キングダム

エタニティ(王賁×信←王翦)後編

キングダム 王賁 信 賁信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/王翦×信/甘々/嫉妬深い/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

一ヶ月後

それから、あっという間に一月が経過した。

あの宴の日から、王賁は一度も信と会っていない。

今までは喧嘩をしても、信が一晩眠れば嫌なことをけろっと忘れてしまう性格だったこともあり、特に仲直りという儀式を設けなくても普段通りに接することが出来ていた。

しかし、今回に至ってはそういう訳にもいかないのだろう。

王翦と婚姻が無事に終わった暁には一体どんな顔をすれば良いのか、王賁はまるで分らなかった。

毎晩、休もうと横になっても、信とまぐわった光景が瞼の裏に浮かび上がる。

この寝台で彼女の体を隅々まで愛したあの夜の記憶が、王賁の中に強く根付いていた。

いつの間にか信の温もりを探していて、一睡も出来ずに朝を迎える日々が続いており、王賁は誰が見ても疲労困憊状態だった。

瞼の上に睡魔は重く圧し掛かって来るのだが、いざ瞼を下ろすと信のことを思い出して、睡魔が消え去ってしまうのだ。

ふらふらの状態でも槍の鍛錬を欠かさない主を、家臣や兵たちは大いに心配していた。

見かねた番陽が「一日で良いからお休みください」と槍を置くよう王賁を説得するのだが、今の王賁にとっては体を動かしていた方が楽だったのだ。

信のことを考えずに済む時間を設けないと、苦しくて身動きが出来なくなってしまいそうになる。

 

戦友

そんな日々が続いていたある日、蒙恬が王賁の屋敷を訪れた。

恐らく関常辺りが手配したのだろう。それでいて、休ませるように説得してくれと頼まれたに違いない。

屋敷の広い庭で、王賁は相変わらず槍を振るっていた。相変わらずだなと蒙恬が肩を竦める。

「せっかく祝い酒持って来たのに、俺一人で全部飲んじゃおうかな」

祝い酒という言葉に、王賁は槍の穂先を蒙恬に突きつけてやろうかと考えた。

ただでさえ眉間に皺が寄っていたのに、ますます皺が深まる。

「まったく…こんなにおめでたい話だっていうのに、賁くんはなんで怒ってるのかなー?」

手酌で酒を杯に注ぎ、蒙恬が苦笑を浮かべる。

「…あのバカ女の勝手が過ぎるからだろうが」

酒を口に含もうとしていた蒙恬がぴたりと動きを止めた。

「は?信が何かしたの?」

蒙恬の問いに何も答えず、王賁は奥歯を噛み締める。

何度か瞬きを繰り返してから、蒙恬が口を開く。

「…賁って、実は結構な女泣かせ?今までもそうだったの?」

王賁は槍の構えを解いた。

「何がめでたい話だ。よりにもよって、あの女…父との縁談を受け入れるなど…」

「………」

蒙恬はなぜ王賁が怒っているのか合点がいったようで、「ははあ」と頷いた。

「王翦将軍と信が、ねえ…」

「父も父だ。なぜあの女を嫁にしようと思ったのか…」

「愛に年齢は関係ないんだよ、王賁」

蒙恬が言うと、妙な説得力があるから不思議だ。

しかし、王翦と信が愛し合っている図など微塵も想像が出来ない。

今自分がこうしている間にも、信は父の寵愛を受けているのかもしれない。

息子である自分の将軍昇格の時にも一声も掛けなかったあの男が、信には愛の言葉を囁いているのだろうか。想像するだけで反吐が出そうだった。

「で、信とはいつから会ってないの?」

「…先月の祝宴からだ」

酒で喉を潤した蒙恬があははと笑った。

「じゃあ、全然会ってないんだ?大変な時期なのに、信ってば、可哀相だなあ」

「………」

女好きの蒙恬はあくまで信の味方をするらしい。

これ以上、蒙恬の話を聞いても無駄だと思い、王賁は休めていた手で再び槍を握った。

「それじゃあ、つまり、王賁は信に興味失くしたってことで良いんだよね?」

腰を低く降ろして槍を身構えた時、蒙恬の言葉に王賁のこめかみにふつりと青筋が浮かび上がる。

その問いに王賁が返事をするよりも先に、蒙恬は満面の笑みを浮かべた。

「てことは、俺が信を嫁にもらっても問題ないってことだよね?」

「貴様…」

まさかの言葉に、王賁が憤怒する。

彼の憤怒を煽るかのように、蒙恬はけらけらと笑って言葉を続けた。

「だって信から破談を言い渡された・・・・・・・・・んでしょ?それでいて、落ち込んでる信を慰める大役までもらっちゃって、夫になるなんて…こんな美味しい話ないでしょ。今の信なら、きっと一晩かければ口説き落とせるよ」

相変わらず口の減らない奴だ。しかし、破談という単語を聞いた王賁が、些か呆気にとられた表情になる。

「…待て、何を言っている?なぜ俺が、あの女から破談を言い渡された立場になっている?」

当然の疑問を口にすると、蒙恬が杯に酒を注ぎ足しながら口を開いた。

「なぜって…あちこちで噂になってるよ?王翦将軍が、自分の息子と信を結婚させるって」

「――ッ!?」

これにはさすがの王賁も狼狽し、蒙恬の言葉を頭で理解するまでに、僅かに時間が掛かった。

(俺と信を結婚、させる…?)

おかしい。王翦が信に縁談を申し込んで、彼女がそれを受け入れたのではなかったのか。

王賁は全身の毛穴から一気に嫌な汗が噴き出るのを感じていた。

まるで敵の罠に嵌められて絶体絶命の危機に陥ったような、死地にいるような感覚だった。

―――王翦があちこちで話をしている。…信と家族になれるだなんて、良かったじゃないか。

あの時の宴で、飛信軍の副官である羌瘣が確かそう言っていた。

彼女の言葉を今改めて考えると、王翦と信が結婚するとは一言も言っていない。

信と家族になるというのは、王翦と彼女が結婚することで、自分が信を母と呼ばなくてはならないことを指しているのだと誤解していたのだ。

文字通り言葉を失い、顔面蒼白になっている王賁に、酒の酔いが回って来た蒙恬が大声で笑う。

「あははははっ!賁のそんな顔、初めて見た!…でも、いいよね?信から破談を言い渡されたんだから、この話はなかったことに…」

「なっていない!!」

感情が爆発し、王賁は握っていた鍛錬用の槍を真っ二つに折った。

本気で彼が怒っていることを察して、蒙恬の表情が強張る。

「くそっ、父上もあの女も…!一体なぜ、俺抜きで話を進めるッ…!」

王賁の言い分はいくつかあった。

王翦がどうして自分と信の結婚を広めていたのか。いつの間に自分と信の関係に気付いていたのか。信の耳にも結婚の話は入っているだろう。

同意の上で体を重ねたとはいえ、結婚の話など微塵も出していなかったのに、信は納得しているのだろうか。

そこまで考えて、王賁はあの宴で信が話していたことを思い出した。

―――…喜んでくれると、思ったのに…

信は、王賁との結婚を受け入れてくれていたのだ。

だというのに、自分は父と信が結婚すると勝手に勘違いして、彼女に酷い言葉を投げつけてしまった。

王賁は眩暈がして、膝から力が抜け落ちそうになった。

愕然としている王賁を見て、それまで笑っていた蒙恬の顔から表情が消える。

「…え?まさか本当に知らなかったの?」

返事をするのも億劫で、王賁は沈黙を貫いた。

「それじゃあ、なんで信が具合悪いかも知らないってこと?」

「は?」

具合が悪いとはどういうことだ。

あの宴の席では王賁に怒鳴っていたが、まさか体調が優れないのは、自分が酷い言葉を投げつけてしまったからだろうか。

罪悪感で胸が針に突かれたように痛む。

蒙恬がぐいと酒を飲むと、呆れたように肩を竦めた。

「妻のことも大切に出来ないような頑固男が、父親・・になるなんてねえ…」

皮肉っぽく話す蒙恬の言葉に、王賁ははっとする。

彼が夫ではなく、父親と言った理由に、まさかと息を飲んだ。

宴の席で、信は普段とは別人のようにめかし込んで来る。

王騎と摎からそう言った場の嗜みについては口酸っぱく言われていたのだと過去に言っていた。

そういえば、あの宴で信は普段以上に布をふんだん使った着物を着ていた気がする。まるで体の線を覆うような着物だった。

普段はきっちり巻かれている腰帯も緩めのものが使われていた。

加えて、手巾で口元を抑えていた彼女の姿を思い出し、王賁はいよいよ膝から崩れ落ちた。

「ちょっと、賁くん?大丈夫?」

心配そうに声を掛けるものの、蒙恬は手を貸そうとはしない。さらに追い打ちをかけるように、蒙恬は王賁に口を開いた。

「だから言ったじゃん、おめでたい話だって」

―――信は、王賁の子を身籠ったのだ。

気づけば王賁は駆け出して馬に跨っていた。

ほとんど無意識で、一刻も早く信に会わなくてはという想いだけで王賁は動いていた。

蒙恬が酒を飲みながら「飛信軍と王騎軍に打ち首にされないように気をつけてね」と呑気に手を振って、遠ざかっていく王賁の背を見送る。

一体どこで二人がすれ違っていたのかは分からないが、二人とも大切な友人なのだから末永く幸せになってほしい。

蒙恬は杯に酒を注ぐと、空を見上げた。

「…きっと亡き将軍たちもお祝いしてくれてるよ、二人とも」

雲一つない、透き通るような青色を帯びた空がどこまでも広がっていた。

 

回想その一・仲間

気持ち悪い。

普段なら食事の香りを嗅ぐと空腹が刺激されて、早く食べたいという気持ちが現れるのに、ここ最近は全くそんな気になれなかった。

食べ物の匂いを嗅ぐと、気持ち悪さが吐き気となって込み上げるのだ。

屋敷で食事の支度が始まる頃になると、信は匂いから逃げるように屋敷を抜け出すようになっていた。

そんなことを朝昼晩と続け、食事もまともに喉を通らない。

どれだけ空腹でも、吐き気が勝ってしまうのだ。むしろ空腹さえも気持ち悪さを煽る原因になっていた。

鍛錬を続けようとしても、食事が摂れないせいか、武器を振るう気力もない。

こんなことは生まれて初めてだった。もしかしたら得体の知れない病に侵されているのだろうか。

まともに食事を摂れていないはずなのに、下腹部が膨らんでいる矛盾に、信は悪い病気なのではないだろうかと不安に思った。

兵たちの士気を落とさないように、何ともないふりをしていたが、さすがに連日食事が摂れないことで、信の体調の悪さに気付き始める者たちも出て来た。

一番初めに気づいたのは、信の妹同然である河了貂だった。

信が河了貂に症状を相談すると、彼女はぎょっとした表情になり、すぐに従者たちを通して医師を手配してくれた。

やはり悪い病気なのだろうかと信が肩を落としていると、河了貂が小声で信に尋ねて来る。

「あのさ、信…この前、王賁の屋敷に行ってたよな?確か、王翦将軍が尋ねて来た次の日…」

「ん?ああ、将軍昇格の祝いにな。それが?」

河了貂が言いにくそうに口をもごもごと動かしていたので、信は小首を傾げた。

「その…王賁と、恋仲になった…とか?」

恥ずかしそうに小声で尋ねる河了貂に、今度は信がぎょっとした表情を浮かべた。

「なっ、なな、なんで分かった…!?」

あの夜に王賁と幼馴染であり、戦友である関係の一線を越えてしまったことは誰にも話していない。

だというのに、河了貂は信の身に起こっている症状だけでそれを見抜いたというのか。

信が驚いていると、河了貂は顔を赤らめながら、しかし、ほっと安堵した表情を浮かべる。

「まずは医者に診てもらおう!」

「?ああ…」

河了貂がころころと表情を変えていた理由は、医師の診察で分かった。

ここ最近、信の身に現れた症状を聞いた医師が下腹部に触れ、子を身籠っていると告げたのだ。

間違いなく、王賁の子だ。

それまでは悪阻に苦しんでいた信だったが、王賁の子を身籠っているのだと知ると、その苦しみなど微塵も辛くないと思えるようになっていた。

ついこの間、幼馴染と戦友の関係を越えたばかりだったのにと信は動揺したが、それを上回ったのは喜びだった。

これから子が大きくなるにつれて、腹も膨らんでいくだろう。

早い内に王賁に言わなくてはと思うのだが、信にはある不安があった。

このことはまだ誰にも言わないで欲しいと、医師や河了貂たちに口止めをし、信はすぐに書簡を出した。

それは子の父親である王賁ではなく、彼の父親である王翦へ宛てた書簡だった。

 

回想その二・義父

王騎の屋敷に出向いた王翦は、普段通り仮面で顔を隠していた。

正直、来てくれるか分からなかったので、信は彼が屋敷を訪ねてくれたことに安堵する。

信は王翦と二人きりで話したいことがあるのだと、人払いを頼んだ。

「突然呼び出して悪かったな」

王翦と会うのは、彼の縁談の申し入れを断った以来だ。

彼には何人か妻がいる。王賁の母親に当たる女性も、そのうちの一人だ。

どうして自分を妻にしたいなどと言い出したのだろうか。信には全く心当たりがなかったし、王翦の考えていることが分からなかった。

「…縁談の返事を取り消すか。王騎の娘よ」

「あ、悪い。そうじゃないんだ」

顔の前で手を振った信は、すぐに本題に入ろうと真剣な表情になる。

彼女の表情の変化を察し、王翦は何の話だと表情を崩さぬまま身構えた。

「…俺は王騎将軍と摎将軍の養子だからよ、王家のことをよく分かってねえんだ。その…まだ本人から承諾された訳じゃねえんだけど…」

すうっと信が息を深く吸って、王翦の瞳を真っ直ぐ見据える。

「俺が、王賁の妻になるのって…問題ねえのか?」

信が自分の腹に手を当てながらそう問い掛けたことに、王翦が何度か瞬きを繰り返す。

「………そなた、倅の子を身籠ったのか」

子の話など一言も話していないというのに、王翦は鋭い。信は顔を赤らめながら、こほんと咳払いをする。

「ま、まあ、そういうことだ。王賁には、まだ伝えてねえけど…」

不安そうに信の眉が下がる。

「…もし、王家同士の婚姻に問題が生じるっていうんなら、俺はこのまま独りで王賁の子を産む。とはいえ、王賁の血を継いでるんだから、あんたの孫になるし、王家の子孫だ。然るべき場所で育ててもらうのが一番だろ」

信の不安とは、自分と王賁の立場ゆえのものだった。

王騎と摎の養子である信は、正式な後継者には当たらないのではないかいう不安を抱いていた。

しかし、自分の腹にいるのが、王賁の血を継いだ子であることは間違いない。

養子である立場ゆえに、信は名家である王家から、王賁との結婚を反対されるのではないかと考えていたのだ。

しかし、子どもに罪はない。

王家から反対されるのであれば、自分が産んだことは内密にして、王賁のいる王家で育ててもらうのが適切だろうと思っていた。

きっと王賁に子を身籠ったことを告げれば、障害があったとしても、彼は構わず信を妻にすると言うだろう。

王賁の生真面目な性格が昔から変わりないことから、信はそう読んでいた。

だからこそ、信は王賁に身籠った事実を告げる前に、王翦に相談することにしたのだ。

「………」

二人の間に重い沈黙が流れる。信は黙って王翦の返事を待っていた。

やがて王翦がゆっくりと口を開く。

「…何も問題はない。王賁と結婚せよ、王騎の娘」

「えっ」

正直、名家のいざこざに対する知識が一切なかった信にとって、それは予想外の返答だった。

「歓迎するぞ。我が血族に、そなたのような娘を正式に迎えられることをな」

「あ、ああ…」

王翦は相変わらず表情を変えないままでいるが、不思議と声色がいつもより柔らかく感じられる。

いつも厳しい目つきも、何だか穏やかに見えた。

緊張感が一気に抜けて、信は乾いた笑いを浮かべる。

「…もしも倅に飽きることがあれば、その時は私の妻として迎えてやろう」

いきなり王翦の指が信の顎を掴んで持ち上げたかと思うと、無理やり目線を合わせられた。

「無論、今からでも私は構わぬが?」

緊張感が抜けたせいか、すっかり普段通りに戻った信はカカカと笑う。さり気なく王翦の手を払いながら、信は首を横に振った。

「悪いけど、それは一生ねえよ。ま、ケンカした時は間に入ってもらうかもしれねえけどな」

王翦が穏やかな瞳のまま、信を見下ろしていた。

「………ふん」

踵を返して、部屋を出て行く王翦の後ろ姿を見て、信は再び己の腹をそっと擦った。

回想その三・幸福

悪阻はまだ続いており、信は口と鼻を覆うための手巾を手放せない日々が続いていた。

食事の匂いを感じると、反射的に気持ち悪さが込み上げる。

時間が経てば少しずつ落ち着いて来ると医師から言われていたが、悪阻にも個人差があるらしい。信は長引いている方だった。

しかし、少しずつ下腹部が膨らんで来るのが分かると、それだけで悪阻のつらさなど吹き飛んでしまう。

次に王賁に会った時こそ、身籠ったことを伝えなくてはと考えていた。

書簡で伝えることも考えたのだが、できれば自分の口から伝えたかったのだ。

口止めはしなかったので、もしかしたら王翦が先に伝えてしまうのではないかと思った。

しかし、もし王翦が伝えたとしたら、生真面目な王賁は馬を走らせて事実を確認しに来るだろう。

それがないということは、王翦も信が自ら伝えることを察しているに違いない。

不愛想ではあるが、相手の動きを考えるのを得意とする男だ。

無事に子を産んだ暁には、王翦に孫を抱かせなくてはならないなと信は考える。

いつも仮面で覆われている仏頂面が孫の顔を見て緩む姿を想像すると、思わず笑みが込み上げた。

(みんなびっくりするだろうなあ…)

自分も大将軍という座から一度身を引かなくてはならない。

まさか自分が子を産むことになるだなんて、女としての生を全うすることは諦めていた信は、今でも信じられなかった。

最愛の男と肌を重ね合い、子を授かる。それがこんなにも幸福なことだなんて初めて知った。

腹の下で眠っている我が子の顔は見えないが、奇跡にも等しい生命の誕生に、ただ感謝するばかりだ。

とはいえ、出産を終えてからもすぐに戦場に出られる訳ではない。

しばらくは軍師の河了貂、副官の羌瘣と将たちに飛信軍の指揮を頼むことになるだろう。

河了貂と羌瘣には既に王賁とのことを伝えているのだが、二人とも心から祝福してくれた。

重臣以外の飛信軍と王騎軍の兵たちはまだ身籠ったことは伝えていないし、子の父親が王賁であることも当然伝えていない。

正直、飛信軍も玉鳳軍も隊だった頃には、性格の不一致から兵士同士で争いが絶えなかった。

信と幼馴染という関係を知りつつも、王賁を嫌っている兵も多かったので、全員から祝福されることはないだろうなと信は苦笑する。

しかし、子を授かった以上、王賁の妻になるのが道理だ。

(…政たちにも伝えておかねえとな)

戦に出られなくなる旨を書簡に記し、秦王であり、親友の嬴政へ届けるのだった。

回想その四・友人

此度の論功行賞で、王賁の武功が評価されていたことに、信は自分のことように喜んだ。

将軍になってからも王賁の活躍は凄まじい。

もしかしたら自分が戦から身を引いている間に、彼が自分の大将軍の座に就くのではないだろうか。それでも良いかと信は嬉しく思っていた。

論功行賞が終わり、戦の勝利を祝う宴が始まった。

豪勢な食事の匂いが辺りに漂って来ると、信は手巾で口と鼻を覆い、匂いから逃げるように廊下を歩く。

「あっ」

廊下の向こうに、論功行賞で将たちを労っていた嬴政の姿があった。宴の席に出席するために着替えに行くのだろうか。

信は嬴政の名を呼びながら、大きく手を振った。

「おーい、政!」

信の声に気付いた嬴政がはっとした表情を浮かべる。

すぐに嬴政の下へ向かおうとすると、なぜか血相を変えて嬴政が駆け出した。いつもなら信が駆け寄るのに、今日は逆である。

慌ただしく嬴政が廊下を走る姿に、共にいた昌文君がぎょっとした表情を浮かべていた。

大王ともあろう男が廊下を走る姿に信も驚いていると、目の前にやって来た嬴政は信の両肩を掴んだ。

「身重の体で走るな!大事な時期だろう」

事前に送られていた書簡で信の妊娠を知っていた嬴政は、本気で心配しているようで、目をつり上げている。

「わ、悪い…」

「…いや、おめでとうが先だったな、信」

嬴政の祝福に、信は照れ臭そうな笑みを浮かべた。

急に走り出した嬴政を追いかけて来た昌文君が信の姿を見るや否や、なぜかその瞳に涙を滲ませている。

「なに泣いてんだよ、昌文君のオッサン!」

目頭を指で押さえながら、昌文君は嗚咽を堪えている。

感極まると涙ぐむ男であるのは知っていたが、顔を合わせただけで泣かれるのは初めてのことだった。

「ええい、嬉し泣きじゃ!王騎も摎も、きっと喜んでおるわ…!」

両親の名前に、信ははっと目を見開いた。

そうだ。身籠った子は王翦と王賁の亡き母だけではなく、二人の孫にもあたるのだ。

信が照れ臭そうに頭を掻いていると、嬴政が思い出したように口を開いた。

「婚姻の祝宴はどうするのだ?」

彼の問いに、信はばつの悪そうな顔になる。

「いやあ、それがさ、…身籠ったことを、まだ王賁に言ってなくてよ…これから言うんだ」

「なに?」

まだ王賁に妊娠を告げていないという事実に、嬴政と昌文君が目を丸めた。

「身籠っていることが分かってから、もうそれなりに経っただろう。大丈夫なのか?」

昌文君が不安そうに眉を寄せた。

そうなんだけどよ、と信が目を逸らす。

「あいつ、将軍になったばっかりで、今回の戦に備えてたし…なんていうか、重みになるんじゃねえかって…」

「………」

「あ、あと、王家同士の婚姻になるから、養子の俺にはその辺の事情がさっぱりで…王翦にも色々聞かなきゃならねえこともあって…それで…」

打ち明ける機会がどんどん先延ばしになってしまったのだと自白した信に、嬴政はやれやれと肩を竦めた。

「それなら、なおさら早く伝えてやれ。愛しい女が身籠ったと聞いて、喜ばぬ男などいないだろう」

「…うん。政、俺…」

信が申し訳なさそうに、嬴政を見上げる。

「戦のことは心配するな。他の将たちだってお前に引けを取らぬ力を持っている。お前は無事に子を産むことだけを考えていればいい」

戦から身を引かなくてはならないことに、信が不安を抱いていることを、嬴政は書簡が届いた時から察していた。

安心させるように、嬴政は彼女に微笑みかける。

「子を産むのは、戦で受ける痛みなどと比べ物にならないというぞ。医師団の手配をするから、産気づく前には咸陽宮に来い」

大王からの温かい言葉に、信は思わず笑みを浮かべて、供手礼をする。

「じゃ、王賁のやつを驚かせて来るわ!」

「気持ちは分かるが、くれぐれも走るなよ。王賁に別の意味で気苦労させるぞ」

信が笑顔で手を振り、王賁の姿を探しに宴の間へと戻っていく。

その後ろ姿を眺めながら、嬴政と昌文君は温かい気持ちで満たされていた。

回想その五・婚約者

―――身籠ったことを告げようとしていた信を待っていたのは、王賁の罵声だった。

「貴様ッ、一体何を考えている!」

まだ何も告げていないのに怒鳴られた信は、びくりと肩を竦ませる。

憤怒しているを王翦を見て、信は狼狽えた。

「な、何って…」

王賁が信の下を尋ねることはなかったが、もしかして王翦から身籠った話を聞いたのだろうか。それで婚姻の話が伝わったのかもしれない。

「…大王にも、その報告をしていたのか」

嬴政と話していたのを見ていたのだろうか。信は小さく頷く。

一体王賁は何を怒っているのだろう。

身籠ったことを告げるのが遅くなったことよりも、別なことに対して怒っているような気がする。

「誰の許可を得て婚姻するつもりだッ!このバカ女がッ!」

王賁の言葉を聞いた信は、頭の中が真っ白になり、絶句した。

彼は、自分と夫婦になることを拒絶したのだ。

力強く掴まれた肩ではなく、胸に鋭い痛みが走る。戦場で受けた傷などとは比べ物にならない痛みに、涙が溢れて来る。

「…喜んでくれると、思ったのに…」

初めて口付けを交わし、身体を重ね合ったあの夜のことが瞼の裏に浮かび上がる。

破瓜の痛みに涙する自分を抱き締めながら、愛していると何度も囁いてくれたのに、あの言葉は嘘だったのだろうか。

王翦に縁談を申し込まれたことに王賁が怒ったのは、自分を愛してくれているからこその嫉妬ではなかったのか。

色んな考えがぐるぐると頭を回り、信の中でそれが大きな音を立てて爆発した。

「お前の言う通り、俺がバカだったッ!」

裏切られた気分になり、信は涙を拭うこともせずに、王賁に怒鳴りつけた。

「もうお前なぞ知らんッ!」

王賁から返って来た言葉に、信は完全に彼が自分を見限ったのだと察する。

手が白くなるほど、信は拳を握り締めた。爪が皮膚に食い込み、血が滲んでいく。

昔のように安易に手を出すほど、信はもう子どもではなかった。

「もう、…お前となんて一緒にいられねーよッ!」

顔も見たくないと信は踵を返す。

嬴政に身重の体で走るなと釘を刺されたばかりだったが、耐え切れなかった信は走ってその場から逃げ出す。

背中に王賁の視線を感じていたが、信は一度も振り返ることはしなかったし、王賁が追い掛けて来ることもなかった。

自分は、王賁に見限られたのだ。泣きながら、信はその事実を受け入れていた。

和解

…そんな最低男が、今、信の前で頭を下げている。

床に額を押し付け、手足が汚れるのにも構わず土下座をしている王賁に、信は絶句していた。

名家である王家の家に生まれたことから、何よりも尊厳というものを誇りに持っていた王賁が、自分に頭を下げているのだ。

「え、……えっ?」

混乱するばかりで、信はなんと声を掛けるべきか分からず、頭を上げろとも指示を出せなかった。

…遡ること一刻ほど前。

部屋で王翦に送る書簡の準備をしていた信の耳に、何やら騒がしい物音が聞こえた。

血気盛んな兵たちが外で揉めているのだろうと思っていた。

鍛錬の指揮も今は信頼できる羌瘣たちに任せているため、気になりはしたが、顔を出すことはやめておいた。

悪阻でろくに食事も摂れずにいる信を心配した河了貂にも、「軍のことは俺に任せて、信は絶対に手を出すなよ」と口酸っぱく言われていたのだ。

王賁との縁談は破談になったことだし、とはいえ王賁の子を身籠ったのは事実だ。

無事に子を産むまでは、戦から身を引かなくてはならない。

兵たちにその事実をどう告げるべきか、信は宴の夜からずっと悩んでいた。

悩み過ぎのせいか頭も痛いし、王賁に酷い言葉を投げつけられてから胸の痛みが取れない。前に増して、食欲がさらに落ちてしまった。

それでも、時間が経つにつれて、腹の中で子は成長していく。

もう以前のように男のような下袴も穿かなくなった。

腹部を締め付けるものはやめた方がいいと医師や侍女に言われてしまい、ここ最近は苦手な女物の着物を毎日着ている。

いつも鍛錬がしやすいように着ていた下袴を着なくなった信に、違和感を覚えている兵たちもいるはずに違いない。

隊の頃から王賁のことを良く思っていなかった兵たちのことを考えると、今回のことをきっかけに何か暴動を起こすのではないかという不安があった。

とりあえず、王賁と破談になった旨を、王翦に伝えなくてはならない。

子を産んだ後は、王家の血筋である王賁との子を、差し出すしかないだろうと考えていた。

書簡にそのことを書いていると、制止する侍女たちを押し退けて、なんと王賁が信の部屋に飛び込んで来たのだ。

「どうかお引き取りを!」

「二度とこの敷居を跨がれぬよう!」

信が幼い頃から屋敷に仕えてくれている年老いた侍女たちが、血走った目をして王賁の腕や着物を掴んでいた。

信が王賁の子を身籠ったことと、婚約が破談になったことは重臣である彼女たちに伝えていた。

そのせいか、彼女たちは王賁をまるで目の敵にして追い返そうとしているらしい。

まさか屋敷に、しかも何の連絡もなく王賁が突然やって来たことに、信は彼の目的が分からず、ただ驚くことしか出来ない。

「放せ!俺はただ話をしに来ただけだッ」

憤怒している侍女たちに引っ張られながら、王賁が叫ぶ。

余裕のない表情を浮かべている王賁を見て、信は一体何の話をしに来たのか気になった。

「…悪いけど、通してやってくれよ」

「信様ッ!」

信の代わりに王賁に怒りをぶちまけていた侍女たちだったが、信が「頼む」と催促したので、大人しく王賁に道を開けた。

人払いを頼み、信は王賁と二人きりになる。

王賁は怒っているような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべていたが、信の部屋へと入った。

背後で扉が閉まると、息苦しいほど重い沈黙が流れる。

書きかけの書簡を完成させるために、信は椅子に腰かけて再び筆を取ったのだった。

最後の一文を書いていると、背後で王賁が動いた気配を感じる。

わざわざ屋敷にまでやって来たのだから、向こうから話を始めるのだろうと思っていた。しかし、いつまでも声は掛からず、痺れを切らした信が振り返る。

そこにあったのは、額を床に擦り付ける勢いで頭を下げている王賁の姿であった。

「え、……えっ?」

あからさまに信が狼狽えていると、王賁は少しも顔を上げない。

「…俺が悪かった」

王賁の謝罪を聞き、信は瞬きを繰り返す。その謝罪の意味が一体何を示しているのか、信には分からなかった。

狼狽えている信の顔を見ることもなく、王賁は言葉を続ける。

「…俺は、お前が父の縁談を受け入れたのだと誤解していた」

「へッ!?断ったって言っただろ!」

王翦に縁談を申し込まれたことも、それを断ったことも王賁に告げたはずなのに、一体どうしてそんな勘違いをしたのだろう。

相変わらず顔を上げない王賁だが、自尊心の高い王賁がたった一人の女に頭を下げていることもあって、苦虫を嚙み潰したような顔をしているのだろうなと信は思った。

(……なんだよ…)

それまで感じていた不安が溶け出していくのを感じていた。目頭がじわりと熱くなる。

「じゃあ…誤解だったってことか?」

「ああ」

王賁が自分を愛していてくれたのは、本当だったのだ。

どうして王翦の縁談を受け入れたという誤解をしたのかは分からないが、信はずっと胸に感じていた痛みがいつの間にか消え去ってしまったことに気がついた。

本当はすぐにでも王賁の胸に飛び込みたかった。

しかし、王賁がこんな風に頭を下げているのは初めてで、勝気になった信は少しからかってやろうと考える。

王翦に渡すはずの書簡はほとんど書き終えてしまった。最後に自分の名前を記せば完成である。

ほぼ完成状態である書簡を手に取り、信はふんぞり返る。

「い、今さら言われたって…!王翦将軍に、破談になったって書簡を出すところだったんだぜ」

「………」

父である王翦の名前に反応したのか、王賁がようやく顔を上げる。普段よりも眉間の皺が三倍寄っていた。

立ち上がった王賁は腕を伸ばし、信の手から書き上げたばかりの書簡を奪い取る。

「あっ、何するんだよ!」

返せと手を伸ばすが、王賁は信に背を向けてその書簡に目を通している。

文字を追っているうちに、王賁の表情がみるみる曇っていくのが分かった。

当然だろう。書簡には「王賁と自分は婚姻を結ばず、身籠った子はそちらに渡す」と記しているのだから。

王賁のこめかみに青筋が浮かび、信が制止する前に、その竹簡の紐が引き千切られた。

「あーっ!」

繋がっていた竹簡がばらばらと床に散らばり、信が何をするんだと王賁を睨み付ける。

こうなればもう書き直すより他にない。

しかし、目をつり上げた王賁に睨み返されると、あまりの迫力に思わず口を噤んでしまった。

「―――なぜ身籠ったことをすぐ俺に言わなかった!!」

王賁の当然である問いに、今度は信が謝る番だった。

「わ、悪い…戦の準備で、気張ってると思って…」

「………」

納得いかないという表情を浮かべた王賁に、信は慌てて言葉を続けた。

「だって、将軍になってからの初めての戦だろ?…気負わせたく、なかったんだ…」

俯きながら言葉を紡ぐと、信の体がぐいと引き寄せられた。王賁に抱き締められているのだと分かり、信は驚いて目を見張る。

そういえば彼に抱き締めてもらえたのは、身体を重ねた翌日の朝が最後だった。

「…許せ。もっとお前のことを知るべきだったと、猛省している」

囁かれた言葉に、信は小さく頷いた。信もゆっくりと王賁の背中に腕を回す。

「あの、…俺も、もっと早く王賁に、伝えるべきだった……悪い…」

素直に謝ると、王賁の腕に僅かに力が入った。

互いに謝罪をして、仲直りをするのは、随分と久しいことだった。

王賁が信を王家と血の繋がりのない子だと罵り、信が王賁の頭を殴ったあの幼い頃以来だ。

「信」

優しい声色で名前を呼ばれて、信は王賁の顔を見た。

真っ直ぐな瞳で信を見据えると、王賁がゆっくり口を開く。

「俺と、結婚しろ。俺たちの子を父に渡す必要などない」

王賁の言葉に、信の瞳から堰を切ったかのように涙が溢れ出る。

「…こんな時まで命令口調かよっ!言われなくてもそのつもりだったっての!」

涙を流しながら笑った信を見て、ようやく王賁の口元にも笑みが浮かぶ。

穏やかな表情で、涙を指で拭ってくれる王賁に、信はますます惚れてしまった。

「…腹に」

「ん?」

「腹に、触れても良いか?」

王賁に問われ、信はもちろんだと頷く。

許可を得てから、着物越しに王賁が下腹部に触れた。

まだ胎動が分かるほどではないが、うっすらと膨らんでいるその腹の下に、自分と信の子どもが眠っているのだと思うと、とても不思議な心地になる。

まだ顔も見ていないというのに、これから自分が父親になるのだという重みが肩に圧し掛かった。

顔を上げると、信が嬉しそうな笑顔を浮かべている。

王賁は再び彼女の体を抱き締めた。

あまり腹を圧迫しないように気遣いながら、優しく腕の中に包み込む。

王賁の胸に顔を押し付けて、信は幸せな気持ちで胸が満たされていくのを感じていた。

仲間たちからの祝福

信と王賁がお互いの身体を抱き締め合いながら、幸福な気持ちに浸っていると、扉越しに何者かの気配を感じた。

「……おい、押すなって!」

「そっちこそッ…!」

扉の向こうが何やら騒がしい。聞き覚えのある声に、信は振り返った。

それまで穏やかな笑みを浮かべていたはずの王賁の表情が、普段と同じ不愛想なものに切り替わる。

「うわああッ!」

信が声を掛ける前に、扉が開いて、外にいた者たちが雪崩れ込んで来た。

河了貂と羌瘣を先頭に、祟原、松左、尾平や渕…その他にも、飛信隊が結成された時からの見知った顔ばかりだ。楚水の姿もある。

人払いを頼んだはずなのだが、どうして彼らがここにいるのだろう。

「お、お前ら、何してんだよッ!盗み聞きかッ!?」

驚いた信が王賁の腕の中から慌てて抜け出して、全員に怒鳴りつける。

申し訳ないと最初に頭を下げたのは、さすが礼儀正しい楚水だった。

「王賁将軍が突然、信殿をお訪ねになったと聞き…その、私は止めたのですが…」

目を泳がせる楚水に、今度は河了貂が苦笑を浮かべながら前に出た。

「い、いやあ、俺と羌瘣も止めたんだぞ?でも、みんな信のこと心配してたから…」

一部の者にしか身籠ったことを伝えていなかったため、何も知らない兵たちは急に鍛錬にも姿を見せなくなった信を心配してくれていたらしい。

…もしかしたら、一部始終ずっと聞かれていたのだろうか。信は羞恥で顔を真っ赤に染めた。

(でも、さすがにもう隠し切れねえよな…)

確認するように、信が隣にいる王賁へ視線を向ける。

呆れたような顔で王賁は溜息を吐くと、彼は信の肩に手を添え、その体を抱き寄せながら口を開く。

「貴様らの将は、今日からこの王賁の妻となる。身重であるゆえ、しばらく戦には出られぬが、将が不在の間も手を抜くことなく鍛錬に励め」

必要最低限のことしか伝えない相変わらずな王賁の態度に、信は笑ってしまった。

つい先ほどまでの穏やかな表情や声色を、他の者には見せないでいてくれたことが、純粋に嬉しかった。

それが独占欲の類だと分かっていても、これからは正式に夫婦となるのだから、誰にも咎められることはない。

「信~!良かったなあ~!」

初陣の時に伍を組んだ時からの仲間である尾平が、みっともなく声を上げて泣き始める。

昌文君もそうだったが、年を食うと涙腺が脆くなるのだろうか。

祟原や松佐たちも穏やかな笑みを浮かべながら「おめでとう」と笑顔で祝福してくれた。

「他の兵たちにも言って回らねえとな…はは、今まで隠してたのがバカみてえだ」

仲間たちから温かい祝福を受け、信は憑き物が落ちたかのような、すっきりした表情で笑顔を浮かべた。

ここにいる者たちは、飛信軍がまだ隊だった時からの顔見知りだ。

もしかしたら河了貂と羌瘣が、彼らにだけ事前に伝えてしまったのかもしれない。

誤解だったとはいえ、王賁との婚姻が白紙になったことは一体どこから広まってしまったのか分からないが…結果良ければ全て良しとはこのことである。

「みんなに言って回るかあ」

他の兵たちにも伝えなくてはならないと思い、信は王賁と共に屋敷を出ようとした。

「あ、それは大丈夫」

安心させるように羌瘣がそう言ったので、信と王賁は目を丸めた。

「あーっ、二人とも、やっと仲直り出来たの?全く、世話が焼けるよねえ」

またもや聞き覚えのある声がして、もう一人の男が部屋に入って来た。蒙恬だった。

大分酒に酔っているようで、顔を真っ赤にして、上機嫌に笑っている。

片手に酒瓶を抱えているところを見ると、王賁の屋敷を訪れた時からずっと飲んでいるらしい。まだまだ飲み足りないようだ。

「王騎軍も、飛信軍も、玉鳳軍も、楽華隊も、みーんな、お祝いしてくれてるよ」

蒙恬の言葉を聞き、王賁と信は顔を見合わせる。

まさかと王賁は先に察したが、信は分からないようで、小さく首を傾げていた。

「貴様…本来は俺たちの口から話すことだろう」

「えー?だって、おめでたい話題なんだから、誰が言ったって一緒だよ~」

どうやら蒙恬が、信と王賁の結婚と妊娠の話題を既に広めていたらしい。

王翦も口々に広げていたようだったが、玉鳳軍と王騎軍と飛信軍の者たちに告げなかったのは、王賁と信が自ら伝えると考えていたからだろう。

「貴様…」

「そんな怖い顔しないでよー。俺からの祝辞だと思ってよ。ね?」

…確かに蒙恬が王賁の屋敷に尋ねて来なければ、信との誤解が解けないままだった。

もしかしたら今も王賁は一人で鍛錬を続け、信は王翦へ破談となった旨が記された書簡を届けるように使いを出していたかもしれない。

最悪の結末を回避することが出来たのは、蒙恬のおかげである。王賁は一応感謝していた。

普段なら無視するところだったが、王賁は真っ直ぐに蒙恬を見つめて、口を開いた。

「…感謝している」

「えっ!」「えっ?」

蒙恬と信がほぼ同時に聞き返した。なんだ、と王賁が二人を睨み付ける。

長い付き合いだが、蒙恬も信も王賁の口から感謝の言葉を聞いたのは初めてだったのだ。

驚いていた二人がにやにやとしているのを見て、王賁のこめかみに青筋が浮かび上がる。

「王賁が素直に礼を言ったよ!これは子どもが出来てからどんな風に変わるのか楽しみだねえ、信」

「はははッ、きっと親バカってやつになるぞ」

「…貴様らぁ…!」

目をつり上げた王賁に、信と蒙恬は大笑いしながら、子が生まれた後の王賁はきっと性格が丸くなっていくに違いないと話し合った。

その後、信と王賁は飛信軍と王騎軍の兵たちに正式に結婚と妊娠を公表し、盛大に祝福を受けた。

玉鳳軍への公表は、王賁が屋敷に戻ってから行ったのだが、玉鳳軍も二人の結婚を大いに祝福をしてくれた。

宿敵

その後、信は王賁の屋敷へ移り住むこととなった。

昔からお転婆が過ぎる彼女が、いつ人目を盗んで無理をするか分からない。

王賁は彼女を監視下に置くために、出産を終えるまで自分の屋敷に住まわせることを決めたのだ。

無茶をしないかの監視と言う名目があることを黙って、なるべく一緒に過ごしたいと告げれば、信は少し照れ臭そうに了承してくれた。

「馬車かあ…俺、馬に乗る方が好きなんだけどなあ」

「絶対に許さん。貴様の今の発言を告げれば、大王様から直々に乗馬禁止令が下りるぞ」

「政も王賁も心配性だよなあ…」

身重となった体では、以前のように馬に跨ることが出来ず、信は移動に制限が掛かったことに大層文句を言っていた。

もちろん子に何かあってからでは遅いと訴える王賁だけでなく、色んな者たちに説教をされてから、渋々納得したようだったが…。

嬴政も信が無茶をするのではないかと気にかけており、産気づく前には咸陽宮に来いと言ってくれたようだ。

医師団の用意をしておくという手厚い大王の気遣いに、王賁は信が大王に見初められなくて良かったと安堵したのだった。

信が屋敷に王賁の移り住む日が来ると、王賁は意外な来客に驚愕の表情を浮かべた。

王翦が訪ねて来たのだ。将軍昇格の時には一言も声を掛けなかった父が、どうして急に現れたのかと報せを受けた王賁は戸惑った。

一行が屋敷の門をくぐったところで、王賁はすぐに父を出迎えた。

王翦は護衛の兵たちも何人か引き連れていたが、誰一人として王翦と同じように馬から降りようとしない。

用はあるようだが、手短に済ませたいという彼の意志が現れていた。

王翦はいつもと変わらず、何を考えているか分からない瞳で王賁を見下ろしている。

「…王騎の娘と破談になると聞いた。兵たちが騒いでおったぞ」

その言葉に、王賁の眉間に僅かに皺が寄る。

「いえ、ただの噂でしょう」

色々と誤解が生じて大喧嘩したことは報告すべきではないと王賁は考えた。

これを機に、王翦がまた信に縁談を申し込むようなことがあったら厄介だ。不安の火種になるものはとことん消し去らなくてはならない。

噂だと聞いた王翦が、つまらなさそうに肩を竦める。

「そなたが要らぬというのなら、この王翦の妻にしてやろうと考えていたのだがな」

やはり王翦は信のことをまだ諦めていないらしい。王賁のこめかみに鋭いものが走る。

「要らぬと申した覚えはありません。それに、貴方には他にも妻がいるでしょう」

「その中に王騎の娘も加わるだけだ。そなたは、あの娘を母と呼ばねばなるまいがな」

少しも感情が灯っていない声のはずなのに、まるで自分の怒りを煽ろうとしているような言葉に、王賁は冷静になれと自分に言い聞かせた。

拳を強く握り、王賁は王翦を睨み付ける。

「信は俺の妻です。身籠っているのも、正真正銘、俺の子だ」

「………」

王翦がじっと王賁の目を見つめる。

普段から王賁の顔は仮面で覆われているが、彼は身内である自分にも素顔を見せたことはない。まるで身内にさえ心を許していないようだ。

そのせいか、王翦という人物がどんな人物であるかを、王賁も分からない時があった。

冷たい瞳の奥にある闇を見ると、足が竦みそうになることがある。

だが、ここで少しでも目を逸らせば、負けだと思った。

この男は戦と同じで、相手の隙を少しも見逃さない。もしも自分の心が揺らげば、そこを突いて信を奪っていくかもしれなかった。

だからこそ、決して目を逸らさず、王賁は奥歯を食い縛って、信は渡さないという意志を込めて睨み返す。

しばらく沈黙が続いていたが、先に沈黙を破ったのは王翦の方だった。

「…祝宴には、私の席を空けておくがいい」

手綱を握り直し、王翦は馬を動かす。どうやら用件は済んだらしい。

「……考えておきます」

あえて返事を保留にした王賁は、王翦の背中を見つめながら、いつの間にか額に滲んでいた嫌な汗を手の甲で拭った。

結末

夕食と湯浴みを済ませた後、寝台に腰掛けている王賁は、自分の膝の上に信を座らせ、彼女の体を後ろから抱き締めたままでいた。

既に一刻はこの状態のままである。

最近ようやく悪阻が落ち着いて来たらしく、信は以前通りに食事が摂れるようになっていた。

肉付きが戻って来た彼女の体を抱き締めたまま、王賁は彼女を放す気配を見せない。

「だーかーら、何もなかったって言ってるだろ。王賁だって見てたじゃねえか」

「………」

彼女の言葉を聞かなかったふりをして、王賁は背後から信の首筋に顔を埋めている。

意外と彼が嫉妬深く、そして甘えたがりな性格だと知ったのは身を結んでからだ。

しかし、それを嬉しく思いながら、信は王賁の胸に身体を預ける。

まるで誰にも渡すまいと言わんばかりに、王賁は信の体を、腹に負担を掛けないように抱き締めた。

―――王翦が王賁の下を訪ねた直後、信を乗せた馬車が到着した。

信が馬車から降りようとした時に、驚くことに王翦が馬から降りて、身重の彼女を随伴するように手を引いて歩いたのだ。

自分と話す時は馬上から見下ろしていたあの男が、信と話す時は馬から降りた。

それだけではなく、馬車から降りようとする信の手を引いたことも、さりげなく腰元に手を当てていたことも王賁は許せなかった。

信の手を引きながら、そして歩く速度も信に合わせながら、王賁の前までやって来ると、王翦は何も言わずに勝ち誇ったような瞳をして、今度こそ屋敷を出て行ったのである。

仮面で覆われた顔は微塵も表情を変えていなかったが、あの時の瞳は絶対に王賁を小馬鹿にしたものだった。

少しでも隙を見せれば、お前からこの女を奪い取ってやるという、宣戦布告にも近いものかもしれない。

それが王賁には憎らしくもあったし、同時に恐ろしくもあったのだ。

自分が父に適わないことを、心のどこかで分かっているからこその思いなのかもしれない。

そして先ほど、信から打ち明けられたのだが、彼女は子を身籠ったことを王賁に告げるよりも先に、王翦へ伝えていたらしい。

王家同士の婚姻となることから、王騎と摎の養子である自分が王賁の妻になることに、何か問題がないかを確認するためだったというが…。

王賁はその事実にも嫉妬し、信を抱き締めながら口を噤み…そして、今に至るという訳だ。

「んな心配しなくても大丈夫だって」

「………」

父に嫉妬したなんて一言も言っていないのだが、信は王賁が嫉妬したことに気づいたようで、なぜか嬉しそうな表情を浮かべている。

信の「大丈夫」は正直、信頼出来ない。

多くの死地を駆け抜けた彼女だが、敵の戦略に陥ってしまい、瀕死の状態で戻って来たことなど幾度もあった。

ここが戦場でないとしても、いつか王翦の策略に彼女が陥るのではないかと思うと、王賁が気が気でならない。

自分がこんなにも幼稚で、独占力の強い男だとは思わなかった。

「…王賁って、心配性なんだな」

意外な事実を発見した信が小さく笑った。

その通りだと王賁は言葉に出さずとも、彼女の体を優しく抱き寄せる。

まるで子どもを甘やかすように頭を撫でられる。普段の王賁ならば「やめろ」とその手を弾いていたのだが、今だけは信の好きにさせてやった。

それがどうやら信には新鮮だったようで、嬉しそうに王賁の頭を撫で続けている。

「不安なら何度でも言ってやるよ。…好きだぜ、王賁」

信に笑顔で告げられ、王賁の胸が高鳴った。

肩越しに目が合うと、照れ臭そうに信がはにかむ。

いつも兵たちに見せるような笑顔じゃなく、自分にだけ見せる恥じらいの表情だ。

これからもこの笑顔は自分だけのものだし、誰にも渡すつもりはない。

「一生放すつもりはないから、覚悟しておけ」

王賁はそう言うと、信の唇に己の唇を押し当てた。

正しく王賁らしい愛の言葉だなと信は笑った。

 

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