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軍師学校の空き教室(昌平君×信)後編

軍師学校3
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

王騎との勝負

「では、あなたからどうぞ」

王騎はせめてもの情けのつもりなのか、先行を信に譲った。

総大将を含め、軍に見立てた駒は六ずつ。そのうち、一つは総大将の駒だ。今回設定した地形には山や川などの障害物がないため、伏兵などの作戦は通用しない。

中央で陣形を組合い、攻防戦となるだろう。先日、河了貂と信が軍略囲碁をしていた時と同じ条件の試合だった。

「………」

信は総大将以外の五つの軍に見立てた駒を横一列に並ばせて前進させた。陣形を取る様子はない。ただの前進であり、王騎の出方を見ようとしているのだろう。

どちらも真剣に囲碁台を見つめており、声を発さない。戦場にいるかのような重々しい空気が二人の間に横たわっていた。

次に王騎が駒を動かす。彼は、信とは違って五つの軍を別々に動かし始める。四つの軍を二列ずつに並べ、陣形の準備を始めていることが分かる。

横一列に並んでいる信の駒を崩そうと、四つの軍を斜めに配置させている。これは斜陣がけだと昌平君も信もすぐに気づいた。

横一列に並べた信の兵の群れに綻びを作ろうとしているのだ。

あっと言う間に横一列に並べていた信の兵たちの動きが乱れ始め、信は眉根を寄せた。このまま斜陣かけの陣形が成功されてしまえば、安易に本陣への道が開かれてしまう。

斜陣かけの陣形を成しているのは四つの軍であり、残りの軍を背後に待機させているのは、恐らく綻びが出来た途端に、本陣へ突入する役目を担う部隊の軍だ。
陣形①
「く…」

様子見のため、初歩を横一列に並べた信は悔しそうに下唇を噛み締めている。

王騎が少しも手を抜くことはないのだと信自身も分かっていただろうに、油断したという顔だ。

本陣への守りを固めるために、信は両端の軍をすぐに後ろへ下がらせる。綻びが出来たところに突撃して来る背後の軍に備えたのだ。

しかし、恐らく王騎はそれも見越していたのだろう。すぐに背後に待機させていた軍の兵力を二つに分散させた。

意図的に・・・・中央に集められた信の軍を嘲笑うかのように、王騎は分散させた兵を左右に動かす。

それまでは横一列に並んで塞がれていたのだが、中央に戦力が集まったことで、道が開けたのだ。

陣形②左右から迫り来る王騎軍の対応に兵を割かねば敗北は確実だ。

しかし、中央に集めた戦力を分散させれば、斜陣がけによって中央に大きな綻びが出来てしまい、そこからさらに本陣を攻め立てられるだろう。

囲碁台を眺めながら、昌平君は初手で信がしくじったことを察した。

王騎が信に先行を譲ったのは、親心でも良心でもなく、信と同じように相手の出方を見るため・・・・・・・・・・だったのだ。

既に勝負は駒を並べる前に始まっていたということである。

王騎が優勢な状況にあるのは誰が見ても明らかだ。斜陣がけによって、防衛の姿勢を取らされた信はこの状況をどう脱するべきかを考えている。

昌平君も二人の間で囲碁台に視線を向けながら、打開策を巡らせていた。無論、これは信と王騎の真剣勝負だ。助言をするつもりはない。

「………」

信は瞬き一つせずに、囲碁台を見据えている。それまで苦悶の表情を浮かべていた信だったが、急に顔から表情が消えた。

何か打開策を閃いたのだろうか。信のこの表情を見るのは、昌平君は初めてではなかった。

今の彼女には、王騎と昌平君には見えない、勝利への道が確かに見えているのだろう。

学校で行っていた軍略囲碁でも、彼女がその表情を浮かべて駒を動かした時には、彼女の相手を務めていた河了貂と蒙毅も予想をしていなかった道を突き進んでいた。

それが、信の本能型の将としての才能であることを昌平君は気づいていた。王騎が信を軍師学校へ預けたのも、この才能を芽生えさせるためだったに違いない。

基礎を叩き込んだ三か月の後、ひたすら軍略囲碁を打たせていたのは昌平君の提案だったが、その中で信はみるみるうちに本能型の将としての才能を発揮していた。

木簡で王騎と昌平君は信のやり取りを行っていた。彼女にしか見えない道が見え始めたことを王騎に告げると、彼は約束の半年で娘の実力を確かめるために赴いたのだろう。

この勝負に信が勝てば、いずれは彼女が天下の大将軍である王騎を超える存在になるかもしれない。そしてそれは、秦の未来には欠かせないとなる。

「降参ですか?死地に立った時、優雅に悩む時間などないのですよォ」

「………」

挑発するように王騎が笑い掛けたが、信の耳にはその声が届いていないようだった。

視線は揺らぐことなく、戦場に見立てた囲碁台を見つめている。

信は迷うことなく、中央にある軍――ではなく、総大将の軍・・・・・を動かした。

「!」

本陣の守りをしていた総大将を動かしたことに、王騎と昌平君が目を見開いた。

このまま防戦一方の持久戦では確実に敗北すると分かった上で総大将を動かしたのだろう。

しかし、中央に兵力が集中しており、味方本陣の守りをしていた総大将を動かすということは、信は味方本陣を捨てたということになる。

「ンフフフ。さて、ここからどうしますか?」

王騎は分散させた兵を信の本陣へ向かわせている。このまま本陣を落とし、総大将を討ち取れば王騎の完全勝利、そして信の大敗だ。

しかし、信の表情に迷いはなかった。きっと彼女には勝利への道筋が見えているのだ。

河了貂と蒙毅との軍略囲碁のように、あとは王騎が先に信の本陣を落とすのが先か、それとも信が勝利の道筋を辿るのが先か、どちらかである。

信の駒を動かす手は止まらない。中央で戦っている兵力を斜めに配置し始める。

「これは…」

昌平君は思わず呟いていた。

ここで信が用いた陣形は、王騎と同じ斜陣がけだったのである。

陣形③中央の戦況が鏡合わせのように・・・・・・・・なり、斜めに伝播していた力が、同じく反対側に力が伝播していく。斜陣がけの効力が消えたことは一目瞭然だった。

信が中央を突破されぬように、まさか同じ陣形を用いるとは思わなかった。

「………」

王騎の口元に浮かんでいた笑みが消える。先ほどまでは余裕を携えていた彼から、信と同じように表情が消えた。

斜陣がけの効力はなくなったが、王騎は陣形を解かない。新たな陣形を組むこともせず、中央に集まった戦力で戦わせている。

中央に集中している兵たちを引きつけたまま、信の本陣へと向かわせている左右の兵をそのまま前進をさせ、手早く本陣を取ることに決めたのだろう。

左右の軍で本陣を落とした後、背後から中央に集まっている信の軍を一掃しようと企んでいるようだ。昌平君には手に取るように王騎の軍略が分かった。

「………」

次は信の番だった。本陣を捨てるように動かした総大将の駒をどう動かすのか王騎と昌平君が注視していると、彼女は驚くことに総大将の軍を大きく右に迂回させて、王騎の本陣へと向かわせた。

「おや、無謀ではありませんか?」

先ほどまで表情を消していた王騎の口元に笑みが戻って来る。

王騎は一つの軍を左右に分散させて本陣を狙っている。しかし、信は兵力を分散させることもせず、がむしゃらに前進させているようだった。

だが、彼女の顔に、焦りや不安の色は少しもない。それどころか、自信に満ち溢れた力強い意志をその瞳に宿していた。

「やってみねえと分からねえだろ」

先ほどの王騎のように挑発するような笑みを浮かべ、信は中央で戦っている後ろの三軍を動かす。四つの敵軍に対して、中央残した軍はたった二つだけだ。

このままでは安易に押し切られてしまうのは誰が見ても明らかである。しかし、激戦地であるそこの兵力を激減させたのは、きっと何か意図があるのだろう。

信は自分の五千人将という地位も、飛信隊も失う代償と覚悟を背負いながら軍を前に進めていく。

先ほど味方本陣から離した総大将の駒も動かし、信は合わせて四つの軍を、敵の総大将のいる本陣へと向かわせたのだ。

あろうことか、信は大胆にも動かしている四つの軍のうちの、二つの軍を中央の激戦地の間にある道・・・・・・・・・・・・を進ませ、敵本陣と総大将のもとへ向かわせた。

中央から軍を大きく迂回させれば、その隙に味方本陣が先に取られてしまうため、最短距離で敵本陣へと到達する道を選んだのだろう。

効力を失ったとはいえ、斜陣がけの陣形はまだ解かれていないというのに、渦の中心に飛び込むような動きに、さすがの王騎も先の動きを見兼ねているようだった。

中央に集中させていた軍と、左右に分散させて信の本陣を落とそうとしていた王騎の瞳に、僅かに迷いの色が浮かぶ。

本陣へ向わせている分散させた兵力では、信の本陣を落とすまでに時間がかかる。

一度、本陣を落とすのを諦め、背後から中央にある信の二軍を囲むべきか、それとも時間が掛かるのを承知の上で本陣を落とすべきか、王騎は決めかねているようだった。

その間も信が向かわせた四つの軍は、王騎の本陣と総大将のもとへ向かっている。

中央で戦っている軍は圧倒的に王騎軍が優勢だが、本陣へ走らせている軍の兵力差は信の方が上だ。

(…見える)

囲碁台を見つめている信の瞳には、勝利への道筋が浮かんでいた。

普段なら敵本陣に辿り着くよりも先に、自分の本陣を落とされてしまっていたのだが、今は総大将を動かしていることもあって、本陣を見捨てでも敵の喉元に攻め立てる勢いが続いていた。

(ここと、ここだ)

中央の激戦地を抜け切った二つの軍で敵大将の左と背後を取り囲む。

さらに迂回させていた軍で、敵の大将の右を塞ぐ。そして手前にある総大将の軍を前進させて前方を塞げば、敵大将の軍は四方を塞がれてしまう。

王騎の本陣と総大将が完全に逃げ道を失ったことで、王騎と昌平君は目を見開いた。

「―――包雷の陣の完成だッ!」

 

王騎との勝負 その二

陣形④高らかに信がそう叫び、敵大将に見立てた駒を掴み取る。

「………」

昌平君も王騎も固唾を飲みながら、のめり込むように囲碁台を注視していた。

「…ンフゥ。お見事でした」

束の間の沈黙の後、潔く王騎が白旗を挙げた。負けたというのに、王騎は少しも残念そうな顔をしておらず、むしろ自分が勝利をしたような陶酔感が浮かんでいた。

最も早く本陣と総大将のもとへと向かうために、中央を抜けた二軍止めていれば、恐らくは左右に分散させていた王騎軍が先に信の本陣を落としていたに違いない。

しかし、今回の勝負では中央を突っ切り、本陣と総大将のもとへ向かわせた信の行動が早かったのだ。

「か、勝った…のか…?」

今になって我に返ったように、信は肩で息をしながら、自分の勝利を噛み締めていた。

「やっ、た…ぁ…!」

拳を作った両手を持ち上げた信が立ち上がる。勝利の喜びを噛み締めるのかと思いきや、大きな音を立てて、信の体は椅子ごと後ろ向きに倒れ込んだ。

「信ッ!?」

昌平君が駆け寄り、肩を揺すって声を掛けた。信は譫言を繰り返しながら目を瞑っており、意識を朦朧とさせている。

顔が真っ赤になっており、肌に触れるととても熱い。熱があると判断した昌平君はすぐに彼女の体を抱き上げた。

慌てている昌平君に対して、王騎といえば囲碁台を見つめて、駒の動きを再確認しているようだった。

「王騎…」

養父とはいえ、ここまで娘に容赦ない態度を取れるものなのかと昌平君が眉根をひそめていると、その視線を察したのか、王騎が口を開く。

知恵熱・・・でしょう。少し休めばすぐに落ち着きますよ」

「…知恵熱?」

あまり聞き馴染みのない言葉であったが、知恵熱とは幼子が出す発熱のことだ。腕の中でぐったりとしている信を見下ろし、昌平君は瞬きを繰り返した。

「その子、昔から考え過ぎたらそうなるんです。軍師学校にいる間に、それもなくなったかと思っていたのですがねェ…少し休ませてやってください」

囲碁台の上の駒を眺めながら王騎がそう言ったので、そういえば、河了貂たちとの軍略囲碁の後に信が決まって頭痛を訴えていたことを思い出した。あれは発熱の前兆だったのかもしれない。

王騎はじっと囲碁台の駒を見つめたままで、動き出す様子はない。

とことん厳しい男だと昌平君は思った。軍略を学ばせるために、屋敷から信を追い出した厳しい父親が今さら甘やかす行動に出るはずがないのだ。

甘やかす役割は摎が担っていたのだと王騎自身も言っており、今さら自分がその役割を引き受けることもしたくないのだろう。だから、こんな時でさえも彼は厳しいのだ。

昌平君は諦めて、信の体を抱きかかえて部屋から運び出した。

 

近くの部屋に移動し、寝台に信を横たえると、彼女はゆっくりと目を開いた。

見慣れない部屋にいることに驚き、目をきょろきょろと動かしている。昌平君と目が合うと、彼女は安堵したように息を吐いた。

「俺…父さんに、勝ったのか…?」

「ああ」

「…じゃあ、俺、帰れるのか…?」

昌平君が頷いたのを見て、信は「そっか」と嬉しそうに笑みを浮かべた。帰宅許可を得たことを心から喜んでいるらしい。

勝負の途中で窮地に追い込まれ、このままずっと帰れないと思っていたらしく、彼女の表情には安堵の色が浮かんでいる。五千人将の座から降ろされることも、飛信隊が解散にもならず、無事に帰宅出来ることが本当に嬉しいようだ。

「色々ありがとな」

寝台に横たわったまま、信が昌平君に礼を告げた。

「…って言っても、お前から直接なんか学んだことはねえけどよ」

「礼を言った後に言う言葉ではないな」

「だって事実だろ」

信がカカカと笑う。

「でも、いつも俺のこと見てただろ?」

「………」

彼女の言葉に昌平君は意外そうな表情を浮かべた。河了貂と蒙毅と軍略囲碁の勝負を繰り返し、あらゆる戦を経験していたのだが、信はどこからか昌平君の視線を感じていたのだ。

口を出すことはないが、いつだって自分を気にかけてくれているのを信は知っていた。昌平君はしばらく信のことを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。

「…お前は本能型の将としての才がある。王騎に勝てたのも、お前の才が芽生え始めた証拠だ」

将軍には本能型と知略型に二種類に分かれる。信が前者だといち早く気づいていたのは王騎だ。強化合宿の話を持ち掛けられた時、王騎は昌平君にそのことを告げていた。

―――あの子の直感は、時々戦況を面白い方向に傾けるんですよ。あれは典型的に本能型の動きですねェ。ただ、追い込まれないと、その道筋が見えないというのは難点です。

五千人将まで上り詰めた信の強さは、言葉にせずとも王騎は認めていた。

無謀と勇敢の違いをようやく理解して来た彼女に、軍略を学ばせようとしたのは、本能型の将としての才能を引き出すためだったのだろう。

模擬戦とはいえ、あらゆる戦い方を想定することで、信は勝利への道筋を見分けられるようになっていた。

強引に戦いから身を引かせ、軍略を集中的に叩き込んだことが実を結んだのだろう。

王騎が五千人将の座を解くといったり、飛信隊の解散をちらつかせたのも、わざと信の心を追い詰めることで、本能型の将としての才能を引き出すためだったに違いない。

きっと信と飛信隊はこの国に欠かせない強大な戦力となっていく。王騎に劣らぬ力で中華全土にその名を轟かせていくだろうと昌平君は考えた。

「よくやったな」

昌平君が手を伸ばし、信の頭を優しく撫でる。まさか彼から褒められるとは思わなったようで、信は瞠目し、それから照れ臭そうに笑みを浮かべた。

「…へへ。お前の笑った顔、初めて見た」

指摘されて、昌平君は自分の口元が優しく緩んでいることに気がついた。

瞬時に唇を固く引き結び、いつもの表情に戻ると、信がつまらなさそうな顔になる。

 

信の才能と悪知恵

王騎が話していたように、本当に知恵熱だったのか、少し休むだけで信の熱はたちまち引いていった。

「あーあ…安心したら気ぃ抜けたぜ。帰ったら祝い酒だな」

祝い酒という言葉を聞き、昌平君は思い出したように顔を上げた。

「昨夜も飲んでいただろう」

「ははっ、酒ならいつ飲んだって良いじゃねえか。麃公将軍にもらった昨日の酒も美味かったなあ」

昌平君は寝台に横たわる信を見下ろし、腕を組んだ。

「…昨夜は部屋に戻ってから、ずっと寝ていた・・・・・・・のか?」

「?ああ」

「私たちが扉を開けるまで一度も起きなかった・・・・・・・・・のか?」

どうしてそんなことを尋ねるのだろうと、不思議そうに信は頷いた。返事を聞いた昌平君がきゅっと眉根を寄せた。

「…ならば何故、扉が本棚で塞がれていた・・・・・・・・・・・と知っていた?」

問い掛けると信がさっと青ざめたので、その反応だけで合点がいった。

追い打ちを掛けるように、信の動揺を煽るように、昌平君は言葉を続ける。

「ずっと眠っていたのなら、そもそも扉が外から塞がれていることも、そしてそれが本棚であると確かめる術はないはずだ」

「………」

沈黙している信があからさまに目を泳がせた。

「それなのに、一度も起きなかったはずのお前は、扉が塞がれていたことも、そして本棚が使われていたことも知っていた」

昌平君の耳奥で、あの時の信の言葉が蘇る。

―――あ、先生。これってズル休みじゃねーよな?そんな重い本棚が塞いでたんだから・・・・・・・・・・・・・・・・、俺にはどうしようも出来なかったし。

信が昌平君にそう尋ねた時、まだ彼女は室内にいた。

河了貂たちが部屋に入って来るまで眠っていたという彼女が、一体なぜ扉を塞がれていたことを、そして見てもいないはずなのに、それが本棚であることを知っていたのだろう。

信の身体能力を考えれば、違う部屋の窓を伝って自分の部屋に戻ることも不可能ではないだろう。

しかし、あの重量感のある本棚は、王賁と蒙恬の力があってやっと動かせたのだ。いくら信であっても一人では動かすことは出来ない。

軍師学校の中で信の協力者といえば河了貂と蒙毅の二人が考えられるが、二人の反応から協力したとは思えない。

状況からして自作自演でないのは明らかだったが、答えは簡単だ。

彼女は、本棚を使って部屋の扉が塞がれることを、事前に知っていた・・・・・・・・のである。

あの場では他の者たちもいたので尋ねなかったが、今は都合よく二人きりであるため、昌平君は真意を問い質した。

「………」

唇を固く引き結んでいるところを見る限り、話したくないのだろう。

しかし、ここまで来れば何としてでも真意を知りたい。昌平君はさらに追い打ちを掛けることを決めた。

「…麃公の話だと、あの酒は半年ほど寝かせた方が特に美味いそうだな。入門祝いに渡されたあの酒は、今頃ちょうど半年か?」

麃公と酒の話に反応したのか、信が顔を引き攣らせている。

「なんで、知って…」

「麃公に話を聞いた。会えたのは偶然だがな」

「………」

「あの酒は、お前が軍師学校に来てからすぐに渡したと言っていた」

天井を見上げながら、信が「あーあ」と諦めたように声を上げた。

今朝の騒動の後、昌平君が執務をこなすために一度宮中に戻った時のことだった。偶然にも麃公が咸陽宮に来ており、彼の手には大きな酒瓶が握られていた。

彼が大酒飲みであることは知っていたのだが、まさか宮中に来た時まで持ち歩くとは何事だと思い、昌平君が声を掛けたのだ。

―――王騎のところの童に持って来てやったんじゃ。この酒は、前に渡したものと違って、寝かせなくても美味いからのう。

それが二度目の差し入れ・・・・・・・・だと分かった昌平君は、前回渡した酒についての話を聞いた。

前回渡した酒は半年ほど日の当たらない場所で寝かせておけば、より味に深みが出るのだという。

恐らく長い期間、軍師学校にいることになるだろうと見込んだ麃公が、その酒を渡したらしい。

酒の楽しみが先にあると思えば、少しは息抜きになるだろうという彼なりの気遣いだったのだろう。

―――へへ…この前・・・、麃公将軍から差し入れてもらったんだ。

酒臭いと蒙恬に言われた時、信はそう言っていた。

差し入れの酒をもらってすぐに開封せず、麃公に言われた通り、寝かせておいたのだろう。
今はちょうど信が軍師学校に来てから、半年が経過した頃だ。酒を飲むなら絶好の機会である。

そこで昌平君は今朝の騒動と、昨夜の酒についての繋がりを見抜いた。

偶然だと言われてしまえばそれまでだが、信は酒を飲むのをあえて昨夜・・・・・にしたことには何か理由があるような気がしてならなかった。

それはきっと今朝の騒動である扉を塞がれていたことが関わっているに違いない。

「…黄芳たちが、部屋の扉を塞ぐのを知っていたのか」

信は悪戯が見つかった子どものような、ばつの悪そうな表情を浮かべた。

「翌日にあのようなことが起きて、咎められずに遅くまで眠れると分かっていたから、昨夜に飲んだのではないのか?」

しばらく沈黙していたが、諦めたように彼女は溜息を吐く。

「だってよ…あいつらが教室の隅でこそこそ話してるのが聞こえたから…」

いよいよ白状した。今度は昌平君が溜息を吐く番だった。

つまり、信は翌朝に寝坊しても咎められないことを分かった上で、昨夜に月見酒をしたのだ。

軍師学校の中での生活態度も王騎は厳しく評価することを分かっていたのだろう。だからこそ酒を飲む機会をずっと考えていたに違いない。

そこで黄芳たちが扉を塞ぐ作戦を話し合っているのを知り、これ幸いと夜のうちに麃公が差し入れてくれた酒を一人で飲み干すつもりだったのだ。

月見酒をしている場に昌平君が来たのは偶然だったが、こんなことを彼が王騎に告げ口をしないと信は分かっていたのかもしれない。

翌朝になって、扉が塞がれていれば学校に行けないことになっても、誰も彼女を怪しむ者はいない。被害者の立場を上手く利用して月見酒を堪能したのだろう。

意外と単純そうに見えて、頭を使っている。軍略を学んでいる中で、そのような悪知恵も身につけてしまったのだろうか。もしそうなら王騎に悪いことをした。

今回のことで、信に唯一の誤算があるとすれば、昌平君が月見酒に同席したことと、麃公に話を聞いたこと、そして信の思考を読んだことだ。

河了貂たちと扉を開けたあの時に、余計なことを言わなければ流石の昌平君も気づかなかったに違いない。口は災いの元・・・・・・なのだ。

知恵熱がすっかり引いた信が上体を起こし、昌平君に両手を合わせる。

「なあ、頼むから、父さんにはこのことを黙って…」

上目遣いで懇願して来る信に、昌平君は腕を組みながら悩む演技をした。月見酒に関しては黙っていても良かったが、意図的に寝坊としたとなれば話は別だ。

「さて、どうしたものか。私では判断し兼ねるな」

「うう…」

信の眉が下がる。捨てられた子犬のような哀愁を漂わせる彼女に、昌平君は笑いそうになってしまい、下唇を強く噛み締めて堪えた。

もちろん王騎に言うつもりはなかったし、言ったところで王騎が強化合宿を延期するとは思えない。

次の戦では飛信隊を活躍させたいと話していたし、屋敷に帰還したらすぐに信の鍛錬もつけるつもりなのだろう。

自ら足を運び、その目で娘の成長を見届けにここまでやって来たのだから、態度も言葉も素っ気ないが、見方によっては王騎も娘には甘いのだろう。

それに、王騎の命令で嫌々ながらも軍師学校に来てから、信は真面目に勉学をこなしていた。もちろん河了貂と蒙毅の協力も大きいが、ここに来た時に比べると半年の間で確実に将として成長したことが分かる。

「…麃公は、王騎に酒を渡していったぞ」

「え?」

「屋敷に戻り、王騎と卒業祝いでもするが良い」

本当は麃公が二度目の差し入れを信へ渡すつもりだったのだが、軍師学校に行くために宮廷へ来ていた王騎が預かっていったのだ。その姿を昌平君も見ていた。

今日の勝負で、王騎も麃公も信が本能型の将としての才能を発揮すると分かっていたのかもしれない。

もしも才能が芽生えていなかったすれば、本気で五千人将の座を解いただろう。ここでも王騎の甘言と脅しの使い分けの上手さが発揮されたのかもしれない。

「へへ…ありがとな」

満面の笑みを浮かべた信に、昌平君はやや呆気にとられる。笑顔を見ただけだというのに、昌平君の胸は早鐘を打っていた。

 

天罰

教室に戻る頃にはすっかり陽が沈み始めていた。

信の姿を見て、河了貂と蒙毅がすぐに駆け寄って来る。可愛らしいつぶらな瞳をつり上げて、河了貂が信を睨み付けた。

「信!遅いぞ!何してたんだよッ」

もらい湯と昼食を終えてから戻ると話していたというのに、ずっと姿を現さなかったことに心配してくれていたらしい。

悪い悪いと宥めながら、信は二人に向き直った。

「俺、今日で強化合宿終わりなんだ」

「えっ?」

河了貂と蒙毅が瞠目する。

声を潜めて、信は二人に先ほどの王騎との軍略囲碁試合について話し出す。王騎との勝負に勝ったのだと知った二人はまるで自分のことのように喜んでくれた。

「やったな、信!おめでとう!」

「おめでとうございます」

「へへ、ありがとな。二人のおかげだ」

二人に礼を言ってから、信は思い出したように教室を見渡した。黄芳と目が合う。驚いた顔をした後に顔ごと目を逸らされたが、信は構わなかった。

木簡を塗り潰したり、部屋の扉を塞いだのが彼の仕業だというのは信は気づいていた。

幼い頃から戦場に出ていたせいか、信は常人よりも目と耳が利くのだ。だからこそ昌平君からの視線にも気づいていた。

黄芳が取り巻きたちとそのような企みをしていることを事前に知っていたのは、教室の隅で彼らが作戦会議をしているのを聞いていたからである。

そしてそれを聞いていたのは信だけではなく、他の生徒もだ。

今日まで黄芳が信に行っていたことは、軍師学校の生徒のほとんどが知っていた。とはいえ、現場を見られていないことから、黄芳だけは知られていないというつもりで嫌がらせを続けていたらしい。

「おい、黄芳」

信が声を掛けると、彼は分かりやすく肩を竦ませた。取り巻きの連中も信が声を掛けて来たことに驚いた表情を浮かべている。

今日まで彼女が言い返すことは一度もなかったので、声を掛けられたことに何事かと身構えていた。

彼らが怯えた表情で振り返るところを見ると、どうやら自分がいない間に河了貂と蒙毅にこっぴどく責められていたのだろう。

構わず、信は腕を組んで黄芳のことを睨み付けた。

「…お前、テンのことが好きなんだろ?」

そう言った瞬間、教室が水を打ったような静けさに包まれた。

自分の名前が出て来たことに河了貂が背後できょとんとしていた。

「なッ!ななッ、なんだと!?」

真っ赤な顔を引き攣らせて黄芳が怒鳴るが、河了貂へ想いを寄せていることを否定はしない。

わざとらしく溜息を吐き、信は彼に人差し指を向けた。

「だからって俺に八つ当たりすんなよな。テンは俺にとって妹みたいな存在だ。お前の恋敵になるつもりはねえよ」

いきなり軍師学校に現れた下僕出身の信が、河了貂と仲睦まじく軍略囲碁を打っている姿が黄芳は気に入らなかったのだろう。

河了貂と常に一緒に行動している自分に嫉妬しているのだと信は以前から気づいており、嫌がらせもその延長だと分かっていた。

「………」

思わぬ形で河了貂への想いを暴露されてしまった黄芳はこの世の終わりだという顔をして信を見つめていた。

しかし、そんな彼の気持ちなど知るものかと言わんばかりに、信は言葉を続ける。

「悪いがテンはこれから俺の軍師になるんだ。まだお前のとこに嫁がせる訳にはいかねえな」

俺の軍師・・・・という言葉に、黄芳が衝撃を受ける。信の中では飛信隊の軍師という意味だったのだが、彼女の正体を知らない黄芳からしてみれば、俺の女と言われているのも同然の言葉に聞こえたようだ。

信が女だと気づいていないのも些か問題に思えるが、黄芳からしてみれば河了貂に近づく者は誰であっても許せなかったのだろう。

「へえ」

傍で話を聞いていた蒙毅の顔に影が差し込んでいる。

「…河了貂は僕の大切な妹弟子だからね。彼女に何か話をするなら、まずは僕に勝ってからだよ。さあ、さっそく勝負しようじゃないか。と言っても、君が僕に勝てるとはとても思えないけどね」

ひいいと青ざめる黄芳を引き摺って、軍略囲碁の勝負を始める蒙毅の姿を横目に、信は長居は無用だと言わんばかりにさっさと教室を出た。

「信!」

後ろから河了貂が追い掛けて来たので、信は小首を傾げながら振り返った。

「俺、絶対に飛信隊の軍師になるから!軍師の席、空けて待ってろよ!」

河了貂の力強い言葉に、信は思わず笑みを浮かべる。

「ああ、もちろんだ。待ってるぜ、テン」

乱暴に頭を撫でてやると、河了貂は嬉しそうに目を細める。飛信隊の軍師の席はずっと前から彼女のために空けていた。共に戦場で戦えることを楽しみにしながら、信は咸陽宮を後にする。

厩舎で借りた馬に跨ると、また父のもとで厳しい鍛錬が始まる日常に、信は懐かしさと期待に胸を膨らませていた。

 

反旗と月見酒

その後、信が大将軍の座に就くことも、河了貂が飛信軍の軍師となるのも、そう時間はかからなかった。

時が進むにつれ、王騎、蒙驁、麃公…名のある秦の将軍たちが次々と没していく。

彼らの死に追い打ちをかけるように、それから数年後、嬴政の加冠の儀を利用して反乱軍による咸陽への侵攻が起こった。

一時は騒然となった秦国であったが、秦将たちは反乱軍に屈しない強さと忠義を見せつけたのである。

中でも飛信軍の女将軍である信の強さは凄まじく、彼女が幼い王女を守り抜いた活躍は秦国中で大いに広まることになった。

咸陽の防衛に成功し、毐国が壊滅に追い込まれた後、呂不韋は丞相の地位を剥奪となる。

裏で玉座を狙っていた呂不韋の活躍に終止符を打ったのは、呂不四柱の一人であった昌平君が反旗を翻したことがきっかけでもあった。

此度の勝利は、秦国の天下統一を大きく前進させるものとなる。秦王であり親友である嬴政の夢がまた一歩前進したことに、信は大いに喜んだ。

 

―――その日の夜は、此度の勝利を天が祝うかのように満月だった。

反乱軍との戦いの事後処理をこなしながら、昌平君の足は自然と夜の軍師学校へと向かっていた。

長年世話になった呂不韋との決別は、笑えるほど短い会話のやりとりだった。しかし、少しも後悔はしておらず、不思議と胸はすっきりとしていた。

無性に一人になりたい訳でも、集中して何かを考えたい訳でもないのに、夜の軍師学校へ足を運んでいる矛盾に、昌平君は自分が何を求めているのかを考えた。

「…?」

結局答えが出ないまま廊下を進んでいると、奥の空き教室に明かりが洩れていることに気が付いた。

「………」

心臓が早鐘を打ち始めたことを自覚して、昌平君は空き教室に向かう。自然と早足になっていたことには気付けなかった。

扉を開けると、あの日と同じように窓枠に腰掛けて月見酒をしている信の姿があって、昌平君は思わず息を飲んだ。どうして彼女がここにいるのだろう。

「…もう生徒でないお前の立ち入りは禁じているはずだが」

動揺していることを悟られないように、素っ気なく声を掛けると、

「授業が終われば学校じゃなくて、もぬけの殻だろ」

信はあの日と同じように振り返りもせず、素っ気なく同じ言葉を返した。

此度の防衛戦で、彼女は後宮を走り回って樊琉期の軍を相手にしていただけでなく、戎翟公の軍とも戦っていた。

寝込んでいてもおかしくないほど疲弊しているだろうに、彼女は酒を煽っていた。着物の隙間から覗く肌は包帯が巻かれていて、此度の防衛戦がどれだけ激しかったかを物語っている。

「お前も飲むか?」

まだ半分以上中身の入っている酒瓶を掲げながら、信がようやく振り返る。

「…杯は」

「一つしかねえけど?」

夜の空き教室で一つの杯で酒を飲み交わすなど、これではあの日と同じではないかと昌平君は苦笑を滲ませた。

「さすがに祝宴やらねえみたいだからな」

「当然だ」

戦の勝利の後は祝宴が開かれるものだが、反乱軍が首府である咸陽に侵攻して来た被害は大きく、将や兵は休息を取り、他の者たちは宮廷や後宮の修復作業や戦後の後処理に当たっている。

敗走後に逃げ出した反乱軍は、函谷関を抜けたところで桓騎軍によって取り押さえられているという。

桓騎軍に首謀者を生きたまま捕らえるよう指示を出したのは昌平君だ。太后と共に此度の反乱を企てたとされる首謀者の嫪毐は確実に処罰されるだろう。

水面下で広がっていた後宮権力の再調や、毐国の領土である河西太原の制圧など、やることは山ほどある。

明日から昌平君もその戦後処理に追われるのは目に見えていた。早めに休まなくてはと頭では分かっているのだが、なぜか休む気になれずここまで足を運んでしまった。

戎翟公を討つために、武装をして槍を振るったのは随分と久しぶりのことで、未だ昂りから冷めやらぬのかもしれない。

「…祝宴より、これくらい静かな方が良い」

元々賑やかな場を得意としない昌平君は、祝宴など開かなくても、静かに勝利を噛み締めていればそれで良いと考えていた。

窓枠に腰掛けて月見酒をしている信の傍に椅子を寄せ、昌平君も彼女の向こうにある満月を眺めることにした。

共に月見酒をしているはずなのに、昌平君の視線は満月ではなく、手前にある信の美しい横顔にしか向かない。

青白い月の光を浴びているせいか、あの日と同じように信の存在がどこか儚げに感じてしまう。

手を伸ばしても掴むことが出来ず、かき消してしまいそうな気がして昌平君は妙に恐ろしくなった。

「ほらよ」

一つしかない杯に酒を注ぎ、信が差し出す。

受け取った杯を口元に寄せると、芳醇な香りが漂った。ゆっくりと口に含むと、酸味と苦味が広がる。すっきりとした後味には覚えがあった。

「…この酒は」

信がにやっと歯を見せて笑った。

「懐かしいだろ?麃公将軍が贔屓にしてた酒蔵から取り寄せたんだ」

今は自分がその酒蔵から頻繁に酒を取り寄せているのだと信は笑った。

「………」

束の間、信が強化合宿と称して軍師学校で過ごしていた日々が瞼の裏に浮かび上がる。

無事に軍師学校を卒業できた後に行われた戦で、信は大いに武功を挙げ、五千人将から将軍へと昇格したのだった。

その後は本能型の将としての才能を発揮し、軍師に河了貂を迎えたこともあり、飛信軍の力は今や王騎軍に引けを取らぬ強大なものとなっている。

今回の防衛戦も飛信軍の活躍がなければ、この咸陽は毐国の手に落ちていただろう。

「今になって、分かったことがある」

酒を飲む昌平君を横目に、信が静かに口を開いた。

「…父さんは、あんたがいつか呂不韋を裏切って、政についてくれるって分かってたんだろうな」

馬陽の戦いで命を落とした王騎のことを思い返しているのか、寂し気な瞳で月を眺めながら信がそう言った。

数年前になる信の強化合宿の時や、それ以外のことでも王騎と幾度か言葉を交わしたことは幾度もあった。

しかし、自分が呂不韋を裏切ることは王騎に一度も話していないというのに、彼はそれを見抜いていたのかもしれないと信は言った。

もしそうだとすれば、大王側についている彼が、敵対関係にある呂氏四柱の一人である自分に信を任せたのは偶然ではなかったということになる。

自分を信頼した上で、王騎は娘を任せたのだ。

「…王騎は」

養父の名を出たことに、信は弾かれたように顔を上げた。

「お前を甘やかす役割は、母親が担っていたと言っていた」

「………」

「だが、言葉や態度にせずとも、いつもお前のことを気にかけていた。お前を一人の将として、娘として、大切に想っていた」

その言葉を聞いた信は目を見開き、それから戸惑ったように視線を彷徨わせる。

養父である王騎が馬陽の戦いで命を落としてから、数年の月日を経てから知った事実に戸惑いを隠せないようだった。

天下の大将軍として中華全土に名を轟かせた厳しい父親が、自分の知らないところで大切に想ってくれていたのだと分かり、信の瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていった。

「…そういうのはよ…人伝いじゃなくて、俺に言わなきゃ、意味ねえだろ」

泣き顔を見られたくないのか、信は月を見上げる素振りで昌平君から顔を背ける。

拳を白くなるほど握り締めた信は、奥歯を強く噛み締めて涙を堪えているようだった。昌平君は彼女に視線を向けないようにしながら、杯に酒を注ぐ。

「いッ、でで…」

「信?」

涙を堪えている信が、苦悶の表情を浮かべて右の脇腹を押さえたのを見て、昌平君が立ち上がる。

どうしたと声を掛けると、彼女は涙で瞳を潤ませたまま昌平君のことを見上げた。

「なんでも、ねえ…」

涙を堪えようと力んだのが原因で、戦で受けた傷が痛んだのだろうか。

信の苦悶の表情が少しも和らがないのを見て、昌平君はまさか傷口が開いたのではないかと心配になる。

脇腹を押さえている信の手に自分の手を重ね、昌平君は彼女の顔を覗き込んだ。

「傷を見せろ」

「いいって…手当てならしてもらった」

それならばなおさら傷口が開いた可能性が考えられる。頑なに傷を見せないでいる彼女に、昌平君は低い声で囁いた。

「見せなさい」

「っ…」

その声色に怒気は含まれていなかったのだが、信は叱られた子どものように怯えた表情を浮かべる。

諦めたように右の脇腹を押さえていた手を放したので、昌平君は迷うことなく彼女の着物の帯と紐を解いた。

襟合わせを開くと、信が言った通りに腹部は包帯に包まれていた。痛みがあった右の脇腹の包帯に赤黒い染みが出来ているのを見つけ、やはり傷が開いたのだと分かる。

「…ちゃんと見せたから、もういいだろ」

なぜか信が顔を赤らめて襟合わせを元に戻した。素肌を見られたのが恥ずかしいのだろうか。

普段から男のような口調と態度をしているが、信は女だ。異性に肌を見せるというのは慣れていないのかもしれない。しかし、やましい目的があって脱がせた訳ではない。

「手当てをしに行くぞ」

昌平君が彼女の手首を掴むと、信はその手を振り払った。

「俺はいい。他にも重症な奴らの面倒見てるだろ…」

自分のことよりも他の兵の心配をする信に、昌平君はもどかしい気持ちを抱く。

今回の防衛戦でも、自分の身を粉にして咸陽と王女を守り抜いたのだ。

嬴政の金剛の剣だと自ら名乗る信だが、盾の役割も担っている。自分の命を顧みずに国を守ろうとする姿は正しく将の鑑だ。

だが、勇猛と蛮勇は違う。

王騎の養子として、幼い頃から戦に出ていた彼女がその意味を履き違えることはないだろうが、命を無駄にすることだけはして欲しくない。

「なら、今夜はもう休め。酒は預かっておく」

包帯の染みが広がっていないことに安堵したが、何をきっかけに傷口が開くことになるか分からない。

大人しく横になっていれば傷口もこれ以上広がることはないだろうと思い、昌平君がそう言ったのだが、信は首を横に振った。

「嫌だね。まだ全然飲んでねえ」

相変わらず聞き分けのない子だ。昌平君はわざとらしく溜息を吐いた。

「…いてて…」

わざと傷口を圧迫させるように信は帯をきつく締め直していた。

帯を締め終わると、傷の具合を確認するために着物を脱がせたからか、信が夜風で冷えた体を温めようと腕を擦る。

それを見た昌平君は迷うことなく羽織りを脱ぎ、あの日と同じように彼女の肩に掛けてやったのだった。

 

月見酒の約束

「………」

しかし、あの日と違うのは昌平君が酒瓶と杯を持って教室を出て行かないことだ。

まるで信の代わりに飲もうとでもしているのか、昌平君は杯に注いだ酒をひっきりなしに口に運んでいる。

ただでさえ強い酒なのに、そんなに早く飲んで大丈夫なのだろうかと信は心配そうに目を向けた。

「おい、俺が酒蔵から取り寄せた酒なんだぞ。ちゃんと残しとけよ」

信はようやく立ち上がって、昌平君の横に椅子を持って来て腰を下ろした。強引に昌平君の手から杯を奪い、喉に流し込むように一気に飲み干す。

「…変わらない飲み振りだな」

褒めているのだろうか、それとも皮肉を言っているのだろうか。昌平君は普段からあまり表情が豊かな方ではないため、信には分からなかった。

「お前は本当に変わらねえよな」

足を組み、信は肩を竦めるようにして笑った。

「こう…何て言うか、いつまでも大人の余裕を崩さねえ感じがあるっていうか…ちょっとくらい緊張することとかないのかよ」

「している」

からかうように信が言葉を続けると、昌平君は窓の向こうにある満月を見上げながらそう答えた。

「え?」

思わず聞き返すと、昌平君が信の杯を持っていない方の手を掴み、その手のひらを自分の胸に押し当てた。

何をしているのだと問おうとするよりも先に、手のひらから昌平君の早い鼓動が伝わって来る。

「お前と二人でいる時は、余裕など、微塵もない」

「え……えっ?」

昌平君が発した言葉が耳を伝って脳に染み渡るまで、しばらく時間がかかった。

ようやく言葉の意味を理解した途端、信は全身の血液が顔に全て集まったのではないかというほど顔を真っ赤にさせる。

「う…」

戦で受けた傷は右の脇腹だけではなく、他にもあるのだ。戦いの最中で幾度も血を流したせいだろうか、くらくらと眩暈がする。貧血だろう。

「信」

椅子から崩れ落ちそうになった体を昌平君の両腕が優しく抱き止める。

「っ……」

彼の胸に顔を埋める形になった信は眩暈と羞恥のせいで、顔を上げることが出来ない。

抵抗しない彼女に気を良くしたのか、昌平君が背中に腕を回して信の体を抱き締めた。より密着することになり、今度は耳から彼の早い鼓動が聞こえて来る。

「…そんなの、酒のせいだろ」

昌平君の着物を弱々しく掴みながら信がそう言うと、昌平君の手が伸びて来て、頬を包まれた。

「ッ…!」

無理やり目線を合わせられると、視界いっぱいに端正な彼の顔が映り込み、また顔が赤くなった。

こんなにも近い距離で昌平君と見つめ合うのは初めてのことで、心臓が激しく脈を打つ。顔を動かせぬよう顔を掴まれて固定されていたが、視線は背けることは出来る。

目を逸らした途端に、昌平君の顔がさらに近づいて来たので、驚いて信は視線を戻した。

「んッ…ぅ…?」

これ以上ないほど視界いっぱいに昌平君の端正な顔が映っていて、唇を柔らかいものが覆っている。

やがて呼吸ができるようになると、信は陸から上がった魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、驚愕のあまり喉が塞がってしまう。

「おまっ、ここ、学校…!」

ようやく振り絞った声は、かつてないほど震えていた。笑えるほどに情けない声だった。

授業が終われば・・・・・・・学校ではなくもぬけの殻だ・・・・・・・・・・・・

「~~~ッ…!」

聞き覚えのある台詞を返されて、信は言葉を失う。

「殴らないのも、逃げ出さないのも、期待して良いということか」

「へ…?」

未だ昌平君の腕の中にいることに気が付いた信は、まるで術でもかけられたかのように動けずにいた。

しかし、彼が言うように殴るつもりも逃げ出すつもりもない自分に信は驚く。

怒りの感情を通り越して、ただ驚愕しているだけなのかもしれないが、それでも彼の腕の中は居心地がいいと感じているのも事実だった。

「お、お前、酔ってんだろっ…!からかうなよ」

これはきっと酒のせいだと信は自分に言い聞かせる。先ほどまで唇を覆っていた柔らかい感触を名残惜しく思うのも、昌平君に抱き締められて心地よく感じるのも、全て酒のせいに違いない。

背中に腕を回そうとして、信は慌てて自分の手を引っ込めた時だった。

「信、お前が好きだ」

その声は蜂蜜のように蕩けるほど優しくて、信は思わず息を飲む。

再び近い距離で見つめられると、とっくに酔いは回っているはずなのに、まるで顔に火が灯ったように熱くなる。

昌平君はようやく夜の軍師学校に足を運んだ理由に気が付いた。

ここに来れば、信に会える気がしていた。きっと、自分は無意識のうちに彼女の姿を探していたのだ。

「…昌平君、あの、…俺…」

顔を真っ赤にしながら信が言葉を紡いだが、昌平君は彼女の唇に指を押し当てて、

「返事は今じゃなくて良い」

そう言って、静かに杯へ酒を注いだ。

彼女の傷が癒えた後に、返事を聞こうと思った。

きっとまた、彼女は美味い酒と一つの杯を持って、この空き教室にやって来るはずだから。

 

このシリーズの続編(恋人設定)はこちら