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初恋の行方(蒙恬×信)前編

初恋の行方1
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

初恋

初恋は実らないという迷信は確かに存在したのかもしれない。

しかし、蒙家の嫡男として生まれた蒙恬は、自分だけはその迷信に当てはまらないと、何の根拠もなく信じていた。

初恋の相手と問われて蒙恬が想像するのは、家庭教師の女性である。

蒙家の嫡男として甘やかされて育った蒙恬は常日頃から勉強を怠けており、そんな彼を何とかやる気にさせようと、教育係の胡漸が連れて来たのだ。

蒙恬は彼女の色気に当てられて、それまでの遅れを取り戻すように勉学に励んだ。

優秀な成績を修めれば、何でも一つ願いを叶えてくれる・・・・・・・・・・・・・・という約束を彼女と交わしたためである。

当時の蒙恬はまだ十もいかない年齢だったというのに、豊潤な若い女体を好きにして良いのだというご褒美のために、必死になった。男という生き物は幼少期から単純なのである。

与えられた課題を全てこなし、いよいよ約束を叶えてもらうと言った日。家庭教師の女性から南方へ嫁ぐことが決まったと告げられた。

笑顔で手を振りながら馬車へ乗り込む彼女の姿を、あの時に飲み込んだ涙の味を、蒙恬は一生忘れることはないだろう。

 

城下町

父の蒙武に連れられて、秦の首府である咸陽へ行った時のことだった。

呂氏四柱としての公務のために蒙武は宮廷へと赴いたのだが、珍しく息子の蒙恬を同行させたのだ。

祖父の蒙驁と同じく、日頃から戦や公務ばかりで息子に構ってやれないことを気にかけていたのかもしれない。

常に武を追い求める不愛想な父であったが、家族のことをちゃんと想ってくれていることは幼い蒙恬にも何となくわかっていた。

宮廷への同行は許されなかったが、戻るまでは胡漸と共に城下町で好きに過ごすようにと言われた。

弟の蒙毅は蒙恬よりもまだ幼く、今日は屋敷で乳母が見ている。弟のためにお土産の一つでも買ってあげようと、蒙恬は教育係のじィこと胡漸を連れ回した。

咸陽の城下町には見慣れない物がたくさん並んでいて、幼い蒙恬の好奇心は燃え盛っていた。

色んな暖簾や幟も立ち並んでおり、区画ごとに店も業種も異なる。店を構えない坐買露店も多く並んでいて、どれも蒙恬が見たことのない品物ばかりだ。

「ねえ、じィ!これはなに?ねえ、あっちのは?」

胡漸の袖を引っ張りながら、蒙恬が見慣れない売り物に目を輝かせている。

傍から見れば祖父と孫にしか見えない二人だ。店主たちは愛らしい蒙恬の姿を見て、自然と笑みを綻ばせている。

蒙恬は男だというのに、女子のような美しい顔立ちをしており、この人混みの中でも特に人目を引いていた。

お気に入りの家庭教師が嫁に行ったことで、しばらく屋敷に引き籠っていた蒙恬だったが、今はそんなことを忘れてしまったかのように楽しそうだ。

事情を知ったのかそうでないかは分からないが、蒙武が落ち込んでいる息子を咸陽へ連れて来たのは、もしかしたら慰めの意味もあったのかもしれない。

「も、蒙恬様、どうかお待ちを…!」

楽しんでいる蒙恬と反対に、胡漸はあちこち走らされてはその先で質問攻めに遭い、普段以上に苦悶の表情を浮かべている。

しかし、愛らしい笑顔で「じィ、大好きだよ」と言われると、それまでの苦悩も疲労も吹っ飛んでしまうので、子どもとは凄まじい存在だと胡漸は日々痛感させられていた。

弟へのお土産を吟味しながら、じィとの追いかけっこを楽しんでいると、ちょうど曲がり角で誰かとぶつかってしまった。

「わッ!」

「っと…危ねえな」

尻餅をつく前に腕を引っ張られて、蒙恬は軽い体を起こされる。

「気をつけろよ、ガキ」

蒙恬よりも背の高い、青い着物を着た少年だった。

目つきは鋭いが、冴え冴えとした瞳をしている。声色からして、怒っていないことはすぐに分かった。

「ごめんなさい」

蒙恬は素直に謝った。名家の嫡男として生まれ育った蒙恬だが、礼儀は弁えていた。

じィこと胡漸に対しては甘やかされていると自覚があるので、いつもからかってしまうのだが、顔も名も知らぬ者にはきちんと立場を弁えた言動を取ることが出来る。

この端正な顔立ちで、きちんと礼儀を弁えているということもあって、蒙恬は家臣たちから可愛がられ、そして将来を期待されていた。

幼い頃から自分の利になることに目ざとく反応出来たのは、蒙家の嫡男として甘やかされて育ったからかもしれない。

「じゃあな」

青い着物の少年は、素直に謝った蒙恬に穏やかな笑みを浮かべて去っていった。背中に大きな剣を携えているのを見て、あの年齢でもう戦に出たのだろうかと考える。

年齢も身長も自分より少し上なのは分かっていたが、蒙恬のことをガキ呼ばわりするほど大人には見えなかった。

自分もいずれは父のように戦で活躍出来るのだろうかと蒙恬が考えていると、胡漸の声が聞こえないことに気が付いた。

「あれ?じィ?」

振り返っても、胡漸の姿はなく、多くの客と商売人で溢れ返っている。

それまで当たり前のように後ろについていた胡漸の姿が見えなくなってしまったことに、蒙恬の胸が不安できゅっと締め上げられた。

じィのことだから、絶対に自分を探しているはずだ。彼が自分の傍を離れるはずがない。
蒙恬は今来た道を引き返そうと踵を返した。

(じィ、いない…どこ行ったんだろう?)

人混みを掻き分けながら、蒙恬は不安に眉根を寄せていた。

胡漸の姿がどこにもないのだ。いつものように「蒙恬様」と泣きながら呼んでいる声も聞こえない。客と商売人たちの談笑のせいでかき消されているのかもしれない。

いつも自分の傍にいてくれるはずの胡漸がいないことで、蒙恬の不安がどんどん広がっていく。

「じィ…どこ?」

子どもの小さな背丈では遠くまで見渡すことが出来ず、胡漸の姿を探すのも難しい。このまま一生会えなかったらと思うと、蒙恬の円らな瞳がみるみるうちに涙が潤んでいく。

「うう…じィ…」

人混みの中で狼狽えていると、背後から見知らぬ男に肩を叩かれた。

「…お嬢ちゃん、お付きの人を探してるのかい?」

「え?」

いきなり声を掛けられて、蒙恬は驚いたように目を見開いた。

でっぷりとした腹が目立つ、歳は中年くらいの男だった。質の良い着物に身を包んでおり、それなりの地位を持っていることが分かる。

迷子になっている蒙恬を見て、心配そうに眉を下げている。親切で声を掛けてくれたのだろう。

蒙恬は顔に不安の色を浮かべたまま、頷いた。

「そうか、なら一緒に探してやろう。ほら、離れないように手を繋いで」

「ありがとうございます」

男の親切な提案に、蒙恬の表情に光が差し込む。

幼い蒙恬は人を疑うということも知らなければ、目の前の男が商売道具を探している違法な奴隷商人であることなど知る由もなかった。

 

暗雲

小太りの男が蒙恬の手を引きながら、人混みを歩き出す。

探している者の名が胡漸であることも、自分が蒙家の人間であることも伝えると、男は驚いていたが、すぐに人の良さそうな笑みを浮かべた。

「そういや、さっきお前の名前を叫んでる女の人が居たなあ。もしかしたら、その人がお嬢ちゃんのお付きの人かもしれない」

「え?女の人?」

蒙恬は円らな瞳をさらに真ん丸にした。

自分が探している胡漸は紛れもなく男で、教育係を任された蒙家に長年仕えている老兵なのだが、自分を探している女性とは誰なのだろうか。

この時点でもまだ奴隷商人の男は蒙恬のことを女児だと勘違いしており、共に城下町にやって来たお付きの人とは女性だと思い込んでいたのだった。

しかし、そんな事情は露知らず、蒙恬は瞼の裏に初恋の女性の姿を思い浮かべる。

「あ、もしかして、先生っ?」

「先生?お、おお、きっとそうだな」

適当に相槌を打った男が蒙恬と話を合わせようとしているのは誰が見ても明らかだった。しかし、既に蒙恬の頭は初恋の家庭教師のことでいっぱいになっていた。

「先生、会いに来てくれたんだ…!」

つい先ほどまで胡漸とはぐれて泣きそうになっていた顔が一変し、目が輝いている。

(まだあの約束は有効のはず…!)

急に大人の顔に切り替わった蒙恬に小首を傾げつつ、男は構わずに蒙恬の手を引いて歩き続けた。

城下町を出るために門に向っている途中で、蒙恬は違和感を覚えた。買い物客や商売人で賑わっている市場を路地裏から抜けると、たちまち人気が無くなる。

人々の出入りに使われている大きな門ではなく、人通りが少ない裏門に向かっているせいだろう。

城下町を取り取り囲む壁がずっと続いているばかりで、賑やかな市場の面影が何もない。

「………」

急に静けさが訪れたことで、初恋の家庭教師に会えると興奮していた蒙恬の頭が急に冷静になった。

(じィ、心配してるだろうな)

きっと胡漸はまだ市場で自分を探し回っているだろう。先生に会えるのは嬉しいが、胡漸を放置しておくのは可哀相だ。

ただでさえ自分の教育係を担ってから老いが急速化しているのだから、時々は安心させてやらないとならないし、自分が迷子になったことを蒙武と蒙驁に知られれば処罰されるかもしれない。

胡漸が自分の教育係を外されたらどうしようと蒙恬は不安を覚えた。それに、こんな人気のない場所に家庭教師の女性がいるようには見えない。

彼女だって外出する時には侍女を連れ歩いていた。一人でこのような場所へ立ち入ることは出来ないはずだ。

「ねえ、先生はどこにいるの?」

「………」

未だ自分の手を引いている男に声を掛けるが、彼は何も答えない。顔を見ると、先ほどまで人の良さそうな笑みを浮かべていた表情が消え去っていた。

ここに来て蒙恬はようやく嫌な予感を覚え、男の手を振り解こうとした。

「放してッ」

どれだけ力を込めても、所詮は子どもの腕力だ。大人の力には敵わない。

泣きそうな表情で蒙恬が叫ぶが、煩わしいと言わんばかりに男が睨み付ける。

「黙れ!」

「ひっ…」

大声で凄まれ、怯んでしまう。どこへ連れていかれるのだろうと蒙恬が不安で顔を強張らせていると、裏門の手前まで連れていかれる。大きな荷台を後ろに引いている馬車があった。

男の仲間だろうか、騎手をしている同じく小太り男が蒙恬を見て下衆な笑みを浮かべた。

「お前、かなりの上玉を連れて来たなあ」

「へへっ、あの蒙家の娘だぞ。さっさと行って売り払っちまおうぜ」

物騒な会話を聞き、蒙恬は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。

(売り払う…?まさか、俺を?)

ここに来て、この男たちが奴隷商人だということに蒙恬はようやく気が付いたのである。

馬車の荷台は大きな布で覆われており、中は見えないが、子どもたちのすすり泣く声が聞こえた。

驚愕のあまり、蒙恬が動けずにいると男たちが下衆な笑みを浮かべて会話を続ける。

「蒙家?そりゃあ、やべえだろ。あの蒙武将軍のガキだろ?」

「大丈夫だ。近くに将軍の姿もお供の姿もなかった。さっさと売り払っちまえばこっちのもんだ」

蒙恬をここまで連れて来た男が荷台に掛けられている布を取る。

(あ…!)

そこには木製の車輪がついた檻があって、中には自分と同い年くらいの男女が数人詰め込まれていた。

全員恐怖に顔を歪ませて、これからどうなるのだろと先の不安に涙を流している。

自分と同じように無理やり連れて来られた子どもたちだろう。身なりがきちんと整えられているのをみると、きちんと地位のある家の生まれであることが分かる。

売り物として誘拐する少年少女たちの姿を布で隠していたのは、ただの奴隷商人だと錯覚させるためだったに違いない。

一人ならともかく、全員が整った身なりをしているのだから、戦で親を亡くしたような素性だとは思わないだろう。

戦で親を失った戦争孤児でもないのに、これからこの檻に入れられて、どこかへ連れて行かれるのだと分かると、蒙恬は逃げ出すことも叶わず、恐怖で脚が竦んでしまった。

「ほら、お前もさっさと乗るんだ!」

痛いくらいに腕を掴まれて、蒙恬は泣きながら強く目を瞑った。

(誰か…助けてッ!)

体は恐怖という鎖に締め付けられ、助けを呼ぶことも出来ない。蒙恬は心の中で叫ぶことしか出来なかった。

 

暗雲に差し込んだ光

蒙恬の小さな体が、強引に檻の中へ体を押し込まれたその時、

「てめえらッ!違法の奴隷商人だなッ!」

背後から怒気を含んだ声が辺りに響き渡り、その場にいた全員が声の主を見た。

(あ…!)

先ほど城下町でぶつかってしまった青い着物を着た少年だった。

背中に携えた剣を抜きながら、鬼人の如く、凄まじい勢いで商人たちの前に走って来る。

「噂で聞いてたが、まさかこんな大胆に城下町からガキ共を攫ってたなんてな」

蒙恬を檻へ押し込んだ男の首筋に剣の切先を宛がいながら、その少年が低い声を発した。

「お、お前…何者だ?お前みたいなガキが役人気取りのつもりか?」

男は素直に両手を挙げる。

少年であるとはいえ、剣は本物だし、向けられている殺気も迷いがないことを察して観念したのだろう。

「天下の大将軍だ。未来の・・・なッ」

青い着物の少年は鋭い眼差しを向けたまま、高らかにそう叫んだ。それから慣れた手つきでくるりと剣を回し、柄で男の額を思い切り打ち付ける。

「ぐわあッ」

鈍い音がしたのと同時に、男が無様な悲鳴を上げてその場に崩れ落ちる。どうやら意識を失ったのか、体をびくびくと痙攣させながら目を剥いていた。残った騎手の男が怯えた顔で信を見ている。

少年とはいえ、剣の扱いに長けているのは今ので明らかだった。

着物の袖から覗く腕は古い傷がたくさん刻まれており、蒙恬は自分と少ししか年齢が変わらないその少年は一体何者なのだろうと驚いていた。

「う、うわああッ」

騎手の男が一歩ずつ近づいて来る少年に悲鳴を上げ、手綱を引っ張る。二頭の馬が大きな嘶きを上げて走り出した。

「あッ!てめえ!逃げんな!」

まだ檻には、蒙恬も含めて少年と少女たちが乗っている。このまま逃げ切られれば、全員が奴隷として買収されてしまう。

いきなり走り出した馬車に、青い着物の少年は焦った表情で全速力で駆け出した。しかし、馬と人の足では速度に差があり過ぎる。

(だめだ…!どうしたら…)

このまま引き離されてしまうに違いないと思い、蒙恬は不安の表情で彼のことを見つめることしか出来なかった。

同じように檻の中に入れられている少年少女たちも、せっかく助かったと思ったのに連れていかれてしまうと再び声を上げて泣き始めている。

「あっ」

蒙恬は檻の鍵が掛けられてないままになっていることに気が付いた。自分を檻へ押し込んだ時に、あの少年が現れたため、男が鍵を掛けるのを忘れていたのだろう。

「みんな、逃げるぞッ!」

檻の扉を押し開けた蒙恬が、泣いている子どもたちに声を掛ける。

二頭の馬は走り出したまま止まらない。こんな状態で檻から飛び出せば、間違いなく怪我をする。

それでもこの檻から逃げ出さねば、もっと悲惨な目に遭うぞと蒙恬は彼らに怒鳴りつけた。

擦り傷や捻挫を負うくらいで普段の日常に戻れるのなら、絶対に誰もがそちらを選ぶ。

扉に近い位置にいた子どもが意を決して檻から飛び降りた。転がりながら、何とか受け身を取って外に出ると、それまで不安に押し潰されそうな顔に希望の光が差し込んでいる。

「みんな、早く!早くここから出るんだ!」

蒙恬が声を掛けると、次々と子どもたちが檻から飛び出して行った。

全員が大きな怪我をすることなく地面に足をつけたのを見て、蒙恬はほっと安堵する。

「おい、お前も早く出ろッ!」

未だ馬車を追い掛けている少年が全速力で走り続けている。

蒙恬は夢中で馬を走らせている騎手に視線を向けた。子どもたちが逃げたことも知らずに、騎手の男はずっと馬を走らせている。

違法な奴隷商人の処罰は言わなくても分かっていたし、少年少女たちの家の者たちからも怒りは向けられ、安易に殺されることも叶わない。だからこそ、騎手はここで捕まる訳にはいかないと必死に馬を走らせて逃げているのだ。

「おい!急いで降りろッ!」

青い着物の少年が渾身の力で叫び声を上げた。

しかし、蒙恬は飛び降りる素振りを見せない。怯えている訳でもない蒙恬に、少年が何をしているのだと憤怒する。

もう一度だけ騎手の方を振り返ってから、蒙恬は、

「―――捕まって!」

檻にしがみ付きながら、少年に向かって手を差し出したのだ。

降りろと言っているのに、こちらへ来いとはどういう意味だろう。飛び降りるのが怖いという訳ではないのは理解出来たが、少年は呆気に取られていた。

「俺を信じてッ!」

説明している時間はないと、蒙恬が叫ぶ。

意を決したように、地面を大きく蹴りつけた青い着物の少年が飛び上がった。

まるで見えない羽根でも生えているのかと驚くほど、高く飛び上がった少年は蒙恬の手を掴む。

「わああッ」

少年の手が蒙恬の手を掴んだ瞬間、勢いのまま蒙恬の体が引っ張られて、檻から引き摺り下ろされた。

青い着物の少年が咄嗟に蒙恬の体を抱き込んで、二人して地面に転がる。

後ろで引いている檻に大きな衝撃が加わったことで、走っている二頭の馬が大きな嘶きを上げて体を大きく反り返らせた。

「う、うわあッ!」

急に言うことを聞かなくなった馬に、騎手の男が地面に振り落とされる。

「やった!上手くいった!」

少年の腕の中で、砂埃に塗れた蒙恬が目を輝かせる。

地面に強く体を叩きつけられた騎手の男が起き上がるよりも先に、青い着物の少年は彼のもとへ駆け出して行った。

「大人しくしやがれ!」

男を切り捨てることはせず、その少年は剣の刃を首筋に宛がう。

「ひ、ひいっ!どうか命だけは…!」

これ以上続けるなら命はないという脅しに、騎手の男は青ざめて命乞いをしながら悲鳴を上げる。

…ようやく短い逃走劇に終止符が打たれたのだ。

蒙恬は荒い呼吸を繰り返しながら、その場に横たわっていた。それまで不安と恐怖で強張っていた体がようやく力を抜くことを許された瞬間だった。

 

少年の正体

違法な奴隷商人たちの身柄を役人に引き渡した後、誘拐されていた少年少女たちは無事に家臣たちと再会出来た。

号泣して家臣の胸に顔を埋めている彼らの姿を見ると、ずっと恐怖と不安で心細かったに違いない。

家臣たちもいきなり姿を消したことでずっと城下町を探し回っていたらしい。

多くの人々が出入りする城下町で迷子になっている貴族の子を、親切を装って近づき誘拐し、その身柄を売りつけるという違法な奴隷商人の噂は、ここ最近の咸陽で広まっていたのだという。

主犯である二人を捕らえたのだから、既に手を回されてしまった子どもたちの後を追うことも出来るだろう。あの二人の処罰はそれらの問題が解決してからになりそうだ。

ようやく解放されたのだと安堵した蒙恬も市場に戻って胡漸の姿を探すのだが、自分を探し回っているはずの胡漸の姿はまだ見つからない。

つい先ほどの騒動と違法な奴隷商人の捕縛がさっそく噂となって広まっており、城下町にはまた大勢の人々がごった返していた。

「おい、もしかして…お前が蒙恬か?」

奴隷商人たちから助けてくれた青い着物の少年に背後から声を掛けられ、蒙恬は振り返った。

「あ、あの、先ほどは本当にありがとうございました」

供手礼をすると、少年は得意気に微笑む。

「お前のおかげで、あの二人の奴隷商人をひっ捕らえることが出来た。ありがとな」

乱暴に頭を撫でられ、蒙恬はくすぐったいと笑う。

「けどよ、ガキの癖にあんな無茶は二度とするな」

荷台に衝撃を与えれば、走っている馬が怯むと蒙恬は考え、彼の協力を求めた。

一歩間違えれば大怪我をしていたかもしれないが、あの時の蒙恬は奴隷商人を捕まえることに夢中で、自分のことなど後回しにしていた。

家庭教師に会えるという餌で、この自分を釣った罰を何としてでも受けさせたかったのだ。

しかし、青い着物の少年は蒙恬の私情など知る由もなく、正義感から行ったのだと勘違いしているようだった。

「生まれも育ちも恵まれてるやつは人を疑うことを知らねえからな。これからは気をつけろよ、蒙恬」

「あの、なんで、名前を…」

「蒙武将軍のとこの老将に頼まれたんだよ。赤い着物に、長い髪で、右目に泣きぼくろがあって、普段はずる賢いとか、黙っていても愛らしくて…だとか、本当はやればできる子…だとか…なんかよく分かんねえことまで色々言ってたな」

父、蒙武の老将といえば間違いなく胡漸だろう。やはり自分を心配して捜していたのだ。

早くじィに会いたくて堪らなくなった。女性と違って薄い胸に飛び込み、しわがれた手で頭を撫でてもらいたい。心配かけてごめんなさいと謝りたい。

「にしても、おっかしーな…」

少年が小首を傾げながら、蒙恬のことを頭の先から足のつま先まで見やる。

「あのジジイ、蒙家の嫡男・・っつってたけど…どう見ても女だろ」

先ほどの奴隷商人と違って、彼に見つめられる視線に嫌悪は感じなかった。彼は命の恩人なのだから当然だろう。

「あの、男です」

「はっ?」

女だと間違えられるのは今に始まったことじゃない。端正な顔立ちゆえに、女だと誤解されるのはよくあることだったので、蒙恬は自分を指さしながら性別を打ち明けた。

少年といえば目を見開いて、しばらく口を開けたままでいる。

束の間の沈黙の後、少年は豪快に笑い声を上げた。

「んな訳ねえだろ!嫡男っつたら、あの蒙武将軍の息子だぞッ!?お前みてえな華奢でヒョロいやつが息子な訳あるか!」

「でも、本当に…」

あははと笑いながら、少年は少しも蒙恬の話を信じようとしない。

蒙武といえば武の頂点を目指す強大な将軍だ。筋肉の鎧で固められた体格と、凄まじい威圧感を備えている顔を知っている者が、小柄な蒙恬を見て驚くのも無理はない。

「強がんなって。むしろ娘なら、そんな綺麗な顔で良かったじゃねえか。どれどれ」

少年は大らかに笑いながら、蒙恬の着物の下から手を突っ込んだ。

「~~~ッ!!」

男の急所であり象徴・・・・・・・・・をむんずと掴まれて、蒙恬に衝撃が走る。

こんな激しい衝撃を受けたのは、お気に入りの家庭教師が嫁に行くことを知らされた日以来、いや、それ以上だ。

「あらっ?」

男の象徴を、何度か確かめるように握ってから、少年はようやく着物の下から手を引っこ抜いた。

「んだよ、本当に男だったのか」

「………、………」

命の恩人であるものの、お気に入りの家庭教師でもなく、美人な許嫁でもなく、男によって大切なところを弄られ、蒙恬の中で何かが音を立てて崩れ落ちていく。

石のように硬直して動かない蒙恬を見下ろし、少年は不思議そうに小首を傾げていた。

「おい、大丈夫か?」

蒙恬が衝撃を受けていることなど微塵も気づかず、少年が馴れ馴れしく声を掛けて来る。
堰を切ったように、蒙恬の円らな双眸から涙が流れ出す。

「な、なんで泣くんだよ!?」

ぎょっとした表情になり、少年は狼狽えていた。

ぼろぼろと涙を流している蒙恬は束の間、嫁に行ってしまった家庭教師のことを考えていた。

蒙恬の初恋の女性で、苦手だった勉学に励み、課題をこなしたのは他の誰でもない彼女のためだった。

課題をこなせば、何でも一つお願いを叶えて・・・・・・・・・・・・くれるはずだったのに。

あの豊潤でしなやかな肢体と、何より大きくて柔らかい胸に直で触れてみたかったという願望が蒙恬の中に再び巻き起こる。

着物越しに顔を埋めたり、偶然を装って触れることは何度もして来たが、蒙恬は未だ直の柔らかさと温もりを知らなかった。

それを知ることが出来たなら、彼女との関係が一歩進み、さらにそこから未知の扉を開くことが出来るに違いないと蒙恬は思っていたのである。

そして、自分の男の象徴もどうにかされてしまうのでは、どうにかして欲しいという妄想を抱いては、それを活力として勉学に励んでいた。

―――それがまさか同性によって手籠めにされようとは夢にも思わなかった。

自分を違法な奴隷商人から守ってくれた命の恩人だとはいえ、男に触られた事実は変えられない。

蒙恬は魂が抜けたように真っ白になり、その場に座り込んでしまった。

先ほどのような、安堵で膝の力が抜けたのではなく、悲しみのあまり立っていられなくなってしまったのだ。

「大丈夫かっ?」

心配そうに少年に声を掛けられるが、蒙恬の涙は止まらない。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、蒙恬は両手で溢れ出る涙を擦っていた。

「ううう…今頃は、先生のオッパイ触ってるはずだったのに…!先生に会わせてくれるって言うからついて行ったのに…!」

いきなり泣き出して座り込んだかと思いきや、そんなことを言い出した蒙恬に、少年が大口を開けている。

それから彼は我に返ったように、顔を真っ赤にして憤怒した。

「馬鹿かお前!あいつらに騙されたって分かってんのか!?」

頭頂部に容赦ない鉄拳が振り落とされて、蒙恬はますます声を上げて泣いた。

祖父の蒙驁にも、父の蒙武にも、教育係の胡漸にも殴られたことがない。甘やかされて育った蒙恬に、その鉄拳の痛みは未知なるもので、ますます涙が止まらなくなる。

「うえええ~ん!」

大声を上げて泣き喚く蒙恬に、周りの視線が集まっていく。事情の知らない者からしてみれば、兄弟のようにも見える二人だが、誰が見ても青い着物の少年が泣かせたのは明らかだった。

「泣くな!面倒くせえな!」

少年に怒鳴られるとますます涙が止まらない。堪えるつもりもなく、蒙恬は泣き続けた。

どんどん人々の視線が集まっていくことが耐えられなくなったのか、少年は蒙恬の手首を掴んで無理やり立ち上がらせる。

人々の視線から逃げるように、信は路地裏へと走った。人気がなくなり、陽の光が入らない路地裏に辿り着くと、少年は辺りを見渡して誰もいないことを確かめる。

それから蒙恬の方を振り向くと、

「そんなに胸が触りてえんなら俺ので我慢しとけ!美人じゃねえのは分かってるから文句言うなよ!」

あろうことか、少年は自分の襟合わせの中に蒙恬の右手を引き込んだ。

男の薄っぺらい胸で満足出来る訳がないだろうと全力で抗議しようとした、その時だった。

「……えッ?」

手の平いっぱいに柔らかい感触が伝わる。着物越しではなく、しっとりとした艶のある肌の滑らかな感触と温もりがそこにあった。

(こ、この感触・・・・は…!)

それまで流し続けていた涙が驚愕のあまり、ぴたりと止んだ。

全神経を手の平に集中させる。この膨らみと気持ち良い重さは間違いない。夢にまで見た、ずっと求めていた素肌の乳房だ。

「―――」

蒙恬が言葉を失ったのは、ずっと望んでいたものを手に入れたことと、少年だとばかり思っていた目の前の命の恩人が実は少女だったという衝撃的な事実が同時に襲ったからである。

「おらっ、とっとと帰るぞ!蒙武将軍も老兵も心配してる」

少女は蒙恬の手を胸から離すと、乱れた着物の襟合わせを整えた。

自分の胸を触らせたことに恥ずかしがっている素振りは一切なかったが、一応、人目を気にしてここに連れて来たのだろう。

たった数秒のことだったのだが、蒙恬には永遠にも思える時間だった。

 

少年の正体 その二

未だ呆然としている蒙恬を連れ出して、少女は路地裏を出た。

せめてもう少しだけで良いから余韻に浸らせて欲しいと思うのだが、右手に残っている胸の感触を上書きするように、少女は強くその手を握り締めていた。

城下町を抜けて、宮廷の方へ向かっているようだった。

門のところにいる衛兵は少女の顔を見ると、詰問をすることなく、黙って通してくれる。

そのことに蒙恬は些か疑問を抱いた。高貴な身なりだとしても、王族が住まう宮廷に入るには厳しい取り締まりを受けるのが普通だ。関門を通る時のように、許可証を見せなくてはいけない時だってある。

それが少女には不要だった。もしかしたら父親が高い地位に就いているのだろうか。

門を潜って少し先に進んだところに、見覚えのある男たちが立っていた。

「父上!じィ!」

少女が手を放したのと同時に、蒙恬は蒙武と胡漸のもとへ駆け出す。

「蒙恬様ああッ」

涙腺がどうにかしてしまったのかと思うほど胡漸の双眸から涙が止まらない。蒙恬の体を抱き締め、「よくぞ御無事で」と嗚咽を上げながら泣き続けている。

微かに擦り傷がついているものの、息子の姿を見下ろし、蒙武も表情には出さないものの、どこか安堵したように息を吐いていた。

「ンフフゥ。お見事でしたねェ、信」

蒙武と並ぶ体格の男がもう一人。それが中華全土に名を轟かせている六大将軍の一人、王騎だということは当時の蒙恬は知らなかった。

名前は知っていたのだが、咸陽宮に足を踏み入れたのも初めてだったし、父と祖父以外の将軍の姿を見るのはこの時が初めてだったのだ。

信というのは少女の名前らしい。王騎に褒められた彼女は得意気に笑っている。

「王騎の娘よ、なぜ奴隷商人の行方が分かった?」

息子に声を掛けるよりも先に、蒙武は信に奴隷商人のことを問うた。信は供手礼をしてから蒙武の姿を見上げる。

「…ガキの頃、奴隷商人には世話になった覚えがある。そのせいか、あの男の品定めをしてる目つきや素振りが何となく気になって、追っかけたんだ」

信の言葉を聞いて、蒙武は納得したように頷いた。

未だ胡漸の腕の中にいる蒙恬はその言葉に、弾かれたように顔を上げる。

目が合うと、信はばつが悪そうに視線を泳がせた。それから蒙恬の前に来ると、体を屈めて蒙恬と目線を合わせる。

「…すぐに助けなくて悪かった。お前と同じように、売り物にされそうなガキたちの居場所を突き止めるためだったんだ」

申し訳なさそうにそう語る彼女に、蒙恬は首を横に振った。

「信のおかげで、俺もみんなも助かったんだから、平気だよ」

心細かっただろうに、すぐに助けられなかったことを逆上することもなく、蒙恬は花が咲いたような笑顔を浮かべる。

安堵したように信も微笑み返し、それから蒙恬の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「ンフフフ。信、そろそろ行きますよ」

独特に笑いながら王騎に声を掛けられ、信は頷いた。

「信、待って!」

蒙恬が胡漸の腕の中から走り出し、奴隷商人を捕まえる策を成すために、掴んでくれた彼女の手を蒙恬はしっかりと握り締めた。

「ねえ、俺が信より大きくなったら、信のことをお嫁さんにしても良い?」

その場にいた全員が大口を開けて硬直した。

一体何を言われているのか理解するまでに時間が掛かっているらしく、信は瞬きを繰り返している。

今の今までで、蒙恬に求婚されるような過程があったとは思えなかった。

奴隷商人から助けたことに恩を感じているのかもしれないが、それにしても求婚は段階を飛ばし過ぎている。

よく分からない理由で泣き喚く蒙恬を泣き止ませるために、胸を触らせたことが悪かったのだろうか。

もちろんこの場で、胸を触らせてやったことは口が裂けても言えないが…。

「ココココ。蒙武さんの息子さんは面白いですねェ」

背後で王騎が右手の甲を左の頬に押し当てて独特に笑っていた。普段は不愛想な蒙武も珍しく動揺したように目を泳がせている。胡漸といえば大口を開けたまま動かなかった。

「…だめ、なの…?」

全員の反応から、あまり良い返事はもらえないことを蒙恬は幼心ながらに理解してしまう。

信の口からまだ返事は聞いていないというのに、つぶらな瞳がみるみるうちに涙で潤まっていく。

「あ、え、えーっと…」

先ほどと状況が違って、王騎と蒙武がいる手前、下手なことは言えないと信はあからさまに狼狽えていた。

蒙恬を泣き止ませるために路地裏に引っ張っていき、胸を触らせたという事実を口外されれば、大事な嫡男をたぶらかしたとして蒙武から首を斬られてしまうかもしれない。

なんとしても信は上手くこの場を切り抜けなくてはと必死に思考を回した。

「そ、そんじゃあ、軍師学校を首席で卒業して、蒙武将軍みたいな立派な将軍になったらな?俺は天下の大将軍になるんだ。俺より大きくなるってことは、そういうことだぞ?」

これ以上泣かせないように、そして何より胸を触らせたことを告げ口されないように、信はそう答えるのが精一杯だった。

難しい条件を突き付けられただけでなく、返事を保留にされたことには気づかず、蒙恬の瞳が輝きを取り戻す。

「わかった!約束だよ!」

「は、はは…」

蒙恬が小指を差し出して来たので、信は苦笑を浮かべながら自分の小指を絡ませた。

―――それから数年の月日が流れ、蒙恬が軍師学校を首席で卒業したという報せが信のもとに届いた時、彼女は愕然とするしかなかった。

 

思い出話と約束

此度の戦でも大いに武功を挙げた蒙恬は、論功行賞でも名前を呼ばれていた。ついに将軍昇格となったことに、楽華隊も蒙家の家臣たちも大いに喜んでいる。

戦の勝利を祝う宴の席を抜け出し、城下町が見下ろせる露台で信は酒を飲んでいた。杯をつかわずに酒瓶に直接口をつけて流し込んでいるのだが、少しも味を感じていない。

「信!」

聞き覚えのあり過ぎる声がして、信の顔がぎくりと強張った。先ほど論功行賞で名前を呼ばれた蒙恬が満面の笑みで駆け出す。

「宴の席にいないから探したよ」

「あ、ああ…ちょっとな…はは…」

信は今、秦軍に欠かせない大将軍の一人だ。飛信軍の女将軍の活躍は中華全土に名を轟かせている。

馬陽の戦いで没した王騎にも劣らぬ強さを持つ飛信軍を追い掛けるように、蒙恬率いる楽華隊も着実にその名を広めている。

此度の戦に飛信軍は参加しなかったものの、信は祝宴の場に訪れていた。

「俺、今回の戦で将軍に昇格になったんだ」

興奮に息を荒げながら報告する蒙恬に、信は苦笑しながら頷いた。

「ああ、知ってるぜ…い、いやあ、早いもんだ」

酒を飲みながら信はさり気なく蒙恬から一歩距離を取る。しかし、開いた距離を埋めるように、蒙恬も一歩詰めた。

「………」

いつの間にか壁際に追い詰められた信は、気まずさを隠すように酒瓶に口づける。

「約束」

その言葉に、信が瞠目する。

「まさか忘れてないよね?」

追い打ちを掛けるように笑顔で詰め寄られ、信は堪らず目を泳がせた。忘れてて欲しかったのはこちらの方だと言葉を飲み込む。

「え、っと…」

背中に壁が当たっており、蒙恬が両手を顔の横について来たので、いよいよ逃げ場がなくなる。

初めて出会った頃は信が見下ろしていたのに、いつの間にか身長も追い抜かれ、今では信が蒙恬に見下ろされる身長差に逆転していた。

もちろん信も大将軍として幾つもの死地を駆け抜けている存在であり、簡単に男に組み敷かれることはない。

六大将軍の王騎と摎の養子であることや、分家とはいえ名家の娘であり、大将軍の座についている彼女を欲する男は大勢いる。

しかし、彼女に結婚の意志がないのは、縁談話をずっと断っていることから明らかだ。

そしてそれは幼い頃からの自分と約束を守ってくれているからに違いないと蒙恬は信じ込んでいる。

―――ねえ、信より大きくなったら、信をお嫁さんにしても良い?

―――そ、そんじゃあ、軍師学校を首席で卒業して、蒙武将軍みたいな立派な将軍になったらな?俺は天下の大将軍になるんだ。俺より大きくなるってことは、そういうことだぞ?

今の彼女の年齢なら、既に何人も子を産んでいる者もいる。しかし、信は自分と結婚するために、どこにも嫁ぐことなく、独り身を貫いているのだと蒙恬は少しも疑わなかった。

「…蒙恬。お前のとこに色々縁談が来てるって聞いたぞ?副官のあの老兵が言ってたなあ?」

「じィが?」

そう、と信が頷いた。

背後は壁で、蒙恬の両腕によって逃げ場を失った彼女は一向に目を合わせようとせず、言葉を続ける。

「どっかの貴族の娘とか、蒙家の嫁に相応しい女ばかりなんだろ?良かったじゃねえか」

ぎこちない笑みを浮かべながら、信が蒙恬の肩をぽんぽんと叩く。
まるで自分と知らない女の結婚を祝福するかのような言葉に、蒙恬が目を見開く。

「…何言ってるのさ?」

それまで笑顔を浮かべていた蒙恬の顔から表情が消えたことに信も気づいていた。彼の腕の中から抜け出すと、信は小さく溜息を吐く。

「いい加減、自分に相応しい相手を探せよ」

背中を向けていたので、彼女がどんな表情を浮かべているのか蒙恬には分からなかったが、その声色は恐ろしいほどに冷え切っていた。

「…え?」

束の間、蒙恬は呼吸も瞬きも忘れていた。

「俺との約束は?」

蒙恬が手を伸ばして信の肩を掴む。しかし、信はこちらに目を向けず、その手を振り払った。

「そんなもん、無効に決まってんだろ。ガキの頃の話だぞ?なに本気にしてんだよ」

信は振り返らないまま、今度はわざとらしく溜息を吐く。まるで刃のように、その言葉は蒙恬の胸の内を傷つけた。

「信…本気で言ってるのか?」

当たり前だろ、と信が振り返った。

声には怒気が含まれているのに、その表情は切なげに眉根を寄せていて、弱々しい。

「…お前が考えるのは、俺のことじゃなくて、蒙家の安泰・・・・・だ」

吐き捨てるようにそう言った信は、一度も振り返ることなく早足で行ってしまう。

いつもならすぐに雛鳥のように追い掛けるのだが、蒙恬は彼女の言葉を聞き、足に杭を打たれたかのように動けなくなってしまった。

 

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