キングダム

セメタリー(李牧×信)後編

キングダム セメタリ―3 李牧 信 牧信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

昔話

李牧が宮廷から屋敷に戻った頃には、既に陽が沈みかけていた。

従者に馬を預け、すぐに信のいる部屋へ向かうと、留守を任せていた慶舎が扉の前に立っていた。手の甲に蜘蛛を歩かせて遊んでいる。

鍵を外してしまったこともあり、扉の前で立ち塞がって鍵代わりになってくれていたらしい。本当に良く出来た律儀な弟子だ。

師である李牧が帰宅したことに気付くと、慶舎はゆっくりと顔を上げた。

「李牧様。あの娘、また脱走しました」

「おや、随分と元気なのですね。安心しました」

扉の前に立ちはだかりながら報告するということは、今回も無事に脱走は阻止されたのだろう。

今頃は部屋の中で泣いているに違いないと思ったが、すすり泣く声が聞こえなかったことから不貞寝しているのだろうと考える。

「李牧様」

手で蜘蛛と戯れながら、慶舎が李牧に声を掛けた。

「なんですか」

「…人を愛するとは、好きになるとは、どういうことなのでしょう」

まさか弟子からそのようなことを問われるのは初めてのことだったので、李牧は驚いた。

戦に関すること以外は、良い意味で損得勘定を持たぬ慶舎が人の感情について尋ねるとは珍しい。

「…なぜ、そのようなことを?傅抵にでも何か言われたのですか?」

普段から色話をするのも聞くのも好きな傅抵ならば、思い当たる節はあるのだが、慶舎が自分に尋ねるというのは、よほどの好奇心が彼を動かしているということだ。

「いえ。秦の、あの娘に」

「信が?」

扉の方を見やりながら慶舎が言ったので、李牧はまたしても目を丸めた。

「彼女が、あなたに何を?」

「…“ただ黙って脚を開くのは、好きになることではない。そんなのは、娼婦と同じだ“と」

そんな風に慶舎に話していたのか。李牧は苦笑を浮かべることしか出来なかった。

「李牧様があの娘を愛しておられるのは承知しております。しかし、なぜあの娘が李牧様を愛さないのか、理解出来ないのです。これほどまでに李牧様から寵愛を受けているのに、一体なぜ」

幼い頃、両親を目の前で殺されたという慶舎には、感情というものを理解する力が他者より乏しい。それは軍略に長ける彼の弱点とも言える。

李牧はまるで慈しむような優しい瞳で微笑んだ。

「軍略と同じで、人を愛することには色んな形があるんです。ただ、あなたは絶対に真似をしてはいけませんよ」

趙の未来を想ってこそ、自分が知り得る軍略なら惜しみなく授けよう。しかし、この愛し方だけは絶対に真似をさせる訳にはいかなかった。

ただ、この弟子には自分と近いものを感じる。それは、欲しい物を手に入れるためならばどんな手段も厭わない強欲な一面があることだ。

李牧は、愛しい女を手に入れるために自分が行って来たことを、一度も間違いだと思ったことはない。

しかし、その方法はあまりにも強欲過ぎたのだ。歴史を改変させてしまうほど、李牧の想いは揺るぎなく、そして強かった。

本当に相手のことを想うのならば、この手段はあまりにも残酷過ぎる。それでも李牧がこの道を選んだのは他でもない彼女との約束を守るためだった。

「…私も、不思議なんです」

瞳に寂しい色を浮かべながら、李牧が口を開いた。

「彼女から微塵も愛されていないと理解しているのに、彼女を手に入れたことに幸せを感じている。…彼女と会った時に、私は、狂ってしまったのかもしれませんね」

「…あの娘と会ったというのは、戦場で、ですか?」

二人の出会いを知らない慶舎の問いに、李牧はゆっくりと首を振った。

「いいえ。私と慶舎が出会う前…まだ将として戦っていた時に、実は一度だけ彼女に会っているんです。家族も仲間も、守るべきものを全て失い、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだった私を、信は手厚く介抱してくれたんです」

あの恩は一生忘れません、と李牧が呟いた。

長い付き合いである弟子や側近たちでさえ知らない過去を知り、慶舎は何度か瞬きを繰り返した。

「……なぜ、そのことをあの娘は覚えていないのです?」

信は自分が将軍にならなければ李牧に見初められることはなかったと話していた。李牧に手厚い看病をしていたというのに、まるでそのことを知らないような口ぶりだったことに、慶舎は疑問を抱く。

しかし、李牧は当然のように答えた。

「十年以上も前のことですし、初めて会った当時の彼女はまだ子供でした。…どうやら、王騎の手厳しい修行の最中だったようです。彼女も厳しい修行をこなすのに必死だったんでしょう」

その時のことを思い出したのか、懐かしむように李牧が頬を緩めた。

「…まさか、あの時の少女が秦の大将軍にまで成長するなんて、当時は思いもしませんでした。そして私も、趙の宰相になり、敵として再会することになるなんて、想像もしていませんでした」

「………」

伏し目がちに、李牧が言葉を続ける。

「春平君が呂不韋によって拉致され、秦趙同盟を結んだあの日…宴の席で信と出会って、すぐにあの時の少女だと分かりました。でも、残念ながら、彼女は何も覚えていなかったんです。私と交わした約束のことも、何もかも…」

「………」

何も答えず、微塵も表情を変えず、慶舎はじっと李牧のことを見据えている。視線に気づいた李牧は困ったように肩を竦めた。

「ふふ、こんな話を聞かせてしまってすみません。…でも、彼女と再会したことに、私は何か縁を感じてどうしようもなかったんですよ」

「………」

「たとえ、信が二度と笑顔を見せてくれないとしても。私は、欲張りですから、誰にも彼女を渡したくなかったんです」

強欲。それが李牧が信を手に入れるために秦を潰した何よりの原動力だ。

「…きっと私は、彼女よりも先に逝くでしょう。国の命運と同じで、寿命は変えられませんからねえ」

あはは、と李牧が笑う。

「でも、私はとても意地悪なんです。寿命が来て、私が信の傍を離れることになっても、彼女を解放したくありません。だから、彼女がいつだって私を思い出せるように、子を孕ませたのですよ」

「聡明なお考えかと」

嫌味でもない、社交辞令でもない、何の感情も籠っていない慶舎の言葉に、李牧は少しだけ救われた気になった。

「そんなことを言ってくれるのは慶舎だけですね。カイネや傅抵たちに言えば、きっと軽蔑されてしまいますから」

李牧の大きな手が慶舎の頭を優しく撫でた。

それから彼は一度も振り返りもせず、信がいる部屋の扉を開けて中へ入るのだった。

 

旧時

―――袖の中に死骸の耳を詰め込んだ後、幼い信は長い時間を掛けてようやく崖を登り切った。

突き落とされるのは簡単だが、崖を登るのはかなり至難の業だ。子どもの身軽さを持ってしても、苦難の連続である。

幾度も滑り落ち、爪は剥がれ、数え切れない擦り傷が出来た。ようやく崖を登り切ったところで、信はやっと帰れるのだと思うと、安堵のあまり、大声を上げて泣き喚いてしまった。

崖に落とされた時は愕然とするばかりだったが、一度も涙は流さなかった。

どこの国かも分からない兵たちに襲われて剣を振るい、その命を奪った時も信の心は既に麻痺をしていたのだ。

握り締めた柄越しに感じた肉と血管を絶つ嫌な感触。それを今になって思い出し、信は胃液を吐いた。

思えば人を殺すのは初めてだったのだが、他に自分を助けてくれる者はいないのだと思うと、そんなことには構っていられなかったのだ。

ようやく帰れるという安心感に包まれたことで、あの森で過ごしていた数日が、いか日常を逸脱していたものかを痛感する。

あの森にいた兵たちの人数など、戦場に立つ父と母にしてみれば生温いことだろう。

鍛錬用の木刀を振るい、目に見えぬ敵をいくら切ったところで、それは何の力にもならないのだと信は改めて思い知らされた。

実践を重ねた数だけ、死地を乗り越えて来た数だけ、それは確実に力となる。それはまさに父と母の六大将軍と称される強さを裏付けるものだった。

涙と吐瀉物で顔をぐちゃぐちゃにしながら、尚も泣き続けていると、上から大きな影が現れて信の体を包み込んだ。

「ココココ。思ったより早かったですねェ」

父だった。彼の体格に見合った大きな凰という名の馬から降りる。娘の着物と背中に携えている剣は血に塗れていたが、屋敷に帰る条件として与えたものは何処にも見当たらない。

「…十人討ち取った証はどうしたのです?それがなければ屋敷には入れませんよ」

信は涙を拭うこともせず、着物の袖から十人分の耳を取り出し、地面に並べた。全て左耳であることから、十人とも別の人間であることを理解し、王騎が満足そうに「ンフゥ」と微笑んだ。

「あなたのことだから、てっきり十人分の首を担いで来ると思っていたのですがねェ」

「十人の首担いで崖なんか上がれねえだろッ」

それまで幼子のように泣きじゃくっていた信がようやく普段の自分を取り戻したかのように、目をつり上げて父を睨み付けた。

「信!」

少し離れたところから女性の声がして、信は反射的に振り返る。こちらに馬を走らせている母だった。

ずっと心配してくれていたのだろう、今にも泣きそうに顔を歪めている母の顔を見ると、信の瞳から引っ込んだはずの涙が溢れ出て来る。

馬から転がるように降りて来た摎が、自分の着物が汚れるのも構わずに娘の体を抱き締める。

「よく頑張った…本当に、よく、生きていてくれたね…」

母の腕と愛に包まれ、信はそれまで張り詰めていた糸がふつりと切れ、再び大声を上げて泣き喚いた。

本当は怖くて堪らなかったのだ。弱い自分がたった一人で生き抜くことなど出来るのかと不安で堪らなかった。

摎は信の気持ちを受け止めるかのように、ずっと娘の体を抱き締め続けていた。

…やがて、泣き疲れて摎の腕の中で眠りに落ちた信を見下ろし、王騎がようやく彼女の頭を撫でた。

「素直に抱き締めてあげたらどうです?崖から突き落としておいて、王騎様だって心配していたくせに」

細い体に見合わず、摎は娘の体を片手でひょいと担いで馬に跨った。

まるで虎の親子のように、崖から娘を蹴落とした王騎だったが、娘がいつ帰って来るのか一番気になっていたのは王騎本人だったのだ。

いつもこの場所まで馬を走らせては、崖の下を覗き込み、信が上がって来る気配を探っていた。声を掛けた訳でもなかったのだが、摎も必ず一緒だった。

「信に嫌われても知りませんよ」

愛馬の凰に跨った王騎が、妻の言葉にココココと独特な笑い声を上げる。

「摎」

「はい」

「…あの簪、良かったのですか?」

眠っている信の髪に差していたはずの簪がなくなっていることに気付いたのは、摎だけではなく、王騎もだった。

摎は少しの沈黙した後、ゆっくりと頷いた。

「…ええ。きっと、あの簪に宿る王騎様の想いが、信を守ってくれたのでしょう」

そう言って微笑んだ摎の瞳には、哀愁のようなものが浮かんでいた。

信の髪に差していたのは、摎が王騎と婚姻をする時に、王騎から授かった物だった。

男が女に簪を渡す意味を知っていた摎は、王騎と婚姻をする約束であった百個目の城を落とした時より歓喜したことを覚えている。

宝物のように扱っていたその簪を、摎は此度の修行が始まる時に、娘の髪に差してやり、無事に帰って来るよう祈っていた。

突き落とされた崖の下では、多くの者と戦ったのだろう。傷だらけの身体と血塗れの着物と剣がそれを示していた。

信とは血の繋がりはない。しかし、養子として引き取ってからは本当の親のように慕ってくれている愛しい娘である。

親である自分たちの影響なのか、いつからか剣を振るい出した信の素質を見抜き、王騎は彼女を戦場へ連れ出すようになっていた。命がけの厳しい修行も、彼女が死地を生き抜くためには欠かせないものである。

…きっと、あの簪は戦いの最中で落としてしまったのだろう。

それでも、お守りとして渡していた物だったのだから、こうして無事に帰って来てくれただけで十分だ。

愛する夫からの初めての贈り物だったこともあり、未練がないといえば嘘になる。それでも娘の命には代えられないと摎は何度も自分に言い聞かせていた。

今となっては、簪よりも、この娘の存在が二人の宝なのだから。

 

悪夢

信はゆっくりと重い瞼を持ち上げる。視界に見慣れた天井が広がっており、自分はまだ悪夢の中にいるのだと信は溜息を吐いた。

慶舎に部屋へ連れ戻され、ずっと泣き続けていたせいで頭が痛む。泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。

(夢…?)

随分と昔の夢だった。朧げな記憶ではあるが、自分が初めて人を殺した時だというのは覚えている。

こちらは何もしていないというのに自分の身なりを見て、金目の物を奪おうとしたのか、子どもであっても容赦なく武器を向けて来た兵たちがいた。生き抜くために、両親の下へ帰るために、信は彼らの命を奪ったのだ。

剣の柄を通じて感じた肉と血管を断つ、あの嫌な感触。今では何とも感じなくなっていたが、当時の幼い自分には衝撃が強過ぎた。

記憶に靄が掛かっているのは、あまりにも辛かった記憶であるため、体が思い出さないようにしているのだろう。正気を保つための術なのかもしれない。

もう一つ覚えていることがある。不安と孤独に苛まれていた時に、傷だらけでぼろぼろだった一人の男を助けたことだ。

顔はよく覚えていないが、今思えば、兵たちに追われていた彼は、敗国の将だったのだろう。

―――すまない…全て、俺の責だ…全て…俺が…

意識のない彼が誰かに謝りながら涙を流している姿を見て、この男も辛い思いをしているのだということは子どもながらに理解出来た。

大人とは泣かない生き物なのだと子どもながらに思っていたが、それは違ったらしい。
この男も自分と同じように孤独に苛まれているのだと感じ、信は着物の裾を破って、男の傷口を止血し、水を飲ませて、出来る看病を行った。

自分がここで死ねば、この男もじきに死ぬ。

両親のような大将軍になりたいと大口を叩いておきながら、目の前にある弱い命を救えずに、本当に将になるつもりなのかと信は自分に問うた。

男が何者なのかは結局わからなかったし、顔も名前も覚えていない。しかし、彼のおかげで信はあの厳しい修行を生き抜くことが出来たのだ。

「―――!」

扉が開く音がして、信は反射的にそちらに目を向ける。李牧だった。

城の建設や守備の手配で激務な日々を送っている彼と最後に会ったのは一体いつだっただろう。確か赤子が初めて腹の中で動いた時だっただろうか。

「顔色は良さそうですね」

目が合うと、彼は相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべて、こちらへ近づいて来た。寝台の端まで身を捩り、信は李牧のことを睨み付ける。

威嚇する子猫のような態度が可愛らしく、李牧は思わず笑ってしまった。挑発するつもりは一切なかったのだが、その笑い声に、信の目がますますつり上がる。

「ぅ…」

その時、腹の内側をゆっくりと抉られるような、何とも言い難い感触がして、信は思わず呻き声を上げた。咄嗟に膨らんでいる腹に手を当てると、赤子が中で動いているのが分かる。

寝台に腰掛けた李牧がその手を伸ばして彼女の腹に触れる。胎動を感じたのか、李牧の目が嬉しそうに細まる。

「今日、趙王にも報告をしたのですよ。この子の名前を考えてくださるそうです」

「っ…!」

触るなとその手を払いたかったのだが、睨み付けることしか出来ないのは、李牧に全てを奪われたことに対する恐怖が怒りよりも上回っているからだ。

相国という立場まで上り詰めた男ならば、王族のように、妻が何人いてもおかしくはない。だというのに、李牧は信だけを妻に迎え入れ、子を孕ませた。

それは信を逃がさないための足枷を作るためだけの行為であり、恐らく赤子に対しての感情など持っていないに違いない。

だからこそ、李牧の機嫌一つでこの尊い命も簡単に奪われてしまうのではないかと思うと、信は恐ろしくて堪らなかった。

心が彼に屈し始めていることに、信は気づいていない。

「…信」

優しい声色のはずなのに、信には恐ろしい響きだった。

袖の中から何かを取り出した李牧が、信の手の平にそれ・・を握らせる。

「ようやく、あなたにこれを返すことが出来ました」

赤い宝石が埋め込まれた金で出来た簪にはひどく見覚えがあり、信は目を見開いた。

「…この、簪…」

顔から血の気を引かせて震え始める信を見て、李牧は思い出に浸るように目を伏せる。

「…昔、命の恩人から頂いたものなんです。頂いてからは、ずっと、私のお守りでした」

お守りという言葉に、信の頭がずきりと痛んだ。

―――綺麗でしょ?

確か亡くなった母もその言葉を使って、これとそっくりな簪を大切に扱っていた。

大切な物なのだと言っていた母の笑顔が瞼の裏に浮かび上がる。

その簪が王騎から初めてもらった贈り物だというのを知ったのは、信があの修行を終えてからのことだった。

何も知らずに信は剣を振るう時に邪魔だからと男に渡してしまい、ひどく後悔したことを覚えている。しかし、父も母も簪を失くしたことを責めることはなかった。

信が生きて帰って来てくれたのは、きっとあの簪のおかげなのだと母は言っていた。

簪を渡してしまったことを素直に告げるべきか信は悩んだが、両親の気持ちを考えると、どうも後ろめたさがある。そのせいで、信は修行中に一人の男を助けたことも、その男に大切な簪を渡してしまったことも言えなかった。

あの時に助けた男の顔の名前も覚えていないのだが、父が母へ贈った大切な物だと知らずにその簪を渡してしまったことだけは、未だに信の心の中にわだかまりとして残っていた。

龐煖によって両親の命が奪われ、信も戦場に出るようになってからはすっかり忘れてしまっていたのだが…。

懐かしい夢を見ただけでなく、二度と取り戻せないと思っていたその簪がまた目の前に現れたことで、信の記憶の糸が一気に引き戻された。

 

楽園の墓場

生唾を飲み込んで、信は簪と李牧を交互に見た。

まるで信の想像を肯定するように李牧が微笑んだので、その瞬間、確かに信の中で時間が停まった。

「ま、さか…」

頭が割れそうに痛み、信は両手で頭を押さえる。何の感情か分からない涙が溢れて止まらない。

青ざめている信を見つめながら、李牧は優しい声色で言葉を続けた。

「…あなたと昔出会ったのは森の中でした。すぐ近くに川があって、あなたは息も絶え絶えの私に、水を口移しで飲ませてくれた」

「……、………」

昔話でも言い聞かせるかのような穏やかな口調で話し始める李牧に、青ざめた信が首を横に振る。

―――頼む。やめてくれ。それ以上言わないでくれ。もうこれ以上自分から何も奪わないでくれ。

驚愕のあまり、喉が塞がってしまい、李牧に制止を求めることも出来ない。

頭を掻き毟りながら、認めたくないと首を横に振っている信を見ると、李牧がくすくすと笑った。

「秦趙同盟の宴で再会した時は、何も覚えていなかったのに、ようやく思い出してくれたのですね」

「……、……、……」

嘘だ、と信の唇が戦慄く。しかし、その言葉は声にならなかった。

李牧の指が信の涙を優しく拭う。どれだけ拭っても、涙は溢れて止まらなかった。

「…俺が、助けた、せい…で」

振り絞った声は情けないほど震えていた。涙に濡れている信の瞳から、意志の光が失われていく。

幼い頃の自分は、なぜこの男を助けてしまったのか。

自分がこの男を助けなければ、父が討たれることも、秦が滅ぶこともなかった。

信の言葉を聞いた李牧が、自分の口元に手をやる。それは彼が何かを考える時の癖だ。

「…結果論で言うと、そうですね。あの時、あなたが私を見捨てておけば、王騎は死なず、秦は滅ばなかったに違いありません」

「―――ッ!」

自分の過ちが認められたことに、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

嫌な汗が止まらず、がたがたと震え始める彼女を見て、李牧は慰めるように背中を擦ってやる。

衝撃のあまり、上手く呼吸が出来ずにいる信に苦笑を浮かべながら、李牧は残酷なまでに、無慈悲な言葉を続けた。

「全ては、私を生かしたあなたの責です」

もはや李牧の言葉は、信の耳に届いていないのかもしれない。

虚ろな瞳を見開き、涙を流し続けている信の肩を抱いた李牧は、彼女の耳元に唇を寄せた。

「…ですが、このことを知っているのは私とあなただけ。このまま二人の秘密にしておきましょう?」

肩を抱いていた手を滑らせ、李牧は信とお互いの小指を絡ませ合う。

「ぅ、あ…」

もう信を責める者はどこにもいないというのに、守るべき国を、仲間を、全てを失った彼女の心は罪の意識に苛まれていた。

なぜ自分だけが生きているのかという罪の意識に、信は寝台の上で泣き崩れた。

「ぁあああああああッ!」

もう彼女には抵抗する気力など微塵も残っていないようだが、自分自身が祖国を滅ぼす元凶だと知った今なら、赤子の命など構わずに命を断とうとするだろう。この場に刃物があったなら、きっと迷うことなく彼女は自らの首を斬っていたに違いない。

もしかしたら食器や備品を割って、自ら首を掻き切ろうとするかもしれない。万が一のことを考えて、今日からは両手を拘束しておこうと李牧は考えた。

「…信」

「ぅあぁっ、ぁあっ…」

名前を呼んでも信は泣きじゃくるばかりで返事もできずにいる。恐らく李牧の声は彼女の耳に届いていないのだろう。

「私はあなたに、あの日の恩・・・・・を返しに来たんですよ」

そう囁くと、李牧は腹に負担を掛けないように、優しく信の体を抱き締めた。

秦との戦に勝利した後、趙へと向かう馬車の中でも彼女の体を好きに扱ったが、今になってようやく彼女を心身共に手に入れた実感が湧いた。

「…百倍、いや、千倍ですね。約束通り、欲張りなあなたに恩を返すために、私は生き続けて来ました」

嗚咽を零す信の背中を何度も擦ってやりながら、李牧は歌うように言葉を続ける。

「将軍として死地に立ち続ければ、あなたはいずれ殺されてしまう。…だから、あなたをそこから救い出すことが何よりの恩返しだと思ったんです」

二度と死地に立てないようにすることが、信から大将軍の座を奪うことが、滅ぶ運命にあった秦から救い出すことが、彼女に命を救われた李牧の考える返礼だった。

たとえそれが信が望まないものだとしても。もう二度と、彼女が自分以外の誰かに傷つけられる日は来ないのだ。

「愛しています、信」

心からの愛の言葉を囁いて、李牧は彼女に唇を寄せる。

李牧にとってはここが楽園であり、信にとっては死に場所でしかなかった。

 

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