を感じた。

これから戦に赴き、命の奪い合いをするというのに、まさかこんな状況で女に飢えているのか。

桓騎軍は戦であっても構わずに自分の野営地に娼婦を連れ込んでいるというのは那貴から聞いていたが、やはりそういう目的で連れ込んでいるのだ。

正体を隠していなければ、彼らをぶん殴っていたに違いない。

信は素知らぬ顔をして、とことん白を切ることにした。

「…女だと?一体何の話だ?ここに来たのは桓騎将軍とそこの千人将だけだぞ」

桓騎軍の兵から逃げた女がいるという話を聞き、恐らく信が失敗したのだろうと飛信軍の兵たちもすぐに察したようだった。

きっと後で何があったのだと責め立てられるに違いない。兵たちから呆れが含まれた視線を感じ、信は居心地が悪くなった。

「ちっ、逃げちまったか」

誰も情報を持っていないことで、桓騎軍の兵の者たちはあからさまに不機嫌な顔になる。

もう用はないと言わんばかりに桓騎軍の兵たちが野営地を出ていった。
これで完全に逃げ切れたと胸を撫で下ろした信だったが、まだ悩みの種は一つある。桓騎がまだこの場から去ろうとしないことだ。

作戦を告げるつもりもないのなら、何をしに来たのだろう。
目的は気になるが、桓騎に怪しまれる訳にはいかない。さり気なくその場を離れようとした時だった。

「ねー、お頭!ここに飛信軍がいるってほんと?」

「っ…!」

桓騎の肩を揉んでいたオギコの言葉に、信はぴたりと足を止めた。
飛信軍の兵たちの顔に、僅かな動揺が浮かぶ。那貴もまさかという表情を浮かべる。

頬杖をつきながら、桓騎は長い脚を組み直した。

「…ただの噂だ。飛信軍は今回の戦に参加しねえからな」

「オギコ、信に会いたかったなー!」

信は桓騎たちに背中を向けたまま、歯を食い縛る。

他の桓騎軍に所属している将たちはさすが元野盗ということもあって、飛信軍とはとても性格が合わない輩ばかりだ。

野盗時代の癖なのか、いちいち脅し文句を言わなければ気が済まないのも付き合いづらい。

しかし、オギコだけは違った。過去に、桓騎軍と共に戦った時、信はオギコの命を救ってやったことがある。オギコは表裏がなくて親しみやすい男だった。

素直に「助けてくれてありがとう!」と笑顔で感謝されて、嫌な気持ちになる者はいないだろう。

武器の扱いはからきしだが、オギコのその純粋な性格ゆえ、信はどうして彼が桓騎軍にいるのかが不思議でならなかった。

桓騎軍が嫌になったらいつでも飛信軍に来いと伝えたが「ありがとう!でもオギコ、お頭が好きだからごめんね!」とフラれたのは、信の中であまり納得がいかなかった。

…とはいえ、オギコは信に助けられた恩が忘れられないらしい。この場に桓騎がいなければ、信はすぐにでもオギコを飛信軍に勧誘していたに違いない。

それを見抜いた那貴が信の耳元に顔を寄せる。

「…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ」

「う…」

信は渋々頷いた。那貴がいなければ、オギコを通して桓騎に正体を気付かれてしまうところだった。

先ほどのオギコと桓騎のやりとりを思い出す。

(なんで飛信軍がここにいるって噂があるんだ?)

一体どこから情報が洩れたのか、信は分からずに眉間に皺を寄せた。

出立してからは、飛信軍の兵で結成された百人隊として行動しており、合流するまで桓騎軍とは一度も接触をしなかった。

情報漏洩をした者がいるとは信じたくなかったが、桓騎の耳にまで入ったということは、それを疑わざるを得ない。

もしかして桓騎がこの野営地にやって来たのは、噂の真相を確かめるためなのではないだろうか。

(いや、でも…)

オギコの問いに、噂だと告げたのは桓騎の方だ。

此度の戦で飛信軍が参加しないことは桓騎は知っているし、真相を確かめに来たような態度とは思えない。

だとしたら一体なぜこの野営地に来たのか。ますます彼の目的が分からず、信は思考を巡らせた。

「――!」

オギコと目が合い、信は咄嗟に視線を逸らしてしまった。

あからさまに視線を逸らされたことにオギコが小首を傾げ、頭に疑問符を浮かべている。
視界の隅でオギコがこちらをじいっと見つめていることに、信は嫌な汗を浮かべた。

(気付かれたか…!?いや、オギコに限ってそんな…)

もしもここでオギコの興味が自分に向けられるようなことがあれば、厄介なことになるのは目に見えていた。

先ほど那貴が話していた通り、悪気なく何でも桓騎に話してしまうというのだから、他の兵と同じで、オギコにも正体を気づかれる訳にはいかない。

心臓が早鐘を打つ。

これだけ念入りに作戦を立てて桓騎軍の素行調査を行おうと思ったのに、まだ何も成し遂げていないことにも後ろめたさがあったし、初日から正体を気づかれるなんて失態を起こせば間違いなく蒙恬と王賁から怒号が飛び交うだろう。

しかも、よりにもよってオギコに気付かれるだなんて、笑い話でしかない。

さっさと帰れと心の中で信が叫んでいると、その想いが通じたのか、桓騎が立ち上がった。

「行くぞ、オギコ」

「はーい」

最後まで桓騎はこの野営地に訪れた目的を告げることはなかった。

二人は乗って来た馬に跨り、颯爽と自分の野営地へと戻っていく。遠ざかっていく彼らの後ろ姿を見て、信はようやく安堵の息を吐いたのだった。

 

桓騎の作戦

「…ねえねえ、お頭」

馬を走らせながら、オギコが桓騎に声を掛ける。

「噂じゃなくて本当に信が居たけど、挨拶しなくても良かったの?」

「ああ」

オギコの言葉に、桓騎は驚く様子はなく、むしろ初めから知っていたように頷いた。

「どうせ明日も会うからな。那貴の野郎にも、聞きたいことがたくさんある」

「二人とも、なんで顔隠してたんだろー?」

「たまには頭使えよ、オギコ。ちっせえ脳みそが無くなっちまうぞ」

オギコがうーんと考える。しかし、答えが分からないようで、彼はいつまでも唸り続けていた。

自分たちの野営地に戻って来た桓騎は馬から降りると、野営地を囲んでいる木々の間へ進んでいく。

「お頭ー?なにしてるの?」

オギコの言葉を無視して、桓騎は足元に視線を向けた。

目を凝らすと、仕掛けておいたはずの桶が転がっていた。桶の下に隠していたはずのギュポーと呼ばれる多足の毒虫もいなくなっている。

―――俺らの野営の近くで女の悲鳴が聞こえたんだ。この辺りに集落なんてなかったはずなのによお。良い女だったらお頭にも献上しようって思ってたんだぜ。

兵の言葉を思い出し、桓騎の口の端がつり上がった。

 

中編はこちら