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バーサーク(蒙恬×信)前編

キングダム バーサーク 蒙恬 信 恬信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/輪虎×信/嫉妬/無理やり/ヤンデレ/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

白老の死

その日、大勢の家臣たちに囲まれて、眠るように蒙驁は息を引き取ったのだった。

孫である蒙恬は、冷たく強張っていく祖父のしわがれた大きな手をいつまでも握り続けていた。

自分を抱き上げてくれて、頭を撫でてくれて、時にはそっと背中を押してくれた、大きくて温かいその手は、今では氷のように冷え切っていた。

「……っ…」

祖父との別れに涙を流しながら、蒙恬は奥歯を噛み締めている。

嗚咽を堪えるためではない。今際にも顔を出さなかった父へ怒りを堪えているせいだ。

「蒙恬…」

心配そうに信が名前を呼ぶ。蒙驁の危篤の報せを聞き、身内でもない彼女は馬を走らせて駆けつけてくれ、ずっと蒙恬の傍にいてくれた。

しかし、今の蒙恬には、彼女に返事をすることも、いつものように笑顔を繕って「大丈夫だよ」と返す余裕など微塵も持ち合わせていない。

それでも信は何も言わずに傍にいてくれた。何を話す訳でもない、慰めの言葉を掛ける訳でもない。

ただ、蒙恬の祖父を失った悲しみと、父に対しての怒りを受け止めるかのように、信だけはずっと傍にいてくれたのだ。

蒙恬は、それほどまで自分を心配してくれている信の気持ちを純粋に嬉しく思ったし、情けない姿を見せてしまったという後ろめたさもあった。

―――蒙驁の大きな亡骸が従者たちに運ばれていき、葬儀の準備が始まる。

「信…」

「ん?」

隣にいる信の名前を呼び、泣き腫らした瞳を向けても、信は普段通りの態度だった。

「少し、良いかな」

「おう」

蒙恬は隣にいる彼女の肩に額を寄せる。はち切れそうに膨らんでいた心が、彼女の温もりに触れると、不思議と落ち着いてしまう。

「…ごめん」

震える声で呟くと、信は何も言わずに蒙恬の頭を撫でてくれた。

惚れている女には、こんな弱々しい姿を見せたくないと思っていたのだが、今だけは信の優しさに甘えたかった。

見舞い その一

信が屋敷を訪ねて来たと侍女から報せを受け、蒙恬は彼女を出迎えた。

端正な顔立ちをしているというのに、信は今日も相変わらず男のような着物に身を包んでいる。蒙恬の姿を見つけると信が手を挙げた。

「や、久しぶり」

おう、と信が頷く。それから蒙恬の顔をまじまじと見つめ、信は心配そうに眉を下げた。

「お前、寝れてんのか?」

…痛いところを突いて来る。蒙恬が苦笑を深めた。

目の下の隈を指でほぐしながら、蒙恬は「まあね」と適当に相槌を打つ。

―――白老の弔いの儀から既に一月が経っていた。

しかし、まだ蒙恬は祖父を失った悲しみの中にいる。

蒙恬が悲しんでいるうちにも、信は大将軍としての活躍を続けていくし、王賁だって将軍の座を目指そうと日々努力しているのだ。

このまま何もせずにいると、確実に差を付けられてしまうのは分かっていたのだが、蒙恬はどうしても前に進めずにいた。

信が背中に背負っていた大きな酒瓶を「ほい」と押し付けて来る。反射的にそれを受け取った蒙恬は目を丸めた。

「…なにこれ?」

「お前が一人で落ち込んでると思って、見舞いに来た」

信の言葉に、蒙恬はきょとんと眼を丸める。

未だ蒙恬が身内を亡くした悲しみに囚われているのを、信はどこからか聞きつけたのかもしれない。

「陰気臭えなあ、きっと蒙驁将軍が心配してるぞ!」

人の心に土足で入り込んでくるような彼女に、蒙恬はぷっと笑ってしまう。

相手の顔色や気持ちを窺うことをせずに、堂々と用件を伝えるのは信の短所であり、この上ない長所だ。しかし、蒙恬には信の真っ直ぐな気持ちが心地良かった。

「良いんだよ。じいちゃんをあの世でも心配させてやるんだ」

「孫のお前を心配して、化けて出て来たらどうするんだよ!」

本気で心配している信を見て、蒙恬は声を上げて笑った。

そういえば蒙驁が亡くなってから、従者たちに心配を掛けまいと繕った笑みを浮かべていることはあったが、こんな風に他愛もないことで笑ったことなど一度もなかった。

信が相手だと、何を考えているか腹の内を探る必要などない。信の言葉はいつだって本心なのだから、そもそも探る必要などないのだ。

だからこそ、こちらも素直に気持ちを伝えることが出来る。秦王である嬴政が信のことを信頼しているのも頷けた。

信の笑顔は、太陽のようにも、一点の曇りのない青空のようにも思えた。…どちらにせよ、自分には手の届かない存在なのかもしれないと蒙恬は考える。

長年蒙驁に仕えていた兵や家臣たちが、今も蒙驁を失った悲しみを抱えているのを蒙恬は知っていた。

どうやら彼らは孫である自分の前では、悲しむ姿を見せまいとしているらしい。

そのせいか、ここ数日の間、屋敷にはずっとぎくしゃくとした空気が満ちていた。自分の屋敷でありながらも、息が詰まりそうだった。

だからだろうか、信が来てくれたおかげで、蒙恬はほっと息を吐くことが出来た。

見舞い その二

客室に案内すると、信は椅子に腰を下ろして、さっそく持参した酒瓶を開ける。従者が気を遣ってくれたのだろう。既に台の上には二人分の杯が用意されていた。

「本当は賑やかな方が良いと思って王賁も呼んだんだけどよー、あいつ鍛錬が忙しいんだと」

「王賁らしいよね。信はいいの?」

「俺は済ませてから来たから問題なし!あとは飲んだくれるだけだ」

一日くらい手抜きをするのではなく、きちんと今日の分の鍛錬をこなしてから来るだなんて、彼女らしい。蒙恬は瞼を擦った。

「…急がないと、楽華隊もどんどん抜かされてくな。ま、飛信軍にはとっくの昔から差をつけられてるんだけどさ」

「ん?何言ってんだよ、楽華隊もすげえ勢いで上り詰めてるじゃねえか」

さらっと褒め言葉が口を衝いて来るのは信の長所だ。彼女は心に表裏がない。だからこそ、素直に思ったことを何だって言える。自分にはないものだと蒙恬は思っていた。

杯に酒を注ぎ、信が「ほら」と蒙恬へ差し出す。

「楽華隊が次の戦で武功を挙げたら、蒙恬は将軍に昇格だって、昌平君が言って…あ!今のは聞かなかったことにしろ!内緒だって言われてたんだった」

笑顔から一変、あたふたと慌てる信に、蒙恬の口元に笑みが浮かんだ。

「へえ…良いこと聞いちゃった」

盃を受け取りながら、蒙恬は口元を緩ませる。まさかこんなところで軍の総司令官からの極秘情報を聞いてしまうとは、運がいい。

いつだって本心で話す彼女が隠し事など出来るはずがないのだ。しかし、それを知っているのは蒙恬だけではなく、彼女の周りにいる者たち、そして昌平君もそうだろう。

もしかしたら、信が本人に言ってしまうことを想定した上で、昌平君も将軍昇格のことを伝えたのかもしれない。

蒙驁が亡くなって落ち込んでいる自分に「休んでいる暇はないぞ」という牽制の意図があるのかもしれないが。

うっかり極秘事項を話してしまった信は昌平君に怒られると縮こまっていた。

「俺が黙ってれば大丈夫だよ。ほら、乾杯」

杯を掲げると、信は少し目を丸めてから、笑顔で杯を突き出した。小気味のいい音を聞いてから、蒙恬と信は酒を飲む。

「ぷはー、美味ぇなあ」

信が満面の笑みを浮かべた。

焼けつくような舌触りから、かなり強い酒であることが分かる。胃に火が灯ったかのような熱さが走った。

しかし、荒々しさの後に繊細な深みも感じられる。酒が得意な人間でなければ卒倒してしまいそうな強さではあるが、美味い酒だった。

「うん。これは美味いね」

同意すると、信はまるで花が咲いたように笑みを深め「だろっ?」と聞いて来る。

「これな、麃公将軍のおすすめの酒蔵から取り寄せたんだ」

麃公といえば、戦でも、戦のない時でも酒を欠かさない将軍だ。

王騎と摎の養子として迎えられた信は、幼い頃から麃公と面識がある。麃公軍の隊として戦に出たこともあると言っていた。

王騎と摎の娘ということもあり、麃公からもまるで娘のように思われているらしい。信も麃公と同じ本能型の将で、その共通点から何か引かれ合うものがあったのかもしれない。

「うッ…」

きりりと胃が痛み、蒙恬が顔を歪ませる。強い酒のせいで燃えるように熱く感じていた胃が拒絶反応を示したようだった。

「ん?どうした?」

すぐに気づいた信が心配そうに顔を覗き込んで来る。

「…すきっ腹に飲んだから、ちょっと身体がびっくりしたのかも…」

「はあ~?飯食ってないのかよ」

驚きと呆れが混ざった複雑な表情を浮かべた信が肩を竦めていた。

…蒙驁が亡くなってから、蒙恬はあまり食事を摂らずにいた。

食欲がなかったのが一番の理由であるが、口に運んでも味を感じなかったのだ。家臣たちを心配させまいと、彼らの目がある所では無理やり食べていたが、蒙驁を失った悲しみに囚われた体が食事を拒絶しているのだと思った。

しかし、今日は違う。久しぶりに味というものを感じて、胃が痛み始めている。

「やめとめやめとけ。ぶっ倒れても知らねえぞ。俺は膝なんか貸さねえからな」

信が蒙恬の手から杯を奪い取る。見舞いの品として持って来たくせに、蒙恬がもう飲めないと分かると、独り占めするつもりらしい。

「返せよ」

「あ、おいっ」

奪われた杯を取り返し、蒙恬は信の制止も聞かず、再び酒を喉に流し込んだ。

胃が痛んだのはほんの少しだけで、すぐに落ち着いたようだった。

まるで何事もなかったかのように酒を飲み干した蒙恬に、信が苦笑する。

「良い飲みっぷりだな。そういや、蒙武将軍もすげえ飲むよな」

信が酒瓶を手繰り寄せて、空になった杯におかわりを注いでやる。

「父上は酒が強いからね。俺が酒に強いのは、父上に似たからだよ」

「ははッ、弟もお前も顔まで父親似じゃなくて良かったな!お前ら兄弟が蒙武将軍みたいなでっけぇ男だったら、俺もみんなもきっとビビッて口聞いてなかったと思うぜ!」

「それ絶対に外で言ったらだめだよ?」

家臣たちが聞いたら卒倒してしまいそうな言葉だが、蒙恬も大笑いしていた。

やはり信は相手の心に土足で踏み込んで来る女だ。相手によっては無礼だと怒る者もいるだろう、しかし、蒙恬には彼女の無礼がいつも居心地良く感じられた。

まるで太陽のように、陰った心を照らしてくれる。彼女を慕う者が多いのは、きっとみんな同じ理由だろう。

戦場ではまるで嵐のように敵兵を薙ぎ払っていくのに、武器を持たぬ女子供には一切手を出さない。投降した敵兵たちにも危害を加えないという噂がたちまち広まり、飛信軍は他国からも随分と慕われているようだった。

大王嬴政も信とは親しい。きっと秦国のどこを探しても大王に無礼な口を利くことが出来るのは信しかいないだろう。だが、彼女の無礼な態度を、嬴政は何とも思っていないようだった。

話を聞けば弟の成蟜から政権を取り戻す時から既に信頼関係を築いていたそうだ。

時々、蒙恬はそのことに危機感を抱くことがある。

後宮には大王のために足を開く女性たちが大勢いるが、世継ぎを産む女性と、嬴政が心を捧げる女性は別に違いない。

そして後者の女性が信だとしても、何らおかしくはないことだろう。それほどまで嬴政と信の仲は深いのだ。

大王の剣として、秦国の大将軍の座に就いている信だが、一歩離れて見れば男と女だ。そういう関係になったとしてもおかしくはない。

二人が恋仲であるという話は聞かないが、もしそんな噂が広まったとしたら、確実に信憑性が伴ったものになるだろう。

(前途多難…ってね)

蒙恬は肩を竦めながら酒を口に運んだ。信に想いを寄せている者など、自分を含めて大勢いる。

下僕の出であるせいか、良い意味でも悪い意味でも彼女は自分の立場を気にせずに相手に意見を申すのだ。

大王である嬴政を始め、自分よりも立場の高い者でも低い者でも、構わずに声を掛ける。どうやらその姿に心を打たれる者も多いらしい。

彼女が率いている飛信軍の兵たちの半分は、彼女に憧れを抱く者、あわよくば彼女と添い遂げたいと感じている男どもの集まりだ。

しかし、信本人はそのことに微塵も気づいていないだろう。そして蒙恬が想いを寄せていることにも。

もしも蒙恬の想いに気づいていたら、二人きりで酒を飲み交わす場など設けるはずがない。

戦場に身を置くことに才能の全て費やしたと言っても過言ではないほど、信は鈍い女だった。

もし、信が将軍にならなかったとしたら、今頃は誰かに嫁いでいたのだろうか。養子であるとはいえ王騎と摎の娘だ。王家の者として、嫁ぎ先など数多に違いない。

将軍の立場であっても、彼女に縁談を申し込む男も多いと聞く。ことごとく断っている話を聞けば、信は将軍以外で生きる道を考えていないようだ。

「ふはー。美味ぇな」

「そうだね」

酒が回って来たのだろう、信の頬が紅潮している。

同じ量を飲んでいても、すきっ腹に流し込んだはずの蒙恬はちっとも酔っていなかったのだ。

しかし、酒の酔いを演じて、深入りしても叱られないだろうと考える。

せっかく二人きりで酒を飲み交わしているのだ。この時間を利用しない手はない。

過去

「…信はさ、将軍以外の道で、生きるつもりはなかったの?」

「あ?」

不思議そうに信が目を丸めている。蒙恬はにこりと微笑んだ。

「だって、好きな人の子どもを産むって、女性にしか出来ない大役じゃん。もしも今、将軍じゃなかったら何してたのかなって考えたりしないの?」

んー、と信が酒を飲みながら考える。

それから杯を台に置くと、信は「聞いて驚け!」と偉そうに腕を組んだ。

「俺はな、下僕として生きていた頃も、拾われてからも、絶望的に仕事が出来なかった!」

「えっ?」

まさか下僕時代の話をされるとは思わず、今度は蒙恬が目を丸める番だった。しかし、下僕時代の話を聞くことが今まであまりなかったので、興味はある。

皿を割った枚数の自慢から始まり、床掃除ではいつも水をぶちまけるなど…、信がよっぽど下仕事に向いていないということが分かった。幼い頃の信はとにかく不器用だったらしい。

「仕事が出来ない分、武器を振るう方が性に合ってたんだよ」

ふうん、と蒙恬が頷く。

「俺に箒を持たせたら、備品がいくらあっても足りないって、王騎将軍によく褒められてたんだぜ」

「全部壊したってことね」

幼い頃の信の姿が容易に想像が出来て、蒙恬は思わず笑ってしまった。蒙恬が笑ったことに、なぜか嬉しそうに信も笑いながら言葉を続ける。

「その点、輪虎にはバカにされたなあ」

「…輪虎?」

しばらく聞かなかった名前が出て来たことに、蒙恬の眉間に僅かに皺が寄る。蒙恬の表情が変わったことに気付くことなく、信は笑いながら話を続けた。

「そう!あいつ、廉頗将軍に拾われてからは屋敷の仕事を任されてたんだけど、その合間で兵たちの稽古や喧嘩を見て、誰に教わるでもなく、自分で学んでたんだってよ」

器用だよなあと信が呟いた。

輪虎は、先の戦で信が討ち取った、廉頗四天王の一人だ。

王騎と廉頗が戦友であったことから、信は幼い頃から王騎に連れられて廉頗の屋敷に行くことがあったのだという。

熱っぽい瞳で話す信を見て、蒙恬は奥歯を噛み締める。

廉頗と蒙驁が総大将とした戦が行われたのはもう随分の前のことだ。

蒙恬は輪虎に辛酸を嘗めさせられたことは今でも覚えている。輪虎自身も強いだけじゃなく、軍略も凄まじかった。

楽華隊が輪虎軍の兵たちを蹴散らし、その間に信が輪虎を討ち取ったのだが、彼女自身も輪虎との一騎打ちで深手を負った。

宿敵ともいえる輪虎の名前が、どうして彼女の口から出て来るのか。

一騎打ちで輪虎に勝利した後、信は彼の首を取ることなく、亡骸を廉頗に引き渡したのだ。そのことには兵たちからは大いに賛否両論あったが、信に迷いはなかった。

泣きながら輪虎の亡骸を抱きかかえていた姿も、蒙恬は覚えている。あの時、彼女の頬を伝っていたのは雨ではなく、涙だった。

過去 その二

仕える国も主も違う将同士。いずれは敵として戦場に立つ日が来るのを信も輪虎も分かっていたに違いない。

しかし、その運命から逃げることはせず、二人は死闘を繰り広げた。そして結果的に、生き残ったのは信だった。

言葉にしてしまえば他愛のないことだ。しかし、輪虎との過去が無くなった訳ではない。

いつまでも信の心に彼との思い出は残り、そして信は彼の命の重みを背負って、これからも戦場に出るだろう。

「………」

信は目を細めて、懐かしむように自分の右腕を見つめている。

そこには戦場で刻まれて来た傷跡がいくつもあったのだが、その中でも、一つだけ深い切り傷がある。

今はもう痛みもなく、剣を持つのにも支障はないと言っていたが、その深い傷をつけた者こそ、輪虎だった。

信の処置に当たった医師団の話だと、骨が覗くほど深く斬りつけられていたのだという。

副官の羌瘣が持っていたという秘薬を使用したことで大事には至らなかったと聞いた。しかし、そのまま傷が治り切らず、腕が腐り落ちたとしても何ら不思議ではなかったそうだ。

きっと輪虎は信の右腕を斬り落とすつもりで剣を振るったに違いない。

もしも、その斬撃が腕ではなくて首に向けられていたのなら、いくら信であっても絶命していただろう。

蒙恬は傷痕から意識を逸らさせるように、そっと信の右腕を掴んだ。

「ん?」

きょとんと眼を丸めた信が蒙恬を見つめる。

信の意識が傷痕に向けられたままだったなら、きっと彼女は輪虎との思い出に浸っていたに違いない。

今、彼女の傍にいるのは自分だというのに、他の男との思い出に浸られるのは、嫌悪感に苛まれた。

それが嫉妬という名の感情だとしても、蒙恬は信を今は亡き男に渡したくなかったのである。

「山陽の戦いは、色々大変だったな」

信の腕からそっと手を放し、不自然にならないよう、蒙恬はさり気なく話題を切り替えた。
思い出したように、信が「あっ」と声を上げる。

「そういや、俺、山陽の戦いの前夜に、蒙驁将軍に会ったんだぜ」

「えっ?そうなんだ」

山陽の戦いでは、蒙驁が秦の総大将を務めていた。飛信軍も前線で大いに活躍してくれていたが、その作戦会議でもしていたのだろうか。

「蒙驁将軍がよ、一般兵の格好してて、ぼーっと空を見上げてたんだよ。俺、気づかないで踏んづけちまって」

笑いながら発せられた信の話には、孫の蒙恬の全く知らない祖父の姿があった。

あれだけ目立つ体格をしていた蒙驁だったが、なぜか信は蒙驁本人であると気づけなかったらしい。

一体どうして正体を見抜けなかったのかは分からないが、それより気になるのは祖父のことだ。

蒙驁は一般兵に紛れて、何をしていたのだろう。

「…じいちゃん、空なんか見て、何してたの?」

蒙恬が話の続きを促すと、信は頬杖をついて、その時の情景を思い出していた。

「喧嘩の相談されたんだよ。でも、あれって今思えば、廉頗将軍のことだったんだな」

「え?」

祖父である蒙驁と廉頗の関係性は、蒙恬も知っている。

それほど廉頗に強い敵対心を抱いているようには見えなかったのだが、それは蒙驁が周りに沿う振る舞っていただけなのだと、信の言葉を聞いていくうちに理解できた。

一度も勝ったことのない相手に勝利することが自分の目標であり、夢なのだと、蒙驁は信に自分と廉頗の名を語らずに話したそうだ。

「…そうなんだ」

祖父のそんな一面を知ったのは初めてのことだった。蒙恬の瞳に憂いの色が浮かぶ。

生まれた時からずっと優しい祖父だと慕っていたのに、血の繋がりもない信に、そんな悩みを打ち明けたのかと思うと、複雑な気分になった。

「…俺、じいちゃんに可愛がってもらってたけど、そんな姿、一度も見せてもらったことなかったな」

皮肉っぽく言うと、信が小さく首を横に振る。

「俺だって偶然通りかかっただけだぞ。…あんまり、身内には見せたくなかった姿だったんじゃねえのか?蒙恬だってあるだろ、そういうの」

まさか信に諭されるとは思わず、蒙恬は苦笑を浮かべた。

「お前のこと、すげえ大事にしてただろ。心配かけたくなかったんじゃねえのか?」

身内だからこそ、語らなかったのだと信は言った。

確かに優しい祖父のことだ。幼い頃から可愛がってくれていた孫に、心配を掛けまいとしていたのかもしれない。

祖父の優しい顔が瞼の裏に浮かび上がると、腑に落ちたように頷いた。

祖父との約束

「そういえば…結局、じいちゃんとの約束、果たせなかったな」

空になった杯に酒を注ぎ足しながら、蒙恬が呟いた。

「約束?」

「そう」

蒙恬がわざと明るい声色を繕って言葉を続ける。

「じいちゃんが生きてる間に、お嫁さんとひ孫を見せてあげるって言ったんだ」

口元に杯を運んでいた信がぎょっとした表情になる。

まさかそんな顔をされるとは思わず、蒙恬は思わず笑ってしまった。

「ひどいな、何その反応」

「い、いや…そんなこと約束してたのか」

狼狽えている信に蒙恬は頬杖をついた。

自分たちの年齢ならば、婚姻を結ぶことも、子どもが生まれていても、別に珍しい話ではない。家の関係で、幼い頃から許嫁を決められることだってある。

「信は?いくつも縁談断ってるって噂で聞いたけど」

「ああ、でも、まだ…そういうのは…」

養子とはいえ、天下の大将軍である王騎と摎の娘だ。さらには飛信軍を率いる女将軍ということもあって、その名は今や、秦国だけでなく中華全土に広まっている。

下僕出身であることから、低い身分の者たちからも大いに支持を得ており、彼らにとって信は憧れの存在でもあった。

裏表のない性格や、武器を持たぬ女子供や投降兵たちの命を奪わないことから、彼女を慕う者は多くいるらしい。縁談の話が来ない訳がなかった。

信の歳の娘でも、早い者ならもう嫁いで子を産んでいる。だが、彼女は秦王嬴政の信頼も厚く、容易に大将軍の座を空ける訳にはいかないのだろう。

確かに縁談を断る理由として理に適っているが、そうだと言わずにやたらと言葉を濁らせる信に、蒙恬は何か別の理由があるような気がしてならなかった。

「もしかして、良い相手でも見つけた?」

「へっ?」

そんなことを問われるとは思わなかったのか、信の顔が耳まで赤くなっている。それが酔いから来ているものではないと蒙恬にはすぐに分かった。

「べ、別に、そういうんじゃ…」

「…ふーん?」

頬杖をつき、蒙恬が横目で信の様子を伺う。

裏表のない性格である彼女が嘘を吐けないのは分かっていた。相手を騙すことも出来ないなんて、随分と損な性格だ。

顔を赤くしたまま俯いている彼女の視線の先には、傷だらけの右腕があった。

輪虎との戦いで負った深い傷跡を見つめているのだと分かり、蒙恬は目を見開く。

まだ信の心には輪虎の存在が強く根付いている。それが許せず、蒙恬は強く拳を握りしめた。

叶わぬ婚姻

「……好きなの?」

弾かれたように信が顔を上げる。

「へっ?な、なにが?」

「輪虎のこと。今も好き?忘れられない?」

信が聞き返すと、蒙恬は矢継ぎ早に問いかけた。

問われた信は口元に手を当てて、うーんと小さく唸る。蒙恬が抱えている苛立ちには微塵も気づいていないようだった。

「…そりゃあ、好きか嫌いかって言ったら、好きだぞ?」

大して迷いもせず答えた信に、蒙恬の胸の中に黒いものが広がっていく。

輪虎によってつけられた傷痕に、熱っぽい眼差しを向けていたことから、その答えは予想出来ていたのだが。

しかし、蒙恬のそんな想いも知らずに、信は頬杖をつき、昔を懐かしむように、遠くを見つめている。

どうして目の前に自分がいるというのに、自分以外の何かを見ているのだろうと蒙恬はやるせない気持ちに襲われた。

「…俺は王騎将軍と摎将軍に拾われて、あいつは廉頗将軍に拾われた孤児だ。すっげえ人たちに拾われた境遇も、そこから将軍になる過程も一緒で、…まあ、兄妹みたいなもんだろ」

「………」

兄妹のような関係と聞いて、男と女の関係がないことが分かった蒙恬は僅かに安堵した。

「…あいつにはさ、本当の妹がいたんだ。だが、廉頗将軍に拾われる時には妹は死んじまってたらしい。…酔っぱらった時に俺に話してくれたんだ。もしかしたら、輪虎は俺のことを妹と重ねて見てたのかもしれねえな」

優しい目をしている信に、蒙恬は唇を噛み締める。

男女の関係に至らなかったとしても、その眼差しを見れば、彼女が輪虎へ想いを寄せていたことが分かった。

縁談を断る理由もそこにあるのだと思うと、蒙恬はいたたまれない気持ちになる。

「…信はさ…輪虎のこと、兄以上に想ってたんじゃないの?」

「は?」

意味が分からないと言った顔をした信に、蒙恬は苦笑を浮かべながら言葉を続けた。

「だって、輪虎の話をする時の信の瞳が、完全に恋する乙女だったから」

普段のように「何言ってんだよ」と切り返してくれれば、この話題はもう終わろうと思っていた。

しかし、信は熱っぽい瞳で、蒙恬ではない誰かを見つめている。

「…そうだな。…きっと、そう、だったんだと思う」

輪虎への愛情を肯定する言葉に、蒙恬の中で何かがふつりと切れる音がした。

台に載せていた酒瓶と杯が、がちゃんと派手な音を立てて転がった。

気付けば蒙恬は信の体を押し倒していた。床に背中を打ち付けた信が苦悶の表情を浮かべている。

「な、に…して…」

床に両手首を押さえつけられて、体を組み敷かれているのだと分かると、信が戸惑ったように目を瞬かせている。

「あー…ごめん。俺、女の子には酷いことしないって決めてるんだけどさ…ちょっと無理かも」

呆然としている信の顔を見下ろして、蒙恬が口元を緩ませた。

 

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