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毒酒で乾杯を(桓騎×信)前編

キングダム 毒酒で乾杯を 桓騎 信 桓信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/ツンデレ/毒耐性/ミステリー/秦後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

 

秦王からの頼み事

秦王嬴政の正妻である向が、子を身籠っていることが発覚してから早三か月。

飛信軍の女将軍・信は、嬴政より火急の報せを受け、秦の首府である咸陽へと駆けつけた。

玉座の間に向かうと、嬴政は人払いをし、信と二人きりになる。他者に聞かれてはまずい話なのは分かったが、一体何があったのだろう。

「信、お前に頼みがある」

神妙な顔つきで自分に頼みごとをする親友の姿を見るのは、これが初めてではなかった。

以前、桓騎軍の素行調査をして欲しいと頼まれた時も、嬴政は重々しい空気をその身に纏って、信に頭を下げたのだ。

今回は一体どんな用件だろうと信は身構え、彼の言葉を待つ。

「…向が、何者かに命を狙われている。後宮に行き、彼女を守ってやって欲しい」

「……はっ?」

信は間抜けな顔で聞き返した。

 

秦王からの頼み事 その二

始まりは、向の食事を毒見した女官が帰らぬ者になったことだった。

たった一口食しただけで血を吐き、その血が肺に流れ込んだことでたちまち呼吸困難に陥ったのだという。

少量だけでも死に至らしめた強力な毒を食事へ混入させた犯人は、未だに分かっていない。

毒に反応して変色する銀製の食器を使用していたのだが、食器には何も変化がなかった。だというのに、食事に毒が盛られていたことに、女官たちは騒然となったそうだ。

毒を盛った犯人は未だ分かっておらず、手がかりが少な過ぎて、目星もつけられずにいるのだという。

後宮には千人以上の女官たちがいる。後宮の出入りが許されているのは、王族、そして、後宮だけでなく宮廷での仕事も請け負っている宦官くらいだ。

疑いを掛けることが出来るものたちはある程度絞られるにしても、これだけの人数から犯人を炙り出すのは困難なことだった。

嬴政の正室として迎え入れられた向は、その身に王族の子孫を宿しているということもあって、以前よりも多数の護衛がつけられていた。

武器を持って戦う術を持たぬ者たちが集う後宮は、決して平穏ではない。大王の寵愛を狙う者、正室の立場を狙う者、様々な者たちの欲望が渦巻く場所でもあるのだ。

そして、その欲望は時に狂気を孕み、邪魔な者を消し去ろうという殺意にも変わることがある。今回の毒混入事件は、向を敵視している者がいる何よりの証拠だ。

しかし、正室である向は後宮で過ごす他ない。

身の回りの者たちが自分の命を庇って亡くなっていくのも、いつ自分と愛する我が子が狙われるかと思うと、向も精神的に疲弊しているのだという。

武家の娘であっても、いつ命を狙われているかという危険が付き纏うのは堪える。幾度も死地を駆け抜けて来た信だって同じ状況に立たされれば疲弊するに決まっている。

しかし、向は秦王の子を身籠っているという責任から、何としてでも我が子を守らねばならないという母としての尊厳も保持しなくてはならなかった。

秦王の正室である以上、簡単に弱音を吐き出すことも、弱みを見せることも出来ない。

しかし、毒の混入事件があってから、色んなことが向を追い詰めているようで、嬴政は頻繁に後宮に訪れて彼女の体調を気にするようになっていた。

嬴政も大王としての政務があり、常に向の傍にいられる訳ではない。そこで親友である信に助けを求めたという訳だ。

「…俺に、女官として後宮に行って、妃を守れっつーことか?」

「お前にしか頼めない」

真剣な顔で嬴政が言う。普段なら即答するのだが、信は腕を組むと険しい表情を浮かべた。

自分の知らない組織に変装して潜入するのを頼まれるのは、今回が初めてではなかった。

以前頼まれたのは桓騎軍の素行調査だったが、今回は後宮に住まう妃の護衛という訳だ。

向の周りにいる者たちは信と違って戦う術を持たぬ者たちであり、相手が宦官であっても、信は容易に手出しはさせぬ自信はあった。だが、問題はそこではない。

「…毒を入れた犯人も分からねえのに、俺が護衛についたところで何も変わらねえだろ」

相手が一人なのか、複数いるのか、女官なのか、宦官なのか、それともまた別の誰かか。何も手がかりがないというのに、姿も分からぬ相手から向を守れというのはなかなか無茶な要求だ。

後宮にいる者が犯人であるという仮説は立てられても、千人以上もいる女官たちから犯人を探し出すのは不可能に近い。

食事に毒を用いたということは、犯人は下手に足がつかぬように工夫をしているはずだ。直接彼女に手を出して来る真似はしないに違いない。

きっと嬴政もそれを分かっているはずなのに、それでも信に妻の護衛を頼むということは、彼も相当追い詰められているのだろうか。

しかし、嬴政が発した言葉は信の予想を上回るものだった。

「信。お前には毒の耐性があるのだろう?」

「なッ…」

思わず信は顔を強張らせた。信が毒に対して耐性を持っていることはあまり知られていない情報である。親友である嬴政にもそれを告げた覚えはなかった。

信が毒に対する耐性を持っているというのは、多数の足を持つ毒虫…ギュポー嫌いなことに関連している。

幼い頃にギュポーに手を噛まれ、三日三晩その毒に寝込んだ信は、幸か不幸か、毒への耐性を持ってしまったのだ。

頭痛、発熱、悪寒、嘔吐、下痢、呼吸困難、謎の発疹…さまざまな症状に苦しめられた信は、あれほどまで苦しい経験を過去にしたことがなかった。

今思えば、三日三晩さまざまな症状が出て寝込んだのは、体が変質していた影響だったのかもしれない。

当時の辛い記憶が今も信の中に恐怖として根付いており、この年齢になっても信のギュポー嫌いは克服されていない。

天下の大将軍である王騎と摎の娘であり、今や信自身も両親と同じ六大将軍の座に就いている。そんな自分がギュポーなどという毒虫が苦手だなんて笑い話である。

飛信軍だけの機密事項として取り扱っていたのだが、嬴政の指示で行った桓騎軍の素行調査中にギュポーと遭遇したことがきっかけで、信のギュポー嫌いの噂は呆気なく広まってしまったらしい。

毒に耐性があることを告げると、芋づる式にギュポーが嫌いだということに気付かれてしまうので、信は今までずっと内密にしていたのだ。

桓騎軍の素行調査中も、毒に耐性があることは誰にも告げなかったはずなのだが、まさか嬴政が知っているとは思わなかった。

大抵の者は信がギュポーが嫌いということに、驚くか腹を抱えて笑うのに、それをしないというのはさすが親友であり、秦王の器を持つ男である。

「心苦しいことだが、後宮を出入りする者は限られている。俺も常に向を守ってやれる訳ではない…お前にしか頼めんのだ。妻を守ってやってほしい」

「つまり、俺に護衛と毒見役をしろってことか」

嬴政は辛そうな表情を浮かべて頷いた。

弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いであり、今や親友である彼女に護衛だけではなく、毒見役まで頼むのは、きっと苦肉の策だったのだろう。

しかし、他に頼める者がおらず、信に頼むことを決めるまで嬴政も苦悩したに違いない。

「頼む、信」

玉座に腰掛けている嬴政が、信に深く頭を下げた。親友であり、秦王である彼にそこまで頼まれては、信は拒絶する訳にいかなくなる。

「…犯人が見つかるかはあんまり期待するんじゃねーぞ。あくまで毒見役と護衛ってだけだからな」

「ああ、感謝する」

信が引き受けてくれたことに、彼は不安と安堵が入り混じったような複雑な表情を浮かべて頷いた。

 

逢瀬

嬴政からの頼み事を聞いた後、信は後宮に行く手筈が整うまで、数日の猶予をもらった。

秦王の勅令であり、信に初めから拒否権などなかったのだが、嬴政は無理強いはしなかった。他国の王ならば、一人の将に頭を下げて「妻を守って欲しい」だなんて言わないだろう。

大勢の妻を抱えている王だっている。一人の妻が毒殺されかけたところで、配下たちに丸投げする王もいるかもしれない。

もしも嬴政がそんな男だったならば、信は早々に彼を見限っていただろう。

秦の未来のためにも、大将軍である自分は、向とその胎に宿る子を守らねばならない。

親友の頼みだからこそ引き受けた信だったが、咸陽宮を出てから、かなりの大役を引き受けてしまったのではないだろうかと不安になった。

後宮で起こっていることは、信が経験したことのない争いだ。

命を狙われているという点では戦場なのかもしれないが、後宮の勝手がわからない信には、分からないことだらけである。

毒に耐性のある自分が毒見役を引き受けたのは良いとして、どこに敵が潜んでいるのかなど予想もつかない。戦場とは違い、武器を持たぬ者たちの争いというものに、信は経験がなかった。

後宮には千人以上もの女官と宦官がいる。毒を入れた疑いがある者は少しも目星がついていないということは、全員を疑うべきだろう。

全員を敵とみなしたとして、果たして本当に自分は向と嬴政の子を守り切れるのだろうか。

「………」

黒ずんだ不安が胸に渦巻き、信は手綱を引いて愛馬の駿の足を止めた。主を心配するように駿がぶるると鼻を鳴らしたので、信はたてがみをそっと撫でてやる。

「…駿、悪い。ちょっと寄り道だ」

自分が住まう屋敷に戻ろうと思っていたのだが、信はここ最近になって通い慣れた道の方へと駿を走らせた。

桓騎の屋敷に到着した頃には、既に陽が沈みかけていた。

従者からこちらに馬を走らせている信の報告を聞いたのか、彼は屋敷の外で待ってくれていた。

「珍しいな。呼んでねえのに、お前の方から来るなんてよ」

紫色の着物に身を包んでいる彼が、馬から降りた信に声を掛ける。

「………」

いつもならすぐに用件を話し出す信だったが、今日は違う。桓騎の小言にも反応を示さないし、何か言いたげに唇を戦慄かせているが、躊躇うように口を閉ざしてしまう。

視線も合わず、桓騎は彼女が悩みを抱えていることを察した。嘘を吐けない素直の性格している信は、すぐに表情に出すのでとても分かりやすい。

桓騎軍の素行調査として、百人隊の兵に紛れていた時も、それはもう面白いくらいに顔に動揺を出していた。

思い出し笑いを噛み殺しながら、桓騎は信が何を言おうとしているのかを考える。

今日のように、急に彼女が屋敷へ訪れる時は決まって何かを悩んでいる時だ。助言をもらいに来たというよりは、ただ不安な気持ちをどうしたら良いのか分からずに持て余してしまうのだろう。

将軍には本能型と知能型の二種類がある。信は前者で、桓騎は後者だ。

考えるよりもすぐに行動に移すことを何よりも得意とする信は、頭を使うことが苦手らしい。本能型の将軍が単純というのはまた違う。こればかりは信の元々の性格だろう。

「…どうした?」

桓騎が穏やかな声色で問うと、信は少し目を泳がせてから、ゆっくりと口を開いた。

「その…しばらく、会えなくなる」

「は?戦か?」

特にこの頃は隣国の動きに異常はなかったはずだと、桓騎が今日まで聞いた報せを思い返していると、信が首を振った。

「詳しくは言えねえんだけどよ。政の頼みで、ある女の護衛につくことになったから…」

不安な気持ちを打ち明けに来たのではなく、しばらく会えなくなることを伝えに来たらしい。少なくとも数か月は会えないのだと言われ、桓騎の眉間に皺が寄った。

「…なるほどな」

護衛を任せられた者について詳しく話そうとしない信に、桓騎は小さく頷く。

「後宮で妃の護衛か。それとも、毒見役にでも抜擢されたか?」

「そう…って、なんで知ってんだよッ!?」

ぎょっとした表情で信が問う。向の護衛を行うことは嬴政と信しか知らないはずなのに、一体いつ情報を手に入れたのかと信は驚愕していた。

しかし、桓騎からしてみれば、秦王である嬴政からの頼みであり、女ということさえ分かれば、正解を聞いたようなものだった。

後宮には王族の子孫繁栄のために千人以上の女性が集められている。しかし、嬴政が褥に呼ぶのはほんの一握りどころか、一つまみであった。

嬴政自ら信に護衛を頼む女性といえは血縁者くらいだろう。母である太后には元々十分過ぎる護衛がついている。だとすれば消去法で、嬴政の子を身籠っている后という訳だ。

さらには嬴政が信頼を置いている将は他にもいるが、信でなければいけない理由…それは他でもない性別である。

后は宮廷の奥にある後宮で生活する決まりがある。後宮には女性か、男であって男の機能を持たぬ宦官か、王族しか出入り出来ない仕組みになっているのだ。

飛信軍の女将軍である信の名前は後宮にも広まっているが、彼女は戦で顔を隠していることや後宮に出入りすることがないため、後宮に住まう者たちには顔を知られていないのだ。

大将軍の座につくほど武力をその身に備えているだけでなく、毒に耐性を持っていることも理由の一つに違いない。

…要するに、信は后の護衛に一番相応しい存在ということである。

 

特殊体質

限られた情報でそこまで答えを導き出した桓騎に、信は苦笑を深めることしか出来なかった。

駿を厩舎に預けた後、桓騎は信を屋敷へ招いた。寝室の扉を閉めた途端、いきなり腕を引かれて抱き締められ、信は目を見開く。

桓騎の両腕に抱き締められているのだと分かり、信は戸惑ったように体を強張らせた。

「…いつまでかかる」

「え?」

「後宮にいる期間だ」

腕の中で、信は借りて来た猫のようにしゅんと縮こまった。

「分かんねえよ…そんなに、長い間はいられねえと思うけど…」

信自身も大将軍としての役割がある。戦がない間の飛信軍の指揮は副官である羌瘣や、他の将に頼むことは出来るだろう。しかし、いつまでも後宮で后の護衛をすることは出来ない。

嬴政もそれを分かっているはずだが、それでも信に向の護衛を頼んだということは、よほど向の命の危機を感じているということに違いない。

毒見役の代わりなどいくらでも用意出来るだろうが、自分に仕える女官が自分のせいで命を奪われるなど、並大抵の者は耐えられるものではない。

戦場で多くの敵味方の死を経験して来た信でさえ堪えるものがあるのだから、向の心にはきっと重く圧し掛かっているはずだ。

そういった配慮も込めて、信頼している自分に依頼したのかもしれないと信は思っていた。

「そりゃあ、犯人さえ見つかれば、すぐに戻って来られるだろうけどよ…」

信が言葉を濁らせる。千人以上の女官がいる後宮で、毒を盛った犯人を捜すのは至難の業だ。

嬴政から話を聞いた時点で、信は毒殺を未然に防ぐことは出来たとしても、犯人を見つけることは不可能であると察していた。

「無理だろうな」

信の黒髪を指で梳きながら、桓騎が苦笑した。彼も同じことを考えていたらしい。

「………」

遠慮がちに信が桓騎の背中に腕を回す。性格上、普段から大胆に身を寄せて来ることがない恋人が、こうして甘えて来るのは随分と珍しいことだった。

素直に寂しいと言えない頑固な性格も愛らしい。

しばらく無言で身を寄せ合っていたが、桓騎は思い出したように顔を上げた。

「すぐ後宮へ発つのか?」

信は首を横に振った。

「羌瘣やテンたちに軍を任せなきゃならねえから、あと数日してから、後宮に行くつもりだ」

信頼している仲間たちよりも先に自分へ会いに来てくれたことに、桓騎はつい口の端をつり上げた。誰が見ても彼の機嫌が良くなったことは明らかである。

夜通し馬を走らせれば仲間たちの下へ辿り着くだろうが、それをせずにこの屋敷に立ち寄ったということは、今夜は一緒に過ごしたいという信の気持ちの表れである。

次に会えるのが一体いつになるか分からないのならば、今日は存分に楽しむしかない。

「ほらよ」

桓騎は台の上に置いてある飲み掛けの酒瓶の中身を杯に注いで、それを信へと手渡した。

酒杯を受け取った信が酒を口に含む前に匂いを嗅いでいる。どんな酒か確かめているのだろう。

鴆酒ちんしゅだ」

「えっ!」

正解を教えてやると、信が目を輝かせた。

鴆酒というのは滅多に出回らない酒であり、この酒を作ることが出来る者もかなり限られている。その理由は鴆酒がだからだ。

鴆の羽毛に含まれている猛毒から作られているこの酒は、嗜好品ではなく、暗殺の道具として使用されている。

普通の人間なら一口飲んだだけでも、たちまち毒に身体が蝕まれ、命を落とす代物だ。…だというのに、酒瓶は既に開けられて、何者かが飲んだ形跡があった。

「最近目を付けた酒蔵に鴆者鴆酒を作る者がいたんだ。それなりに良い味だぞ」

毒に対する耐性を持っているのは、桓騎もだった。

猛毒である鴆酒だと分かった信は迷うことなく杯に口をつけ、一気に喉に流し込んだ。

焼けつくような熱さと同時に、強い痺れが舌と喉を襲うが、その刺激が堪らない。信はぶるぶると歓喜に体を震わせた。

毒虫であるギュポーは大嫌いだし、毒を受けたせいで失ったものもあるのだが、毒酒の美味しさを実感出来るようになったことは唯一感謝すべきことである。

「ふはー、鴆酒なんて飲むの久しぶりだなあ」

中華全土のどこを探しても、毒酒を愛飲しているのは信と桓騎だけだろう。

酒好きで知られる麃公でさえも、毒の耐性を持っていないため、この鴆酒だけは飲めない。麃公とは幾度も酒を交わしていた仲だったので、この美味さを分かち合えないのは残念だと信は思っていた。

久しぶりに鴆酒を飲んだ信は先ほどまで暗い表情を浮かべていたが、今はすっかり笑顔になっていた。

屋敷に訪れた時は寂しそうな表情をしていた信が、太陽のような明るさを取り戻したのを見て、桓騎も思わず頬を緩めていた。

 

しばしの離別

酒瓶がすっかり空になった後、どちらが誘う訳でもなく、二人は体を重ね合った。

鴆酒は一般的に猛毒に分類されるものだが、二人にしてみればただの酒でしかない。酔いも合わさって、普段以上に激しい情事になった。

すっかり疲れたのか、褥の中で信は桓騎に抱き着いたまま、寝息を立てていた。

窓から差し込む月明りだけが部屋を薄く照らしている。

「………」

眠るとより幼さが際立つ寝顔を見つめながら、桓騎はそういえば久しく娼婦を抱いていないことを思い出した。

娼婦に興味がなくなったのは、信と今の関係になってからだ。

肌はあちこち傷だらけで、中には目も当てられぬような深い傷跡だってある。醜い傷跡が肌に残っているなど、女としては致命傷だろう。

それでも情事の最中にその傷跡に舌を這わせることは、桓騎は嫌いではなかった。むしろ自分だけの証として、醜い傷痕を増やしてやりたいとさえ思った。

これまで桓騎が抱いて来た娼婦たちのように、信は特別な美貌や玉の肌を持ち合わせていない。

論功行賞や宴の席ではそれなりに身なりを整えて来て、美しい女に化けることは分かっていたが、彼女は男の喜ばせ方を何一つ知らないのだ。桓騎にはそれが好ましかった。

一から自分好みに染められるという男の優越感もあるのかもしれない。

夜の指南に戸惑いながらも従う信は、確実に自分の好みの女へと成長しているし、ますます愛おしさが込み上げる。

優越感と同時に、独占欲まで広まってしまったようだ。もう他の女では満足出来ないかもしれないと思えるほどに。

「…ん…」

前髪を指で梳いてやると、眠っている信が小さく声を上げた。ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、ぼんやりとした瞳が桓騎を捉える。

「まだ寝てろ。朝にはすぐ発つんだろ」

頷いた信が瞼を擦ってから、桓騎の胸にすり寄った。

「…なあ」

「ん?」

信が不安そうに眉を寄せている。

「相手に、確実に毒を飲ませる方法・・・・・・・・・・・って…あると思うか?」

「あぁ?」

寝起きだと言うのに、信の目は真剣だった。嬴政に后の護衛と毒見役を頼まれてから、ずっと気になっていたことだったのかもしれない。

「そのために毒見役がいるんだろうが」

「………」

信の髪を撫でながら言うと、信はあまり納得いかない表情で口を閉ざしてしまう。

嬴政自ら后の護衛と毒見役を頼んで来たということもあって、何としても后を守らねばならないと重責を感じているようだ。

「もしも、后を毒殺しようとしているのがお前なら、絶対に毒見役の目をすり抜けるだろ」

彼女の言葉に桓騎は苦笑を浮かべた。奇策を用いて戦う自分を敵に回せば、確実に標的を殺すに違いないと思われているらしい。

「やろうと思えばいくらでもあるな」

宦官ではない桓騎が後宮に入れるかどうかは置いといて、彼の頭に毒殺の方法はいくらでもあるようだ。

「例えば?」

「井戸に毒をぶち込むのが一番手っ取り早い」

「おいっ」

「冗談だ」

冗談でも物騒なことを言うなと信が桓騎が睨んだ。井戸に毒なんて流せば、大勢の者たちが被害に遭うだろう。

見境ないやり方に桓騎らしさを感じてしまうあたり、この男の性格に随分と慣れて来た証拠なのかもしれない。

頬杖をつきながら、桓騎が口を開く。

「…確実に殺すなら、一度に致死量を飲ませる必要はない。食事や香に混ぜるだけでじわじわ効いていくだろうな。女なら、紅やおしろいに混ぜれば確実に吸うだろ」

普段の食事や、部屋に焚く香。さらには女が普段から行っている化粧品にまで毒を盛るだなんて、本当にこの男だけは敵に回したくないなと、つくづく信は思うのだった。

「后だけを確実に毒殺する方法か」

桓騎は静かに目を伏せた。

「…毒見役で気づかれるっていうんなら、毒見役になって・・・・・・・食事に毒を盛ればいい。目の前で飯を食った毒見役が何ともねえって言うんなら、疑うことなく食うだろ」

「………」

信の眉間に深い皺が寄る。毒殺を防ぐ方法として、逆に桓騎だったらどのように毒殺をするかを聞いてみたのだが、さすが奇策の持ち主だ。

毒見役を演じておきながら、何ともなく食事をする姿を見せれば、食事に毒が盛られていないと誰もが信じるだろう。

「…後宮ではお前が毒見役をやるんだろ?それをすり抜ける方法か…」

なぜか楽しそうに桓騎の口元が緩んだ。

後宮へ行くのは后の護衛であって、決して遊びに行く訳ではない。信がきっと目を吊り上げると、桓騎は頭を乱暴に撫でた。

「あるぜ」

「え?」

毒見役お前の目を誤魔化して、確実に后だけを毒殺する方法だ」

桓騎がにやりと笑った。

 

護衛任務

明朝に桓騎の屋敷を発ち、信は自分の屋敷へと帰還した。仲間たちにしばらく不在する旨を伝えてから、信はすぐに咸陽へと戻るのだった。

信が後宮にいる向の護衛につくことを知っているのは嬴政と向、それから桓騎だけである。

秦国を幾度も勝利へ導いている飛信軍の女将軍の話は後宮内でも有名だった。そんな女将軍が直々に護衛につくとなれば、毒を盛った犯人が安易に手を出せなくなることは目に見えている。

信が後宮を出るまで向に手出しはしないだろうが、それでは根本的な解決にはならない。信の目がなくなってから再び動き出すに違いなかった。

あくまで今回の目的は后である向の護衛と毒見が主なのだが、犯人を捕まえられるならば、それに越したことはない。

大将軍の座に就いている信が後宮にいられる期間はそう長くないのだ。具体的な日数は決められていないとはいえ、いつ近隣の国が攻め込んで来るかも分からない乱世である。戦の気配があればすぐに呼び戻されるだろう。

可能ならば、自分が後宮に間に、向を毒殺をしようとした犯人を捕まえたかった。

後宮へ赴く日。信は後宮に身売りされた下女という後ろ盾のない立場を装った。

犯人を刺激しないよう、飛信軍の女将軍であることは内密にしなくてはならないのだが、女官の仕事着に身を包んだ信は誰がどう見ても下女にしか見えないだろう。

後宮には幾つもの宮殿があり、一番大きいものは嬴政の母親である太后が住まう宮殿だ。その次は嬴政の正室である向が住まう宮殿である。

必要最低限の荷物を抱えてその宮殿を訪れると、働いている侍女たち全員が暗い雰囲気に包まれているのが分かった。

毒殺事件があってからまだそう日は経っていないのだ。全員がどこか怯えた表情を浮かべている。

「あら、あなたは…」

信に気付くと、廊下の掃除を行っていた女官が無理やり笑みを繕った。年は信よりも上だということがすぐに分かる。

敏と名乗った彼女は、この宮殿に務める女官たちの中では一番長く後宮に務めており、女官たち統率する侍女頭の役割を担っているのだそうだ。

「話は聞いているわ。今日からよろしくね。ええと、名前は…」

「信だ」

偽名を使うのは面倒だったので、素直に名前を名乗った。まさか名前だけで飛信軍の女将軍だとは気づかれないだろう。

敏は悲しみ込めた眼差しを信に向けてから、笑顔を繕った。

どうしてそんな目を向けられるのか信には分からなかったが、新しい毒見役として遣わされたことから、恐らく哀れんでいるのだろう。

嬴政から聞いた話だと、向の食事を確かめた毒見役の女官は即死で、最後まで苦しんでいたそうだ。恐らく信も同じ目に遭うのだという同情のような哀れみ込められているのだと気づいた。

「…それじゃあ、向様のお部屋へ案内するわね」

女官に案内されながら信は廊下を歩いた。窓を開けて換気しながら女官たちが宮殿の清掃に勤しんでいる。

「…掃除は毎日してんのか?」

「もちろん。大王様の御子を抱えた大事なお体ですもの。こまめに空気も入れ替えているのよ」

一度に致死量は飲ませず毒殺するのなら、部屋に焚く香にも毒を仕込ませると桓騎は言っていたが、その点は心配なさそうだ

「あの、あなた…向様の前でその口調は、ちょっと…」

振り返った敏が言葉を濁らせる。

「下僕から身売りされた立場なんでな。あんまりそういった教育は受けてねえんだ」

嘘は吐いていない。王騎と摎の養子になってから、淑女としての教育は受けたことはあったが、微塵も直らなかったのも事実である。

将としての才能以外はからきしだと理解した両親も諦めたようで、気付けば何も言われなくなっていた。

もしも淑女としての教育がしっかりとされていたのなら、信は将ではなく、どこかの名家に嫁いでいたかもしれないと母によく笑われたものだ。

「…向様のご不快になるようなことだけは、気をつけてちょうだいね」

本来なら口酸っぱく指導するところだろうが、毒見役を担っているため、長い付き合いにはならないかもしれない。

今日明日にでも毒殺されてしまうのかという危惧しているのか、敏はそれ以上は何も言わなかった。

下女の替えなどいくらでも利く。毒見役など所詮は捨て駒に過ぎない。侍女頭の敏の態度はまさにそれを示していた。

替えられない命といえば、嬴政からの寵愛を受ける向と子どもの命だ。彼女たちを守るためにも捨て駒の存在は欠かせないのだろう。それは秦の未来のための礎とも言える。

(向に会うのは久しぶりだな…)

秦王の后に仕える立場として無礼は許されないというのは承知していたが、向と会うのは初めてではない。

幾度も嬴政から話を聞いていたし、何度か嬴政と二人でいるところにも遭遇したことがあり、そこで会話を交わしたことがあった。

後宮には大勢の美女がいるというのに、特別美人でもない田舎娘を選んだ嬴政には大笑いしてしまったものだ。

しかし、向と関わっているうちに、何となく嬴政が彼女を選んだ理由を信も分かるようになっていた。

高貴な生まれである娘と違って、向には芯の強さがある。そして何より、后という立場に興味を持たず、嬴政のことを愛していることが分かった。

秦王の后になることを羨望する娘は多い。しかし、誰もが后という国母に憧れているばかりで、夫となる秦王には興味を抱かない者も多いのだ。

信は後宮に出入りしたことはこれまでなかったのだが、母の摎からそのような女性もいるのだと聞いた覚えがあった。だからこそ、戦とは違った争いが絶えないらしい。

 

后との再会

「向様がいるのは、あの部屋よ」

突き当りの部屋の前に、一人の宦官が立っていた。

(見張りはちゃんとついてるんだな)

あの部屋が嬴政の正室である向がいる部屋のようだが、御子を身籠っている彼女の護衛をしているのだろう。

嬴政でさえ一人になることは滅多にないくらい護衛がついているのだ。その后ともなれば、護衛がつくのは当然だろう。ましてや、王族の子を身籠っているのだから、護衛がつかないはずがないのだ。

王族以外の男の出入りが許されない後宮では、男としての生殖機能を持たない宦官でも十分に護衛の役割を担うことが出来る。

女の力で敵わないことを分かっているからこそ、毒殺に目をつける者も多いのだろう。

目に見える凶器を振り払えたとしても、隠された凶器を見抜くのは、いかに力を持つ者でも至難の業である。

侍女頭である敏の姿を見ると、宦官は何も言わずに扉の前からその身を退いた。宮殿の女官たちを統率しているということもあって、彼女は随分と信頼されているらしい。

「向様。新しい女官を連れて参りました」

「あ、はい。どうぞ…」

扉を開けると、信は久しぶりの再会に喜ぶよりも前に、驚愕の表情を浮かべた。

向の体は、かなりやつれていた。ふっくらとした腹を見ると妊婦らしい体に思えるが、目の下の隈や、顔色の悪さから、健康でないことは誰が見ても明らかだったのだ。

驚きのあまり、信は向に掛ける言葉を失い、呆然としていた。

しかし、嬴政から話を聞いていたようで、信の姿を見た向は今にも泣きそうなくらい顔を歪めている。

挨拶もせずに呆然と后の顔を見ている信に、侍女頭の敏が焦った表情を浮かべた。無礼をしないように忠告はしていたが、頭を下げることもしない信に敏が慌てて口を開く。

「も、申し訳ありません!この子は下賤の出でして、ご無礼を…!」

「いえ、良いのです。あの、二人でお話をしたいのですが…」

向の言葉を聞いた侍女頭は不思議そうに目を丸める。

二人に面識があることは誰にも口外していない。そこにはどこに潜んでいるか分からない犯人を警戒させぬためという目的があった。

しかし、名も知らぬ初対面の下女と二人きりになりたいと言った向に、侍女頭は不安そうな表情をする。向もそれを察したのだろう、咄嗟に上手い言い訳を口にした。

「ええと、毒見役として来てくれているのですから…私の口からぜひともお話をしたくて…

毒見がいかに危険な仕事であるかは誰もが分かっている。向の心遣いを察した侍女頭は深く頷いて部屋を後にした。

「信さまぁあぁ…!」

背後で扉が閉まった途端、向はずっと堪えていた涙を溢れさせたかと思うと、子どものようにその顔をぐちゃぐちゃに歪ませて泣き始めたのだった。

「お、おいっ?いきなり泣くなよ…!」

動揺した信は一体どうしたら良いのか分からず、向の背中を擦ってやる。

とりあえず座らせると、部屋に用意されていた水甕から杯に水を汲んだ。

毒殺の方法の一つとして、井戸に毒を入れると言っていた桓騎の言葉を思い出し、試しに一口飲んでみる。唇や舌に痺れは感じないし、喉にも違和感はない。毒は入っていないようだ。

一頻り泣いてからようやく落ち着いたのか、向がぐすっと鼻を啜る。

「…信様。ご迷惑をお掛けしてすみません…」

「迷惑なんて言うなよ。お前は政の妻で、子どもを身籠ってるんだ。守られて当然だろ」

信が当然のように発した言葉を聞き、向の瞳に引っ込んだはずの涙が再び現れる。

「でも、でもぉ…!私のせいでッ…あの子が…」

あの子というのは亡くなった毒見役の女官だろう。

自分と身籠った子の命よりも、亡くなった者のことを想って涙を流せるのは、きっと嬴政が彼女を選んだ何よりの理由だろう。

信は苦笑を浮かべて彼女の頭を乱暴に撫でてやった。先ほどの侍女頭がまだこの場にいれば、后の頭を撫でるなんて無礼だと激怒されたに違いない。

「向」

信は真っ直ぐな瞳で彼女を見つめた。

「…お前のせいじゃないとか、そいつを忘れろだとか、そんなことは言わねえ。だがな…政のやつも、たくさんの命を背負って進んでんだよ」

嬴政の話が出たことに、向がぐっと歯を食い縛る。

その反応を見れば、いつまでも悲しみに囚われている訳にはいかないのだと彼女自身も分かっていることは明らかだった。

「お前が今やるべきことは、いつまでも不細工な泣き顔晒すことじゃねえはずだろ。亡くなった毒見役のことを想ってんなら、尚更だ。お前は生きなきゃいけねえんだよ」

信の言葉に、向は乱暴に涙を拭い、大きく頷いた。

勢いで言葉を綴ってしまったが、后本人に不細工だという言葉を投げ掛けたのは、中華全土どこを探しても信一人だけに違いない。

向が嬴政に告げ口をしたら、厳しい処罰を言い渡されるかもしれないと信が危機感を抱いたのは、随分と後のことだった。

 

耐性の代償

今度こそ涙が落ち着いて、向はごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。

豪快な飲みっぷりに、泣いたせいで失われた水分を取り戻そうとしているのと、毒殺事件があってから、ろくに食事を摂取出来ていないことが分かる。

「…あの、大王様から信様が毒見をするから大丈夫だって聞いていたのですが…」

言いにくそうに向が口を開いたので、信はあっさりと頷く。

「ああ、俺は毒が効かねえからな」

「ええッ!?」

信じられないといった表情をされる。毒が効かない人間など本当にいるのかと疑っている顔だ。

この反応を見る限り、どうやら嬴政は信の特殊体質のことを向に話していなかったらしい。

「毒見と護衛を兼ねて俺に頼んだんだろ。まあ、そんな訳だから、お前は安心して飯を食え」

「…本当に、体には何も支障がないのですか?」

疑うのも当然だろう。信自身も、毒が効かない特殊な体質である人間は、自分と桓騎以外に出会ったことがない。

それだけ珍しいものであるのは信にも自覚はあったが、体に支障がないといえば嘘になる。

「毒の症状は何も出ないけどよ…将軍の座に就いている俺には丁度良いんだ」

信がどこか寂しげな表情を浮かべながら自分の下腹部を擦った。

どうやら真意に気付いたようで、はっとした表情になった向は相槌も打てないほど驚いていた。

毒の耐性を持った代償として、信は子を孕めなくなったのだ。

幼少期にギュポーの毒を受け、毒の耐性を持つ特殊な体質へ変化した時に、どうやら女としての生殖機能を失ってしまったらしい。

信の年齢であれば、大抵は嫁に行っているし、子を産んでいる女もいる。しかし、信には未だ初潮が来ていなかった。

医師の診察を受けても、原因は分からないと言われた。しかし、思い当たることといえば、幼少期に毒を受けたことしか思いつかない。

他に居ない毒耐性を持つ特殊体質ということもあって、医師からはこの先も初潮は来ないかもしれないとまで言われていた。女としての生殖機能がないという意味だ。

子を孕めないと分かっても、信に焦りや不安はなかった。

大将軍の座に就いている以上、安易にその座を明け渡す訳にもいかなかったし、将軍として生きる道を選んだのだから、女としての幸せは不要だと思っていたからだ。

自分が将軍にならなければ、王騎と摎の養子として、どこかの名家にでも嫁いでいたのかもしれない。もしそうなっていれば、子を孕めないことに焦りや劣等感に苛まれていたに違いないだろう。

「もし戦に出られなくなったなら、その時はお前専属の毒見役になってやるよ。大王様のお墨付きだぞ?」

カカカ、と信は陽気に笑った。しかし、向は複雑な表情を浮かべていた。

 

都合の良い関係

一頻り笑ってから、信は思い出したように顔を上げる。手招きをして、顔を寄せてくれた向に小声で囁いた。

「政から聞いてるかもしれねーけど…」

この部屋には信と向しかいないのだが、普段の声量で話せる内容ではない。

俺があいつに伽で呼ばれる時・・・・・・・・・・・・・は、後宮での状況を報告するだけだから、くれぐれも誤解するんじゃねえぞ」

「はい。大王様から伺っております」

信はほっと胸を撫で下ろした。

自分と嬴政は親友という関係で結ばれているが、男女であることから、実は親友以上の関係で結ばれているのではないかという噂がどこからか広まっていた。

もちろんそんなことは絶対にないのだが、情報が限られている後宮では男女の色事についての噂が広まるのは早い。向の耳にも、その噂が届いたに違いない。

不本意だが、噂を止める術というものは未だ見つかっておらず、ほとぼりが冷めるまで待つしかないのだ。

「もし、本当に信様が伽に呼ばれたとしても、それは大王様のご意志ですから」

「誓ってお前の夫に手を出してねえし、出されてねえ。これからも絶対にないから安心しろ」

嬴政のために剣を振るうことはあっても、彼のために足を開くことは絶対にない。信は断言出来た。

彼女の言葉を聞いた向が曇りない笑顔を浮かべる。

「信様には心に決めた殿方がいらっしゃると、大王様から伺っていました」

「…はっ?」

まさかそんなことを言われるとは思わず、信の心臓が跳ね上がった。

心に決めた殿方と言われ、瞼の裏に桓騎の姿が浮かび上がる。嬴政に桓騎との関係は一度も告げたことはないのだが、どうして彼が知っているのだろうか。

桓騎と信の関係が深まったのは、信が桓騎軍の素行調査を行ったことがきっかけだった。

桓騎軍は元野盗の集団で構成されている。訪れた村を焼き払い、村人を虐殺し、金目の物を奪うという悪事の噂を聞きつけた嬴政が親友である信に、桓騎軍の素行調査を依頼したのである。

強豪である飛信軍の兵たちで結成した百人隊に紛れ、桓騎軍を見張っていたのだが、桓騎は初めから監視されていることに気付いていたらしい。

同じ大将軍である信が内密に素行調査を行っていたことをすぐに見抜いた桓騎は、逆上することなく信に酒を酌み交わそうと声を掛けた。

その時に差し出されたのが鴆酒だった。決して桓騎は逆上している訳ではなかったのだが、猛毒の酒を飲ませて藻掻き苦しむ信の姿を楽しもうとしていたのだ。

しかし、ここで予想外のことが起きる。それは信が桓騎と同じで毒に耐性を持っていたことだった。

―――う…美味いッ!なんだ、この酒!?初めて飲んだぞ!

―――…は?これは鴆酒だぞ?

普通の人間なら、鴆酒を飲み込めば、まず助からない。

解毒の方法がまだ解明されていないこともあるが、即効性がある毒だ。喉に流し込めば、吐き出す間もなく毒が回って死ぬことになる。

―――珍酒・・?そっか、だから飲んだことねえ味してんのか!

しかし、信は目を輝かせて、初めて飲んだ鴆酒の美味さに感激していた。

苦しむどころか、満面の笑みで鴆酒を飲み続ける彼女に、桓騎は呆気に取られる。

―――鴆酒・・だ。…お前、毒が効かねえのか?

桓騎の言葉に頷きながら、信は彼の手から酒瓶を奪い取り、お代わりを注いでいた。

美味しそうにごくごくと喉を鳴らしながら鴆酒を飲んだ信は、そこでようやく鴆酒を自分に飲ませた桓騎の意図に気が付いたのだった。

―――てめえ!俺のこと殺そうとしたなッ!?

二杯目を美味しく飲み終えてから憤怒した信に、桓騎は肩を震わせ、今さらかよと大笑いしたのだった。

素行調査では噂通りの悪事を目撃することは出来なかった。しかし、桓騎と距離が縮まったのは、お互いに毒を飲んでも平気だという共通点があったからだろう。

桓騎は毒を持つ生き物の珍味や酒など珍しい物をよく取り揃えており、時々、信に美味いものが手に入ったと酒の席に誘ってくれるようになった。

この中華全土のどこを探しても、毒酒の美味さを分かち合えるのは自分たちだけだろうと信は思った。

猛毒が入っているとはいえ、二人にしてみれば美味い酒であることには変わりない。

―――体を重ねたのは、何度目かの酒の席で、酔った流れだった。

先に唇を重ねて来たのはどちらだっただろうか。酒に酔った朧げな記憶ではそれさえも覚えていないのだが、決してどちらも嫌がらなかったことだけは覚えている。

「…あいつには、孕めない俺が都合良いんだろうな」

苦笑を滲ませながら、信は呟いた。

大将軍である桓騎は端正な顔立ちで、金で夜を買われた娼婦たちも彼のために喜んで足を開いている。元野盗の性分や悪事はともかく、大将軍という高い地位についているのだ。妻になりたいという女性も多くいるのも頷ける。

だが、桓騎がいつまでも妻を娶らずにいるのは、気ままな性格に婚姻という束縛をされるのが嫌なのだろうと信は思っていた。

毒酒の味を分かち合い、子を孕めない自分は、きっと桓騎にとって都合が良い女でしかない。

それでも桓騎に求められれば、舌を絡めながらその情欲に応えたし、肌を重ね合うあの時間は嫌いではなかった。

 

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