キングダム

蝸牛角上の争い(蒙恬×信・王賁×信)前編

蝸牛角上の争い
記事内に商品プロモーションを含む場合があります
Pocket

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ギャグ寄り/ほのぼの/咸陽宮/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

信の将軍昇格

名家と謳われる王家の本家嫡男である王賁、そして天下の大将軍と称えられた王騎と摎の養子である信。二人の仲の悪さは、秦国内で有名だった。

顔を合わせれば、お互いに嫌悪を剥き出し、敵対関係にあると言っても過言ではない。

守るべき国は同じのはずなのに、二人は根本的に馬が合わないのだろう。

しかし、蓋を開けてみれば一方的に嫌っているのは王賁の方である。
信は彼から突きつけられる言葉に憤り、最終的には言い合いから喧嘩へと発展するのが習慣化していた。

なぜそこまで王賁が信を毛嫌いしているのかというと、元下僕の出身という後ろ盾のない信が、名家の一員に加わることが許せなかったのだ。

馬陽で龐煖に討たれた王騎は、同じく馬陽でその命を散らせた妻・摎との間に子がいなかった。

子に恵まれなかったわけではないのだが、下僕出身の信に将としての才を見出し、二人は彼女を養子にすることに決めたという。

信は王騎と摎のもとで武術の腕を磨き、今や彼女が率いる飛信隊の名は中華全土に広まっている。

軍略はからきしであった彼女も、両親の死を乗り越え、今では本能型の将としての才能開花させたのである。

そして、此度の戦で武功を挙げた信は、いよいよ五千人将から将軍へと昇格になった。

元下僕の出身である彼女が将軍になったという話は、秦国中だけでなく、たちまち中華全土に広まることとなる。

 

論功行賞の後に行われた宴は三日三晩続き、翌朝になって、信はようやく屋敷へ帰ることを許された。

浴びるように酒を飲み続けたせいで足下がおぼつかない。二日酔いでひどく気分が悪かった。気を許せばすぐに倒れ込んでしまいそうだ。

親友であり、この秦国の王である嬴政からは「あと数日くらい休んでいけ」と言われたのだが、両親から受け継いだ屋敷をいつまでも空けておく訳にはいかない。

ふらふらとした足取りで、愛馬を預けている厩舎に向かっていると背後からぽんと肩を叩かれた。

「信将軍。まさか護衛もつけずに、一人で帰るつもり?」

声を掛けて来たのは蒙恬だった。
彼も楽華隊隊長として此度の戦では大いに武功を挙げたが、将軍昇格には至らなかった。

酔いの名残のせいか、頬を紅潮させている信は、眠そうな目を擦りながら声を掛けて来たのが蒙恬だと分からずにいるようだった。

蒙恬とは祝宴の場でも酒を飲み交わし、互いの武功を大いに讃え合った。先に帰ったのかと思っていたが、彼も三日三晩の宴を最後まで堪能していたらしい。

信以上に酒を飲んでいた彼は少しも酔っている姿を見せなかったし、今も普段と変わりない。父親譲りのザルなのだろう。

「んあ…?蒙恬…?お前、帰ったんじゃなかったのかよ」

「信と二人きりで話せる機会を伺ってた」

端正な顔立ちである蒙家の嫡男に、笑顔でそんなことを言われれば、多くの女性は黄色い声を上げて胸をときめかせるだろう。しかし、相手が悪かった。

「はあ~?宴でもさんざん喋ったじゃねえか。もう帰って寝るんだから邪魔するなよ」

将という立場で、お互いに切磋琢磨し合う関係である信には、蒙恬の甘い言葉は少しも効き目がないらしい。

もちろん長い付き合いで、そんなことは自覚している蒙恬が引くことはなかった。

「王賁から祝いの言葉は掛けられたの?」

良い気分でいるというのに、その名前は聞きたくなかったのだろう。あからさまに顔つきが変わった信に、蒙恬は返事を聞かずとも質問の答えを理解した。

「相変わらずだなあ…素直におめでとうって言ってあげればいいのに」

呆れるように肩を竦めて呟くと、信が、ふんっと鼻を鳴らした。

「いいんだよっ、あんなやつ!」

「信も信なら、賁も賁だよ。…ほんと、似た者同士なのに仲悪すぎ」

やれやれと蒙恬が笑った。二人の不仲を一番間近で見て来たのは蒙恬だ。

王翦将軍は王賁の父であり、蒙恬の祖父にあたる蒙驁将軍の副官である。その繋がりがあるせいか、王賁は蒙恬と幼い頃から付き合いがあった。

しかし、王賁は信との付き合いの方が長い。本家と分家の違いはあるものの、王家の繋がりがあるのだ。二人がずっと不仲なのを、蒙恬は昔から傍で見ていた。

いつも王賁と信の間に割り込んで、二人の喧嘩を制止するのが蒙恬の役割になっていた。

 

不仲な二人

「…と、噂をすれば。おーい、賁くん」

蒙恬がそう言って大きく手を振ったので、信があからさまに顔を強張らせた。

振り返ると、いつものようにしっかりと整えた身なりの王賁がこちらへ歩いて来ているところだった。

てっきり先に帰っていると思ったのだが、彼もこれから帰るところだったのだろうか。

こちらに気づいた王賁だけでなく、信までもがあからさまに目を背け、お互いを視界に入れないようにしている。

ここまで同じ行動をすることができるのに、どうしていつまでも不仲でいるのか、蒙恬には分からなかった。

蒙恬に声を掛けられたからというよりは、こちらの方向に用があっただけなのだろう。一度も二人に視線を向けることなく、王賁が近づいて来る。

顔つきはいつものように不愛想だったが、その瞳には怒りの色が宿っていた。恐らく信の将軍昇格が気に入らないのだろう。

「…素直にお祝いしてあげればいいのに…」

二人の横を過ぎ去ろうとした時に、飽きれたように蒙恬が呟く。

「王賁なんかに祝われても嬉しくねーよ」

自分たちの前を通り過ぎた王賁の背中に、明らかな敵意を持った信の言葉が投げられる。
これにはさすがの蒙恬も、笑顔を引きつらせた。

きっと彼女が発したのは無意識なのだろうが、だとしたら余計にたちが悪い。

どうやら信の挑発とも取れる言葉に足を掴まれたらしい。こめかみに青筋を浮かべた王賁が振り返って、信の胸倉を掴みかかった。

「貴様ッ…何度も言っているが、下僕出身の分際で、王家の名を汚すなッ!」

近距離で王賁に凄まれ、大抵の者ならこれだけで怯んで言葉を失ってしまうだろう。
しかし、信は負けじと挑発的な視線を返した。口元には余裕を思わせる笑みさえ浮かべている。

胸倉を掴んでいる腕を振り払うのではなく、同じように信も王賁の胸倉を掴み返した。

「その下僕出身の女は、お前よりも上の立場になったんだよ!」

下僕という低い身分を嫌っている王賁が信に唯一敗北したことといえば、先に将軍昇格をされてしまったことだ。

将だけでなく、相性が悪いのは飛信隊と玉鳳隊の兵たちも同じである。

此度の信の将軍昇格を誰よりも喜んでいたのは飛信隊だった。
それまで自分たちをバカにしていた玉鳳隊へ大きく差をつけたことと、身分は関係なく、信と飛信隊の強さが証明されたことを飛信隊の兵たちは大いに喜んでいた。

戦の勝利を祝う宴だというのに、玉鳳隊だけが苦虫を噛み潰したような顔をしていたことに気付いたのは蒙恬だけではないだろう。

いつも下に見ていた女が将軍昇格となり、自分より高い立場に立った事実を、王賁は未だ受け入れられないのだろう。

「ふざけるな…!俺は認めぬぞッ」

「てめえに認められなくたって、俺は将軍になったんだよッ!」

「貴様ッ」

いよいよ王賁の怒りが頂点に向かっているのを察した蒙恬は、まずいと二人の間に割り込んだ。

 

 

「はい、そこまでッ!」

大きく両手を広げて、蒙恬は二人に物理的な距離を取らせる。
怒りのあまり、肩で息をしている二人が蒙恬を挟んで睨み合いを続けている。まるで縄張り争いをしている獣のようだ。

もしもこの場に蒙恬がいなければ、すぐにでも殴り合いが始まっていたに違いない。信が女であっても、王賁は決して容赦はしないのだから。

それこそ信を将として認めている証拠だと本人は気づいていないようだが、手を抜けば信から大いに反撃を許すことにもなるからでもあった。

未だ睨み合いを続けている二人に、蒙恬が冷静に声を掛ける。

「二人とも、いい加減にしろよ。それ、戦でもやるつもり?」

むしろ、戦場にいる時の方が同じ目的を持っていることもあって、多少は仲が改善しているように思えた。

しかし、もしも今の壊滅的な不仲が戦で現れれば大きな損失をもたらすことになる。

「味方同士だって言うのに、そんなんじゃ士気に影響するだろ」

同じ持ち場についた時に足を引っ張りかねないと蒙恬は指摘したが、二人は腕を組んで、顔ごと視線を逸らしている。

「文句があるなら、俺と同じ将軍になってから言えってんだ」

「貴様ッ…!」

「なんだよ、間違ってねえだろッ!?立場を弁えてる・・・・・・・からこそ教えてやってんだよ!」

「あー、もう、またそうやって煽る…!」

一向に喧嘩の気配が過ぎ去らない。
割り込んだものの、王賁と信の瞳から闘争心の消えないことに呆れ果てた蒙恬は肩を落とした。

せっかく喧嘩を止めようとしてくれた蒙恬の心遣いも無駄に終わったようだ。

「下がってろ、蒙恬!やっぱり泣かせてやらねえと気が済まねえ」

間にいる蒙恬を押し退けた信は拳を握り、バキバキと骨を鳴らした。女だということを忘れてしまいそうなほど信の顔が恐ろしい形相に歪んでいる。

「泣かせるだと?下僕の分際で、よくそんな口が叩けるものだな」

対する王賁は少しも怯むことなく、一歩前に出て信と睨み合っている。
殺意が込められた視線がぶつかり合い、周囲にはとんでもなく重い空気が広まっていた。

「もう、二人とも…」

すぐにでも殴り合いでも始まりそうだと、蒙恬が再び間に割り込もうとした時だった。

「そんなところで何をしている」

背後から掛けられた声が引き金となった。

「えっ?」「あ」「ふがッ!」

蒙恬は驚いて振り返り、王賁は素早く拳を振りかぶり、信は声の主を探そうとして気を抜いたところを王賁に殴られた。

鼻血を噴き出しながら仰向けに倒れ込んだ信は目を剥いていて、体を僅かに痙攣させている。

王賁の重い拳が信の左頬に見事に決まったらしい。

「信ーッ!」

倒れ込んだ信に、蒙恬が真っ青な顔をして駆け寄る。肩を揺すって何度も声を掛けるが反応がない。

左頬がみるみるうちに真っ赤に腫れ上がっていく。意識を失っているところを見ると、少しも加減せずに王賁が殴りつけたのだと分かった。

「はあ…手を出す喧嘩は子どもの時だけにしてよ…」

命に別状がないことは分かったものの、蒙恬は重い溜息を吐く。

王賁と言えば、いつものように信が拳を回避するか受け止めるだろうと思っていたらしく、気絶している彼女を見下ろしてあからさまに狼狽えていた。

「……何をしている」

三人に声を掛けたのは軍の総司令官を務める右丞相の昌平君だった。普段よりも眉間の皺が三割増しである。

彼の視線が気を失っている信に向けられており、蒙恬がしまったと顔を引きつらせる。

「いえ、ちょっとしたじゃれ合い・・・・・を…」

そんな言葉で片づけられないのは誰もが分かっていた。

 

 

昌平君の仲裁

重い瞼を持ち上げると、ここ数日のうちにすっかり見慣れた部屋にいることに気がついた。

夜通し行われていた祝宴の間、信が寝泊まりをしていた咸陽宮の一室だった。寝台に寝かされていたらしい。

「う…いでで…」

熱く痺れるような鈍い痛みが走り、反射的に左頬に手を添えると、冷たい水で絞った布が当てられていたことに気付いた。

「あ、起きた?」

寝台の傍で座っていた男が振り返る。蒙恬だった。
信は状況が分からず、なぜ自分たちがここにいるのか問おうとした。

「っ…」

その瞬間、唇がひりひりと痛み、口の中いっぱいに血の味がした。どうやら唇も切っていたらしい。

「ほら」

蒙恬に水差しと空の器を渡され、信は軽く口を漱ぐ。切れた唇に水が沁みた。

「王賁はさっさと帰っちゃうし、代わりに俺が先生から怒られるし、信は気絶したままだし…はあ、本当に最悪だったよ」

重い溜息を吐きながら、蒙恬が肩を竦めるようにして笑う。

「くっそぉ…油断した…!」

王賁に殴られて気を失ったのだと思い出した信は、憤怒に顔を歪めた。殴られたことが悔しくて堪らないのだろう。

しかし、憤怒しているのは蒙恬も同じだ。二人の喧嘩を止めようとしたはずの自分が昌平君に説教をされたことが納得出来ず、彼も苛立ちを見せている。

「…無理に仲良くしろとは言わないけど、二人の仲の悪さはいつか戦で命取りになる。最低限の連携はしろよ」

真剣な表情で諭すように言うと、信がむすっとした表情で振り返った。

「言っとくが、あいつの方が俺を毛嫌いしてんだよ!王賁が素直に従うんなら俺だって…!」

王賁は名家の生まれのせいか自尊心が高く、下僕出身の信が同じ王家という立場にいることがずっと許せないらしい。

信の方は下僕出身であることを気にしている訳ではないようだが、王賁の酷い物言いに耐え切れず、言い返してしまうのだ。まさに売り言葉に買い言葉である。

「王賁は自尊心の塊だからなあ…」

下僕出身である信が同じ名家の立場にいることも許せないのに、そんな彼女が此度の昇格によって、自分よりも高い地位についたことが尚更許せないのだろう。

祝うどころか、その地位から引き摺り下ろしてやろうとするほどの遺恨を感じる。

「二人って、昔からそんなに仲悪かったの?」

さり気なく尋ねると、信はきょとんと眼を丸めた。

「…ガキの頃は、今よりかはマシだったな」

天井を見つめながら、信が昔を懐かしむように言う。

王家同士の付き合いもあり、幼い頃から面識はあった。王賁は槍を、信は剣を振るい、共に稽古をするも珍しくはなかった。

槍を使ってみたいと言った信に槍の構え方を教えてくれたのも王賁だった。

お互いに秦だけでなく、この中華全土に名を轟かせる天下の大将軍になるという夢を抱き、切磋琢磨し合っていた。

ある日、王賁は手のひらを返したように態度を変えたのだ。

それまで兄のように慕っていた王賁の態度が変わり、あからさまに避けられるようになってから、当時の信は戸惑った。

―――立場を弁えろ。

まるで汚らわしいものを見るような目で王賁にその言葉を言われた時、信は涙こそ流さなかったものの、激しく動揺した。

今でも鮮明にその時のことを思い出せるのは、それだけ心に深い傷を負ったからだろう。
信は大きな溜息を吐いた。

「…ガキの頃の俺は、なんで避けられてるのか分かんなくて、王賁より強くなりゃあ、また優しくしてもらえるかもって思ったんだよな」

当時の信は、王賁が名家の嫡男であることは知っていても、彼が低い身分の者を疎ましく思っていることなど知らなかった。

王賁が自分を嫌うようになったのは、自分が彼より弱いからだと当時の信は疑わなかった。

もちろん養父である王騎のもとで修業を積んだことも大きく影響しているが、信が必死に強さを求めたのは、王賁に以前のように接してもらいたかったからだった。

 

蒙恬の策略

「それが、あいつより上の立場になったところで、なーんにも変わらなかったな」

「信…」

同情するように、蒙恬が切なげに眉を寄せて話を聞き入っている。

王賁に殴られた頬が鈍く痛む。
何の感情か分からない涙が出そうになって、信は寝返りを打つふりをして蒙恬から顔を背けた。

彼女の背中をそっと擦ってやり、蒙恬は唇を固く引き結ぶ。

それから意を決したように、信に声を掛けた。

「…もう、王賁のことは放っておきなよ」

「………」

聞こえているだろうに、信は返事をしなかった。

「王賁を振り向かせたいって理由で将軍になった訳じゃないだろ」

背中を向けたままの信が小さく頷くと、蒙恬の口角が僅かにつり上がった。

「信は信のままで良いんだよ。王賁の態度が変わらないっていうのは今回の将軍昇格で分かったんだし、もう放っておけよ」

優しい言葉で慰めながら、蒙恬は信の心に寄り添った。それこそが、王賁という恋敵を遠ざける蒙恬の策略である。

王賁と信の仲が悪いのは昔からではあったが、二人は幼い頃から闘争心を向け合っている。

そしてそれが恋にすり替わった途端、それまでの仲の悪さなど瞬時に忘れ去ってしまうだろうと危惧していた。

昔から信にずっと想いを寄せていた蒙恬は、二人の関係を仲の悪い幼馴染から恋人同士に発展するのを何としても阻止しようと、いつも傍で見張っていたのだ。

王賁の態度が冷たいことに、信がいつも傷ついているのは明らかだった。

当の本人は自覚がないようだが、もしもそれが王賁に好意を寄せているからだと気づけば厄介なことになる。

そして王賁自身も、信にあのような態度を取ってはいるものの、いつも信の姿を目で追っている。

信と王賁がお互いに両想いであることは、第三者の目からすれば明らかだったのだ。

しかし、その恋を成就させてやるほど、蒙恬もお人好しではない。
むしろ二人の表面的な不仲を理由に、信を自分の妻に迎え入れようという計画を長年ずっと企てていたのである。

「…王賁は信の将軍昇格が気に入らないみたいだけど、俺は、信がずっと努力してたのを傍で見てたから知ってるし、素直に嬉しいよ」

そう言うと、信はゆっくりと振り返って、寝台に横たわったまま蒙恬を見つめた。

彼女に見つめられると、心臓が早鐘を打ち始める。しかし、蒙恬は表情を崩さずに言葉を続けた。

まだ赤く熱を持っている左頬を撫でてやり、にこりと笑みを深める。

甘い声で囁き、頬や髪に触れながら、優しい笑みを向ける。…これで落ちなかった女は今のところ一人もいない。

その自信を胸に携えながら、蒙恬は次の信の言葉を待った。

 

 

「…ん、ありがとな」

恥ずかしそうに信が小さな声で礼を言ったので、信の心は揺らいだに違いないと蒙恬は心の中で高らかに叫んだ。

しかし、ここで焦ってはいけない。自分からではなく、むしろ相手が自分を誘うまで、とことん焦らすのが女性の心を搔き乱す方法だと、数多くの女性を相手にして来た蒙恬には分かっていた。

「今日はゆっくり休んで」

優しく頭を撫でてやり、寝台から立ち上がる。

ここで背を向けた時に「行かないで」と着物を掴まれたなら、確実に信の心を掴み取ったことになる。

(…おかしい)

しかし、信は蒙恬の着物を掴むことも、言葉を掛けることもしない。

寝台から立ち上がってから自分に背中を向けたまま、一向に動き出さずにいる蒙恬に、信が不思議そうに小首を傾げていた。

「何してんだ?行かねえのか?」

「…いや…えっと…」

ここまで距離を詰めたというのに、自分を引き留める素振りすら見せないということは、まさか信の心は少しも揺らいでいないのだろうか。

「信、あのさ…」

「ん?」

振り返ると、信は寝台に横たわったまま、今度は寛いだ表情を見せていた。

恥じらいの表情ですらなかったことに、やはりまだ心は自分の方にさえ向いていないのだと蒙恬は奥歯を噛み締める。

「蒙恬?」

「…王賁ともう関わるなよ」

静かにそう言うと、信が何度か瞬きをしていた。しかし、蒙恬はそれ以上何も言わずに部屋を出ていく。

後ろ手に扉を閉めながら、他の女ならば容易く自分に落ちるのに、どうして信は自分を見てくれないのだと溜息を吐いた。

 

蒙恬の困惑と信の謎

異変が起きたのはその後からだった。

信が王賁を避け始めたのだ。蒙恬が自分の目で見たのだから間違いない。

普段は王賁の姿を見かけるなり、肩を叩いて気軽に声を掛けていた信が、あからさまに彼がいる進路とは反対の道に方向転換をしていた。

自然な素振りは一切なく、王賁の姿を見つけた途端におろおろと動揺するものだから、彼女の異変に気付いたのは蒙恬だけではなく、王賁もあからさまに自分を避け始めた信に気付いたようだった。

嘘を吐けない性格である彼女が、自然な振る舞いが出来ないことに苦笑を浮かべながらも、蒙恬の心中は穏やかだった。

これで王賁との接点が少なくなり、二人にますます距離が出来るだろう。そこを自分が詰め寄るという作戦だ。

王賁を避けることで、信の心は寂しさを覚えるかもしれない。
そこで王賁に恋をしていると自覚する前に、その寂しさを自分の温もりで埋めてしまえば信を自分のものにできると蒙恬は考えていた。

蒙恬の中では完璧なまでの作戦だったのだが…。

 

後日、王賁と蒙恬の姿を見つけるなり、信はあからさまに二人を避けようと踵を返した。

自分が言った通り、王賁を避けようとしているのだろう。
そのことに気を良くしながら、蒙恬は小走りで信の背中を追い掛けて、彼女の肩を掴んだ。

「信。あれから調子は、ど、う…?」

肩を掴んだ途端、その手を振り払われて蒙恬は愕然する。行き場を失った手が宙を切り、遠ざかっていく信の小さな背中を蒙恬は呆然と見つめていた。

(…まさか、俺まで避けられてる…!?)

完璧と思える作戦だったはずなのだが、信はなぜか王賁だけでなく、蒙恬まで避けるようになっていたのだ。

…それからも蒙恬と王賁は、あからさまに信から避けられる日が続いた。

嘘を吐けない信の態度はとても分かりやすい。蒙恬と王賁の姿を見れば、途端にあたふたと左右を見渡して退路を探すのだ。

王賁はそんな信を見ても何も言わなかったが、蒙恬の心中は穏やかではなかった。

逃げられる前にと蒙恬の方から声を掛けたこともあったのだが、信はすぐに踵を返して蒙恬に背を向けて逃げ出してしまう。

その時は隣に王賁が居たからだろうと思っていたのだが、信は蒙恬が一人の時でも同じように逃げ出していったのだ。

いったいどうして自分まで避けられるようになってしまったのか、蒙恬は少しも理由が分からず、

「賁はともかく、なんで俺まで避けられてるんだッ…!?」

髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、蒙恬は心中の疑問を吐き出した。

隣を歩く王賁は相変わらず他者を寄せ付けない厳しい表情のまま「知るか」と呟いた。

しかし、あからさまに避けられるようになってから、王賁の態度にも変化が見られるようになった。

信のことを目で追っているはずの彼が、信がいない時も彼女の姿を探すようになっていたのだ。

そのことに蒙恬はいち早く気づき、このままでは痺れを切らした王賁が信を捕まえて、彼女に思いの丈を打ち明けるのではないかという不安を抱いた。

 

後編はこちら