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七つ目の不運(李牧×信)中編

キングダム 七つ目の不運2 李牧 信 牧信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

偽装工作完了

数刻後、約束通りに李牧は呉服店へと戻って来た。

どうやら着替えを終えたらしく、女主人が得意気な顔をしている。

彼女の後ろをついて来た女性を見て、李牧ははっと目を見張ったのだった。

「…随分と変わりましたね」

「うるせえな!お前がそうしろって言ったんだろうがッ」

憤怒して顔を真っ赤にしている信は、顔色と正反対の青い着物に身を包んでいた。

淡い青色から透明感のある水色へ階調をしている裳は、生地に特殊な染め方が施されているらしい。丁寧に蓮の花が刺繍されており、まるで生地に直接色を載せて絵を描いているようにも見える。

表着も裳と色を合わせたのだろう。しかし、表着には裳と違って金色の刺繍が施されており、信が歩く度にその刺繍がきらきらと輝いて見えた。

「………」

まるで彼女自身から光を発しているかのようで、李牧は言葉を掛けるのを忘れて、信に見惚れていたのである。

華やかなのは衣裳だけではない。無造作に後ろで纏めていただけだった黒髪も、女主人によって梳かされ、女性の美しさを引き出すように、高い位置で結われていた。

小さな傷痕が目立つ頬はおしろいを叩いたのか、見事なまでに消え去っている。

みずみずしい赤色に染まった唇は上品さを際立たせており、そこにあったのは別の女の顔だった。

「……おい、それ以上見るなら金取るぞ」

信の怒気が含まった低い声を聞き、李牧ははっと我に返る。

「すみません、あまりにも別人だったので驚いてしまいました」

「ふんッ」

信が腕を組んで大きく顔を背けた。

秦王嬴政の前に出る時や、論功行賞などの畏まった場で、信はいつもの男物の着物は着ずに、身なりを整えていた。その時も、李牧と似たような反応をされることが多い。

きちんとした身なりに整えるだけで驚かれるのは慣れているはずなのだが、李牧に限っては苛立ちしか感じなかった。

女主人も信の変貌ぶりに驚いた李牧の顔を見て、満足げな顔を浮かべている。一仕事終えたと言わんばかりの達成感を噛み締めているようだった。

かくして、偽装工作は無事に成り立ったのである。

 

城下町

信も女主人もぎょっとしてしまうほどの金銭を李牧が笑顔で支払った後、ようやく呉服店を後にした。

城下町は多くの民で賑わっていたが、呉服店に入る前にはなかった不穏な空気が広がっている。

宮廷の護衛に努めている兵たちがあちこちにいるのだ。民たちが何かあったのだろうかと不安そうにしている。

(動き出したな…)

信が見渡す限り、既に二十人近くの衛兵が城下町を歩いている。

城下町は宮廷よりも遥かに広いため、多くの人数を用いられば見つからないと思ったのだろうか。

それにしても、下女一人に対してここまで兵を割くとは何事だ。

信が眉間に皺を寄せていると、李牧は表情を変えず、信にだけ聞こえるように声を潜めた。

「…偽装工作をしたとはいえ、気づかれないとは限りません。怪しまれないよう、自然に振る舞ってください」

「お、おう」

緊張しながら相槌を打つと、李牧がぴたりと足を止めた。

「…その話し方、今だけどうにかなりませんか?」

「は?」

きょとんと目を丸めて信が聞き返す。

「いえ、宦官たちは衛兵にあなたの特徴を伝えているはずですから、そういった言葉遣いも怪しむ可能性があります」

「…んなこと言われても…」

確かに李牧の言う通りである。

後宮の中で、普段から男のような言葉遣いをする女は、信しかいなかった。外見で判断出来ないとしても、言葉遣いから怪しまれる可能性は確かにありそうだ。

とはいえ外見と違って、言葉遣いというのは簡単に変えられるものではない。

「では、寡黙な性格ということにしましょう」

「寡黙な性格?」

ええ、と李牧が笑顔を浮かべる。声を潜めながら、彼は言葉を続けた。

「どこで誰が聞いているかも分かりませんし、用心するに越したことはありません」

「まあ…それもそうだな」

承諾した信に、李牧が意味ありげな笑みを浮かべる。彼がこんな風に笑うのは何かを企んでいる時に違いない。信は嫌な予感を覚えた。

「余程の緊急事態でない限りは口を開かないように」

「な…!」

なんでだよ、と信が反論しようとするが、李牧は自分の唇に人差し指を押し当てた。

「…そういうところです。せめて城下町から出るまでは大人しくしてくださいね。これはお互いの命を保証するためです」

「………っ」

悔しそうに奥歯を噛み締める信に、李牧が穏やかな眼差しを向ける。

悼襄王が伽を命じた下女を匿ったとなれば、たとえ宰相であっても厳しい処罰は避けられないのだろう。

信も自分の正体を知られる訳にはいかなかったため、悔しいが彼の指示に従うことにした。

「門があるのはこの先です」

「………」

城下町の表通りを進んでいき、門を潜れさえすれば逃げられる。

もう少しで秦に帰れるのだと信は胸に希望を灯した。

 

城下町その二

いつもならば着物の乱れなど気にせずに大股で歩く信だったが、女性用の着物で歩く時は、歩幅を狭めないと裾を踏んづけて転倒してしまう。

過去に何度もそれで痛い思いをしていたため、信は図らずとも淑やかに歩いていた。

信が見上げるほど身長の高い李牧の方が歩幅は当然広い。しかし、今は信と離れないように、ゆっくりと歩いていた。

捻ったという右足を庇っているのかと思ったが、引き摺るような仕草はなかったので、恐らく信を気遣って速度を合わせてくれているのだろう。

「……?」

李牧と並んで歩いていると、すれ違う民たちから好奇な視線を向けられる。

脱走した下女だと気付かれたのだろうかと不安に思いながら、視線を送って来る民たちの顔を見た。

怪しんでいるというより、なぜか全員が穏やかな視線を自分たちに向けている。信は頭の中に疑問符を浮かべた。

「………」

おい、と声を掛ける訳にもいかなかったので、信は隣にいる李牧の裾をちょんと引っ張った。

「どうしました?」

すぐに足を止めた李牧が不思議そうに小首を傾げる。手招くと、李牧は体を屈めて顔を近づけてくれた。

余程の緊急事態でない限りは口を開くなと言っていたが、あれは大声で話すなという言葉のあやだったのかもしれない。

「…すげえ見られてるぞ…気づかれたんじゃねえのか?」

耳元で声を潜めながら信が不安を打ち明けると、李牧は周りにいる民たちを見渡して、それから首を横に振った。

「いえ、衛兵たちもこの辺りには来ていませんし、そんな様子はありません。ただの物珍しさ・・・・のでしょう」

物珍しさという言葉を素直に呑み込めず、信は眉間に皺を寄せた。

「…どういう意味だよ」

「そのままですよ。普段は仕事ばかりですから、私がこうして城下町を歩くのは久しぶりなんです」

へえ、と信は頷いた。

確かに宰相という立場であり、趙軍に軍略を授けている李牧ならば、与えられる仕事は後を絶たないのだろう。

将軍である信には戦以外の仕事が何たるかはよく分かっていないのだが、軍の総司令官である昌平君はいつも何が書いてあるのか分からない書簡に目を通している。

秦王である嬴政や他の文官や武官や文官にも様々な指示を出しているし、その上、軍師学校の生徒たちの教育もしなくてはならないらしい。

呉服店に入る前も視線を向けられているとは思ったが、そんな忙しい御仁が城下町を歩くのは、民たちにとっては珍しいことなのだろう。

「宰相様!」

門へ向かって表通りを歩いていると、背後から声を掛けられた。

反射的に振り返ると、宮廷の衛兵たちが数名、焦った表情を浮かべてこちらへ駆け寄って来ている。

まずいと信の心臓が早鐘を打った。

「どうしました?」

まるで信の姿を隠すように、彼女の前に立った李牧が駆け寄って来た衛兵たちに用件を尋ねる。

「それが…後宮から下女が逃げ出し、その者を探し出せという勅令が…」

勅令。つまり悼襄王の指示である。信は李牧の背後で顔を引き攣らせた。

たかが一人の下女のために、まさか悼襄王自らそんな指示を出すなんて、とても信じられなかった。

兵たちから逃げた下女の特徴を告げられ、李牧はふむと頷く。

言葉遣いも外見も男のようで、壁を飛び越える身体能力の高さがあるという特徴に信はいたたまれない気持ちになった。

まさかその張本人が李牧の背後にいる着飾った女で、正体は秦の大将軍の一人だなんて、誰も思わないだろう。

「そうでしたか…見かけたらすぐにお伝えします」

宰相の言葉に、衛兵たちは礼儀正しく供手礼をする。

「!」

李牧の身体越しに衛兵たちと目が合ってしまい、信は咄嗟に顔ごと目を逸らしてしまった。

怪しまれただろうか。俯いて李牧の背中に隠れていると、衛兵たちはなぜか頬を赤く染めて、驚いたように李牧を見たのだった。

「こ、これはお二人の貴重な時間を邪魔をしてしまい、申し訳ございません!それでは」

「え?」「は?」

李牧と信が同時に聞き返したが、衛兵たちはその場から逃げるように去っていく。

残された信と李牧はしばらく呆然としていたが、衛兵たちが遠ざかっていったことに安堵し、再び歩き始めた。

(何だったんだ?あいつら…)

衛兵の言葉を未だ理解出来ずにいる信は頭に大量の疑問符を浮かべながら、李牧の隣をついて歩く。

李牧は意味を理解したのか、それとももう興味を失くしたのか、いつものように人の良さそうな笑みを口元に繕っていた。

「…逃げ出した下女の騒動、大きくなって来たようですね」

それは他でもない信のことなのだが、李牧は辺りを見渡しながら呟いた。

勅令ということもあってか、衛兵たちが必死な形相で民たちから話を聞いていた。

後宮にいたのはたったの数日だ。後宮に務めている下女など大勢いる。宦官や女官たちも一人一人の顔や特徴など細かく覚えていないのだろう。そのおかげか捜査が随分と難航しているようだった。

(とっとと諦めて、他の女にすればいいのに…)

大王と褥を共にするのが仕事である女は後宮に大勢いるというのに、一体どうして執拗に自分を探そうとしているのだろうか。

高貴な生まれの令嬢でもあるまいし、後ろ盾もない下女の一人くらい放っておけばいいものをと信は考えた。

どうやら李牧は信の考えを表情から読み取ったらしく、少し困ったように溜息を吐く。

「ああ、すみません。少し肩を借りてもいいでしょうか?」

どうやら捻った右足が痛むのだろう。信はすぐに頷いた。

李牧の大きな手が信の左肩に寄せられる。傍から見れば、身を寄せ合いながら歩いている男女ということで夫婦か恋人にしか見えなかった。

すれ違う民たちから好奇心が含まれた視線を向けられるが、信の中では「足を捻った李牧に肩を貸しているだけ」である。

自分の正体に気付いたのではないかという不安の方が大きく、彼らが視線を向けて来る理由が好奇心であることに気付けなかった。

信の肩を借りたことで、先ほどよりも距離が近づいた李牧は、

「…稚児趣味で有名な御方です。あなたの外見から、相手をさせたがったのでしょう」

他の者たちに聞こえないように小声で囁いた。

下女になった経緯はともかく、信が見初められた理由を李牧はそのように理解している。

「うぅ…」

後宮の中で悼襄王に声を掛けられた時の、あの絡み付くような視線を思い出し、信はぶわりと鳥肌を立て、思わず両手で自分の体を抱き締めた。

幼い頃から戦場に身を置いていたことから、信は自分に怖いものなど何もないと思っていたのだが、これは新たな発見だ。

そこで、信はふと浮かんだ疑問を躊躇うことなく口に出す。

「…なんで、お前はあんな奴に仕え――もがっ」

言い切る前に李牧の大きくて骨ばった手が信の口元を塞いだ。

「ああ、あそこで綺麗な簪が売っていますね。せっかくですから見ていきましょう」

片手で口を塞がれたまま、ちょうど視界に入った簪が売っている店に引っ張られていく。

「~~~ッ!」

放せと李牧の着物を掴むと、彼は信の耳元に顔を寄せて声を潜める。

「…王の侮辱となれば、さすがに私も庇い切れませんよ」

一切の感情を読み取られない低い声に、信はぎくりと体を強張らせる。

確かにここは悼襄王が収める趙の領地であり、首府の邯鄲だ。

悼襄王に嫌悪感を抱いているとしても、彼に従っている将や兵は多くいる。李牧もそのうちの一人だ。

仕えている王の侮辱は許せないのだろう。自分だって、なぜ嬴政なんかに仕えているのかと問われれば逆上したに違いない。

「………」

反省したように縮こまった彼女を見て、ようやく手を放してくれた李牧は穏やかな笑顔を浮かべている。

他の民たちに怪しまれないようにとはいえ、簪が売っている店にやって来た信は戸惑ったように李牧を見上げた。

自分の目的はあくまで城下町から出ることであって、買い物など不要だ。

しかし、怪しまれないためだと思い、信は大人しく店の前に立った。

陳列棚に並んでいる簪は、多くの種類が並んでいる。金や銀で出来たもの、磨き抜かれた美しい黒檀でできたもの、眩い宝石が取り付けられているものなど、色とりどりだ。

女性ならば目を輝かせるものばかりで、陳列棚の周りには多くの女性客たちがいた。

当然、一般民には手の届かぬ額のものばかりのため、眺めるだけで満足しているようだった。

しかし、彼女たちの視線は今や簪ではなく、宰相である李牧の端正な顔立ちに向けられていた。

そして彼のすぐ背後にいる信に気づくと、彼女たちはぎょっとした表情を浮かべ、李牧と信の交互に視線を向けているのだった。

(やっぱり怪しまれてんじゃねえのか…)

楽しそうに簪を眺めている李牧に早く行こうと催促するように、信は背後から李牧の着物を引っ張った。

「何か欲しいものはありますか?」

振り返りざまに笑顔を向けられると、周りにいる女性たちが顔を真っ赤にしている。しかし、信は簪になど少しも興味がなく、あっさりと首を横に振った。

(早く行くぞ)

言葉遣いから、探されている下女だと見抜かれる訳にはいかなかったので、信は李牧の着物を掴む手に力を込める。

周りの女性たちが信に羨望の視線を向けていたが、それを疑いの眼差しに感じた信は嫌な汗を滲ませる。

偽装工作をしたとはいえ、李牧と二人でいるのは目立つ。

周りにいる女性たちが信の方を見ながら、何かを囁き合いながら、鋭い目つきを向けて来る。

(…やっぱり気づかれてるじゃねえか!)

睨まれているのだと分かり、信はいたたまれなくなった。

このままここにいたら、あの女性たちに逃げ出した下女だと衛兵に告げられるのかもしれない。

着物の袖で口元を隠し、なるべく顔を見られないように、信は足早にその場を離れた

 

別行動その一

その場から逃げるように去っていった信に、李牧が気づくことはなかった。

数多くある簪の中で、彼女に何が似合うだろうかと考えている内に夢中になっていたのである。

信が着ている着物と彩りが似ていることから、青水晶で花の形を象っている金色の簪を選んで店主に包んでもらっていると、先ほどから店にいた女性客に声を掛けられる。

「宰相様、あの、先ほどのお付きの方は…」

「え?」

振り返ると、そういえば信がいなくなっていることに気付く。

簪を眺めている最中に、後ろから何度か着物を引っ張られたが、大人しく待ってくれていると思っていた。

店主から簪を受け取りながら、李牧は辺りを見渡した。

遠くで彼女を探している衛兵たちの姿がちらほら見える。声を掛けられていたような気配はなかったが、衛兵たちの姿を見て怯んでしまったのだろうか。

「すみません、先ほどの女性がどちらへ行ってしまったかご存じありませんか?」

声を掛けてくれた若い女に尋ねると、彼女は門のある方を指さした。もしかしたら一人で門まで行ったのだろうか。

せっかく国を出るまで協力すると言ったのに、一人で行ってしまうなんてと李牧の瞳に寂しい色が浮かぶ。憂いの表情を見た女性客たちの顔に緊張が走った。

「あ、あの、宰相様にはお体の弱い許嫁様がいる・・・・・・・・・・・と…」

その言葉を聞き、そういえば過去にそんなことを公言したなと李牧は苦笑を浮かべた。

宰相という立場であるせいか、その地位を欲しがる者から李牧は縁談の話を持ち掛けられることが多かった。

名家の娘を中心として、他にも名のある商人の娘だったり、王宮を出入りする評判の良い妓女など、縁談として選ばれる相手は様々なのだが、李牧はそれらを全て断っていた。

しかし、いつまでも妻がいないことを不憫に思われているのか、良かれと思って縁談を持って来る者も絶えず、苦肉の策として李牧はある女性の存在を仄めかせるようになった。

それが、病弱な許嫁という架空の存在・・・・・である。

身体が弱く、滅多に屋敷から出て来られないのだと言えば、大半の者は納得して引き下がってくれる。

側近たちにもその話をしたのだが、怪しまれることもなく、事実だと受け入れてくれた。

情報が制限されると、人は良いように想像するものだ。李牧はその体の弱い許嫁と結ばれるために縁談を全て断っているのだと話がたちまち広まり、それから縁談の話はぴたりと止んだのだった。

未だに李牧が子を持たないことも、架空の許嫁のおかげなのか、勝手に納得されていた。

名前も明かしておらず、ただ病弱だということしか伝えていないのだが、絶世の美女だとか、可憐な女性なのだとか、様々な憶測が飛び交っている。

噂が一人歩きをすると、色んな枝が生えるものだ。どうやら、一緒にいた信がその病弱な許嫁だと思われたらしい。

(ちょうど良いかもしれません)

李牧は思考を巡らせた。

「ええ、彼女がその女性です。今は許嫁ではなく、妻ですが」

妻という単語を聞いて、なぜか青ざめて悲鳴を上げる女性や、歓喜の表情を浮かべる女性がいた。

李牧に声を掛けてくれた女性は後者で、思い出したように、はっとした表情を浮かべた。

「あの、御口許を押さえていましたから、もしかして、お体の具合が優れないのかもしれません…」

「それは大変です。彼女はいつ発作・・を起こすか分かりませんので、早く連れ帰らねば…では、私はこれで失礼しますね」

李牧は簪を着物の袖の中にしまうと、足早に・・・信の姿を追い掛けた。後ろから女性客たちの羨望の視線を感じたが、李牧は一度も振り返らなかった。

我ながら上手い言い訳だと李牧は表情に出さずに自画自賛する。

病弱な許嫁は架空の存在であったのだが、実際に姿を見た者がいれば、噂にさらなる信憑性が伴う。

それでいて発作という言葉を使って、病弱な印象をさらに深められた。これによって今後、李牧に未だ子がいないことも勝手に納得されるに違いない。

信が口元を抑えていたのは恐らく顔を見られないようにするためだろうが、都合よく立ち回ってくれた。

心の中で感謝しつつも、まだ彼女を逃がす訳にはいかない。

李牧は信が向かったであろう門の方向へと駆け出した・・・・・

 

別行動その二

簪を打っている店から逃げて来た信は、スカートの歩きにくさに苛立ちを覚えていた。

あの呉服店の女当主はやり手で、身包みを剥がされるように下袴を奪われてしまったのだ。

宦官の下袴だと気づかれないだろうかと信は不安だったが、女当主は商売人であり、後宮には出入りしないと言っていた。恐らく宦官との関わりがないことを知った上で、李牧もあの呉服店の女主人を頼ったのだろう。

少しでも早く趙国から脱出したい信は構わずに門を目指した。

国に入る分には色々な取り調べがあるが、出ていく分には許可は不要だろう。李牧がいなくても何とかなりそうだ。

着物の袖で口元を隠したまま、信は俯きながら前に進む。気持ちが急いているため、意識せずとも足取りが早まっていた。

裳を踏まぬように気をつけながら、ひたすら表通りを進んでいると、近くにある酒場から出て来た中年の男とぶつかってしまった。

(うおッ!)

女性らしさの欠片もない悲鳴を寸前で飲み込んだ信だったが、勢いのあまり、尻餅をついてしまう。

(いってーな!どこ見て歩いてんだよ!)

痛む尻を擦りながらぶつかって来た男を睨み付けると、彼も同じように尻餅をついていた。

大分酒に酔っているらしく、顔が真っ赤になっている。吐き散らかしている激臭を感じ、信は思わず袖で自分の鼻と口元を覆う。

麃公が日頃から愛飲している胃が燃えるような強い酒も飲むことが出来る信だったが、その激臭には耐性がなかった。

髭面の男はふらふらと立ち上がって、信を見下ろすと、にたりと嫌な笑みを浮かべた。

立ち上がると、李牧くらい背丈のある男であることが分かる。

がっしりとした体格や、体にいくつもの傷があることから、恐らく趙兵として戦に出ている者に違いない。

男は片手に持っていた酒瓶の蓋を開けて、中に入っている酒を水のように喉を鳴らして飲み始めた。

酒場にいる店員や客たちがこちらに視線を向けている。迷惑そうな視線であることから、飲み過ぎだと店から追い出されたところだったのかもしれない。

「お嬢ちゃん、良いところの娘だな?」

まるで勘定でもするかのように頭の先から足の先まで視線を向けられ、信は嫌悪感を覚えた。

「………」

こういう酔っ払いには関わらないのが一番だと、信は颯爽と立ち上がって、無言で着物についた土埃を払う。

李牧が呉服屋の女主人に支払った金銭はとんでもない額だったというのに、土埃をつけてしまった。後で着物を返せと言われないことを願うしかなかった。

そういえば嬴政からもらった着物を着ている時でも、信は構わずに地べたに座ることがあり、その度に王賁に叱られていたことを思い出した。今度からは気を付けよう。

何事もなかったかのように男の横を通り抜けようとすると、太い毛むくじゃらの腕が信の細い手首を掴んだ。

(なんだよ、この酔っ払い!)

普段の信だったらすぐに振り払っただろう。ついでに蹴りの一発でもお見舞いしていたに違いない。

しかし、今それをするのはまずい。趙国を出るためには、何としても衛兵たちの目に留まるような目立つ振る舞いをする訳にはいかなかった。

もどかしい気持ちのまま、しかし、相手を刺激しないために沈黙を貫いていると、男が激臭を吐き散らかしながら大声で笑う。

「ちょうど酌をしてくれる相手を探していたんだ!付き合ってくれよ、嬢ちゃん。別の店で飲み直そう!」

(お、おいっ!?)

強引に腕を引っ張られ、門と逆方向へ向かっていく男に、信は狼狽えた。

宮廷へ向かう方にはまだ衛兵たちがうろついている。早く門を抜けて城下町を出たい信は両足に力を込めて踏ん張り、男の手を振り解こうとした。

しかし、意外と酔っ払いの力は強い。酒が入ると力が抜けてしまいそうなものだが、この男は元々それなりの力量を持っているのかもしれない。

傍から見れば、酔っ払いの男がどこぞの高貴な娘に絡んでいる図にしか見えないのだが、面倒事には関わりたくないのか、通行人たちは見て見ぬふりを決め込んでいる。

後宮から脱走した下女を探している衛兵たちもこんな時に限って傍にいない。だが、声を上げて助けを求めれば、信の正体に気付く者がいるかもしれない。

李牧と離れたのは間違いだったかもしれない。宰相という立場があれば、それだけで虫除けになったに違いない。

(くっそ…!)

必死の抵抗を装って脛にでも蹴りを食らわせようかと信が考えた時だった。

「嬢ちゃん、俺はなあ、秦の六大将軍の王騎が討たれる瞬間をこの目で見た男なんだぞ!」

男の言葉を聞いた信の中で、一瞬、確かに時間が止まった。

抵抗していた信がその言葉を聞いて、力を抜いたので、男は得意気に言葉を続ける。

「王騎は俺たちに囲まれて身動きが取れなくなってからも抵抗を続けてたんだ!とっとと首を差し出せば良かったのによお」

どうやら、この男は馬陽の戦いで王騎軍と戦ったことがあるらしい。

天下の大将軍と名高い王騎の姿を見ただけで、自慢げに語る者は敵にも味方にも多い。それほど父の存在はこの中華では偉大なものだった。

「本当なら魏加じゃなくて、俺の弓で討ち取るはずだったんだがなあ」

腰元に剣を携えていないのは、彼が弓の使い手だったからだ。

誇らしげにあの戦のことを語る男の様子を見る限り、どうやら天下の大将軍を追い詰めたことを武勇伝のように思っているのだろう。

信の中で、男の言葉以外の雑踏が消えていく。目の奥から燃えるような熱さを感じ、信は体が小刻みに震え始めたのを他人事のように感じていた。

馬陽の戦いで行われた龐煖と王騎の一騎打ち。弓の名手である魏加という副将が、その一騎打ちに横槍を入れたのだ。

普段の王騎だったなら背後からの射撃など容易く回避していただろう。しかし、強敵である龐煖との戦いに集中していたせいで、遅れを取った。

背中に射撃を受けた僅かな隙を龐煖は見逃さなかったのだ。

「―――」

槍で貫かれる父の姿が瞼の裏に浮かび上がり、信は思わず息を詰まらせる。

信もあの戦場に、そして王騎のすぐ傍にいた。あの時、魏加が王騎の背中に弓を向けていたことに気付くことが出来たのならという後悔は今でも止まない。

「………」

瞬きもせずに体を震わせ、何の感情も持たない虚ろな瞳を浮かべている信を見て、男が不思議そうに小首を傾げている。

もしも信が背中に剣を携えていたのなら、迷うことなく男の首を撥ねていただろう。

他の誰でもない、天下の大将軍を、秦の六大将軍の一人を、最愛の父を侮辱されて、このまま黙っていられるはずがなかった。

虚ろだった信の瞳に、憤怒の色が宿る。

「おい!何するんだ!」

―――気付けば信は男から酒瓶を奪い取っていた。

頑丈なそれを、彼女は迷うことなく、男の頭部に向かって振り上げたのだった。

 

悔恨と謝罪

小気味いい音がするのと同時に、周囲からたくさんの悲鳴が聞こえた。

「え…?」

しかし、信の視界に映っていたのは、倒れ込む男の姿ではなく、額から血を流してこちらをじっと見据えている李牧だったのだ。

酒瓶が割れて、中に入っている酒を浴びたのだろう、頭も着物も酒でずぶ濡れになっている。

どうして李牧がここにいるのだろう。信は冷たい水を頭から被せられたように呆然としていた。

(な、…んで…)

驚きのあまり、信は言葉を失ってしまう。李牧が男を庇ったのだと理解するまでには時間がかかった。

額から流れる血を手で拭いながら、李牧は何も言わずに信に背を向ける。

「大丈夫ですか?」

か弱い女に殴られると思ったのか、驚いて腰を抜かしている男に、李牧は膝をついて声を掛けた。

突然現れた宰相の存在に、周りの者たちは固唾を飲んでいる。

「ああ、さ、宰相様!」

宰相に声を掛けられたことでようやく我に返った男は、驚きのあまり、酔いが一瞬で冷め切ったようだった。

李牧の後ろにいる信を指さしながら、男が喚き散らす。

「そ、そこの女が、秦の王騎の話で逆上したのです!どこの娘かは知りませんが、厳しい罰をお与え下さい!」

敵将である王騎を庇ったかのような行動を理由に、男が信を責め立てる。

騒ぎによって注目の的になってしまった信は、拳を握りながら俯いていた。

(もう、どうでもいい)

王騎を侮辱した男が許せなかった。

父が討たれたのは李牧の軍略が原因なのだが、龐煖と対峙している最中に、趙兵が弓矢を放たねば父が負けるはずはなかったのだ。

あの場で魏加が弓矢で王騎を討たんとしたのは、趙兵たちの言葉を聞く限り、どうやら彼の独断による行動だったらしい。

あの時、矢を受けなければ、天下の大将軍である父は龐煖に負けなかった。

悔やんでも悔やみ切れない想いが、信の心にはわだかまりとなっており、未だに負の色の根を張っていた。

こうなればいっそ、この場で自分は王騎の娘だと正体を告げてやろうかと信が考えた時だった。

「…すみません、彼女は私の妻でして」

ゆっくりと立ち上がった李牧の言葉の口から、妻という単語が出て来たことに、信と男だけではなく、周りにいる者たちがざわめき始める。

こんな時に何を言っているのだと、信は驚きのあまり声を出せなかった。

偽装工作は既にしたはずだが、妻を名乗れとは言われていない。恐らく、注目を集めてしまったせいで、李牧が信の正体を隠し通すために嘘を吐いたのだろう。

しかし、こちらを凝視している者たちが「体の弱い許嫁だ」と噂しているのが聞こえ、李牧は一体いつからそんな偽装工作を仕組んでいたのだろうと考える。

宰相である李牧に、病弱な許嫁がいるというのは趙では有名な噂・・・・・・・であったため、信だけが知らないだけなのだが。

「さ、ささ、宰相様の、妻…!?」

自分を殴りつけようとした無礼な女が李牧の妻だと知った男が大口を開けている。

少しも冗談を言っているとは思えない神妙な顔で、李牧は頷いた。

「妻は滅多なことでは怒りませんし、当然、相手に手を出すことはありません。それは私が保証します。だというのに、王騎将軍の話で逆上したということですが…彼女に一体何を伝えたのですか?」

「い、いえ、その…」

険しい表情で李牧が詰問すると男は言葉を濁らせた。

先ほどまでは酔いで顔を真っ赤にしていたはずの男が、今は血の気を引かせて真っ青な顔になっている。

下手したら自分が処罰を言い渡されるのではないかと恐れているのだろう。

何も語り出そうとしない男に、李牧はわざとらしく溜息を吐いた。

「…私は卑怯で姑息な策を使い、何とか王騎将軍を討つことが出来ました。しかし、逆に言えば、そのような策を使わなければ・・・・・・・・・・・・・、彼を討つことは出来なかったということです」

信は李牧の背中を見据えながら、黙ってその言葉を聞いていた。

彼女だけではない。真っ青になっている男も、こちらを注目している多くの民が李牧の言葉に耳を傾けていた。

軍略に長けていると誰からも評価されているはずの李牧自ら、用いた策を卑怯で姑息だと言ったことに驚いている者もいる。

真っ向からぶつかれば、趙軍は王騎に敵わなかったのだと、李牧は公言した。

一騎打ちに横槍を入れたのは魏加の独断によるものだったが、どちらにせよ李牧の策によって王騎軍が苦戦を強いられたことは事実である。李牧の策さえなければ、あの父が討たれることは決してなかった。

しかし、李牧は王騎を討ち取った自分の軍略を鼻にかけることはせず、むしろ自らを蔑むように語っていた。

秦趙同盟を結ぶ際も、呂不韋に似たようなことを話していたことを信は思い出しす。

「―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ」

信の心に、李牧のその言葉は不思議と染み渡っていった。

父を討つ軍略を企てた憎い男だとしか思っていなかったはずなのに、なぜか今だけは、李牧が一人の軍師として信の瞳に映っていたのだった。

一切の感情を感じさせない低い声で、李牧が言葉を続ける。

「たとえ、秦国の将であろうとも、天下の大将軍である彼が、今でも偉大な存在として中華全土に名を轟かせているのは変えられない事実です。その意味を、決して忘れぬよう」

氷のような冷たさを秘める李牧の瞳に見据えられ、男がその場に膝をつく。申し訳ありませんと泣きそうな声を上げながら、地面に額を擦り付けるほど頭を下げた。

「…分かっていただけたのなら良かったです。妻には日頃からそのように言い聞かせていたので、話を聞いて逆上してしまったのでしょう。どうか、妻の無礼を許して下さい」

信は謝罪する気など微塵もなかったのだが、李牧が代わりに頭を下げた。

「とんでもございません!宰相様、それに奥様、誠に申し訳ございませんでした…!」

少しも顔を上げないまま、男は李牧と信に対して何度も謝罪をする。

先ほどまで憤怒の感情に呑まれていた信だったが、今では落ち着きを取り戻していた。

思わぬ注目を集めてしまったが、民たちは李牧と彼の言葉に意識を向けていたに違いない。

敵将の武功を認めるどころか讃える発言をした宰相に、反抗するような目つきを向ける者は一人もいなかった。

むしろ、誰もが温かい眼差しを向けており、宰相である李牧を慕っている者がこれほど多いのかと信は驚かされる。

「さ、行きましょうか」

何事もなかったかのように振り返った李牧は、穏やかな瞳と、優しい笑みを信へ向けた。

冷静になった頭で、信は李牧の頭を殴ってしまったことに、ばつが悪そうな表情を浮かべている。

「あっ…!」

彼の額からまだ血が流れていることに気付き、信が慌てる。男を殴るつもりだったとはいえ、思い切り酒瓶で殴ってしまい、額の皮膚が切れてしまったのだ。

「見た目ほど傷は深くないですから、心配は要りません。こう見えて石頭なんです」

そんなことを言われても出血しているのは事実だ。信は不安そうな表情を浮かべながら、何か出血を押さえるものを探す。

だが、彼女を安心させるように、李牧は血を流しながら笑みを深めていた。傍から見れば、血を流しながら笑う怪しい男でしかない。

早くここを去りたかったが、自分が怪我をさせてしまった手前、信はどこかで手当てを受けさせなくてはと考える。

「…おや、何だか眩暈がしますね」

「李牧ッ!」

ふらついた李牧の体を信が慌てて抱き止める。

出血の量はさほどひどくないように見えたが、頭部からの出血ということもあって決して油断は出来ない。一切の加減をせずに殴りつけたため、何かあってもおかしくはないと信は不安になった。

「ああ、すみません…少し休めば、すぐに良く…」

途中で言葉が途切れた後、どうやら意識を失ってしまったらしく、李牧の体が脱力する。信は奥歯を噛み締めて踏ん張った。身長差も体格差もあるせいで、信一人だけでは完全に支え切れない。

(くそ…!宮廷に戻るしか…!)

王族が住まう宮廷になら常駐の医師がいるだろう。宰相の立場ならば、すぐに診てくれるに違いない。

宰相が意識を失ったことに、周りにいる民たちはざわめいている。

こうなれば李牧の妻を演じ切り、誰かの手を借りるしかないと信が意を決した時だった。

「…こちらでしたか」

背後から凛とした声が響き、信は李牧の体を支えながら振り返った。

 

宰相の将

そこにいたのは、李牧が従えている趙将の一人、慶舎だった。

(なんでこいつが…)

李牧の体を抱えながら、信は顔を強張らせる。

秦趙同盟が結ばれたあの日、慶舎は秦国へ来ていなかったこともあり、信の素顔を知らないはずだ。

信自身もそれを分かってはいるのだが、まるで人形のように表情を変えない慶舎に、全てを見透かされているような気持ちになってしまう。

こちらが動揺していることに気付いているのかすら、信には分からなかった。

「………」

信に支えられながら、ぐったりと動かない李牧を見て、慶舎が近づいて来る。

正面から李牧のことを支えている信を退かせると、慶舎は彼の右脇に手を差し込んで、体を支えた。

「…李牧様の指示で馬車の用意をしてあります。こちらへ」

慶舎と目が合うと、礼儀正しい言葉で声を掛けられ、信は目を丸めた。彼の態度から考える限り、恐らく信の正体には気付いていなさそうだ。

李牧が馬車を用意するよう指示を出していたようで、信は戸惑いながらも慶舎の言う通りに従う。怪我をさせた手前、このまま李牧に謝罪もせず趙を去ることはしたくなかった。

「ど、どこに…?」

傷の手当てを最優先にしたかったのだが、馬車で宮廷に戻るのだろうか。信が疑問を口にすると、慶舎は「李牧様のお屋敷です」と表情を変えないで答えた。

「医者の手配もすぐに行いますので、ご心配なさらず」

信の心を読んだかのように、慶舎が告げる。信は頷いて、慶舎とは反対の李牧の左側に立って、彼の体を支えた。

慶舎も将軍ではあるが、李牧の体格には及ばない。二人で運んだ方が早いと信は李牧の体を支える腕に力を込める。

少し進んだ先に慶舎が言っていたように馬車が停まっており、彼の力を借りながら、信は李牧の体を馬車の中へ運んだのだった。

馬車で移動している最中も、李牧は一度も目を覚まさなかった。

 

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