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七つ目の不運(李牧×信)前編

キングダム 七つ目の不運 李牧 信 牧信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

六つの不運

その日、信に起きた不運といえば、その数は六つ・・にも上る。

一つは、いつも背に携えている秦王から授かりし剣を置いて宴に出てしまったこと。

そして、酒の酔いから醒められず、外で深い眠りに落ちてしまったこと。

その後、広野で大の字で眠っているところを、通りがかった奴隷商人に目をつけられてしまったこと。

泥酔して眠り続けたせいで、奴隷商人の馬車が引く檻の中に乗せられていたことに気づけなかったこと。

それらの不運が重なり、信が目を覚ました時には、敵国である趙に連れて来られていた。

信にとって最大の不運は、秦の大将軍である自分が、趙の後宮に下女として売り飛ばされたことだった。

これこそが、六大将軍である彼女が経験した、六つの不運である。

 

趙の後宮

趙の悼襄王が美少年たちを侍らせる男色家なのは信も知っていた。

秦趙同盟を結ぶ前、呂不韋が悼襄王の寵愛を受けている春平君という美少年を捕らえ、趙の宰相である李牧が秦に赴いたことは、そう遠い記憶ではない。

信が放り込まれた後宮には多くの美女の姿が多くあったが、悼襄王がこの後宮に訪れることは滅多にないという。

遷と嘉という公子がいると聞いていたが、妃たちも悼襄王の趣味は理解しているのだろう、特に不満を抱いているような様子は見られなかった。

互いに子孫を残さねばならない義務はもう果たしたつもりなのだろうか。

王のために喜んで体を差し出す美女が大勢いるとしても、寵愛を受けられるのは美少年たちばかり。

(いや、そんなことはどうでもいい)

信が今考えるべきは、この後宮からの、趙国の脱出である。

秦の大将軍である彼女の名は、今や中華全土に轟いている。

信は母の摎と同じように、仮面で顔を隠して戦に出陣していた。

そのおかげで後宮の中を歩いていても、信が秦の大将軍であると気づく者は一人もいなかった。不幸中の幸いとはまさにこのことだ。

趙国で自分の素顔を知っている者といえば、宰相の李牧とその側近くらいである。

秦趙同盟の後に行われた宴の席で、信は仮面を外した。

趙の一行に宴を盛り上げるための妓女だと思われたのは未だに納得いかないが、背中に携えていた剣に見覚えがあったのだろう、李牧はいち早く信が飛信軍の女将軍だと気づいたのだ。

…今はまだ秦趙同盟の期間であるが、父である王騎を討つ軍略を企てた男がいる地に、長居する気などなれなかった。

不可抗力とはいえ、趙国の土を踏むことになるなんて思いもしなかった。

あくまで同盟は建前として結ばれたものだが、敵であることには変わりない。

秦の大将軍が邯鄲に潜んでいるとなれば、何を企んでいるんだと疑われるに違いない。もしかしたらこれをきっかけに秦趙同盟が解消されるかもしれない。

酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に誘拐されて、下女として安い金額で売られたなんて口が裂けても言えないし、誰もそんな話を信じようともしないだろう。

何としても、正体に気付かれずに脱出しなくてはならない。

(早く帰らねえと、みんな心配してるだろうな…)

後宮は基本的に王族と女性、それから宦官しか出入りが出来ない。

下女としてこの後宮に売り飛ばされてから、与えられた仕事をこなしながら宦官たちを見て来たが、腕っぷしが強そうな者はいなかった。

元は男であったとしても、信を取り押さえられそうな力を持つ宦官はいないようだが、下手に騒動を起こせば正体を気づかれるかもしれない。

まさか下女の正体が秦の大将軍などとは誰も思うまいが、念には念を入れなくてはと信は考えた。

万が一、正体に気付かれれば騒動になるのは避けられない。

信がここに連れて来られた経緯に、奴隷商人に売り飛ばされたなどと誰が信じるものか。

女の立場を利用して、趙の後宮に忍び込み、悼襄王を暗殺しようとしたなどと疑いを掛けられるだろう。

疑いを晴らすこともできず、秦趙同盟の解消の証として自分の首が秦国へ送られるかもしれないと思うと、信の背筋はたちまち凍り付いた。

(ここを出て、李牧と側近たちに会わなきゃ何となるだろ)

宰相である李牧と、彼の側近たちには顔を知られている。

彼らが後宮を出入りすることは絶対にないが、後宮は宮廷の中にあるため、後宮の外で遭遇する可能性も考えられる。

宰相という立場に就いているのだから、首府である韓皋に李牧が出入りしていてもおかしくはない。

(あー、とっとと抜け出さねえと…)

きっと秦国では今頃、自分の失踪事件で大騒ぎだろう。

宴で気分良く酒を飲み、仲間たちの忠告も聞かずにふらふらと外を歩いたことを信は今になって後悔した。

酒に強いと自負していた自分の失態である。戻ったら嬴政たちに何と言い訳をしようと考えながら、信は大量の着物を洗濯していた。

「信、これもお願い!」

「おう。そこに置いといてくれ」

顔見知りとなった下女が籠に、化粧と香でむせ返るような匂いが染みついた洗濯物を積み重ねていく。後宮内の女官たちの着物だった。

元々下僕出身である信はこういった下仕事には経験があり、まだ後宮に連れて来られて数日ではあるが、上手く下女たちに紛れることが出来ていた。

偽名を使おうかとも考えたが、別に珍しい名前でもなかったし、まさかこんなところに秦の六大将軍の一人がいるだなどと誰も思わないだろう。

信は名を変えずに、ただの身売りされた下女として仕事をこなしていた。

水桶の中で洗濯物をごしごしと擦りながら、信は辺りを見渡す。

同じように仕事をこなしている下女たちと、宦官が数人歩いているのを確認した信はさり気ない仕草で、籠の中に入っている着物の一つを自分の着物の中に隠したのだった。
隠したのは宦官の下袴である。

信は幼い頃から男勝りで、下袴を穿いて行動していた。

女性の着物だとお転婆が過ぎることもあり、見かねた摎が男物の下袴を穿かせたのをきっかけに、その習慣は今でも続いていた。

しかし、秦王・嬴政の前や、宴の席などではきちんと身なりを整えるよう、王騎からは口酸っぱく言われていた。

もしもあの宴の日に身なりを整えず、普段通り男物の格好をしていたら後宮に売り飛ばされることはなかったに違いない。

下女たちは仕事服として同じ着物を与えられる。着物と身なりで役職が定められているのは秦も趙も同じだった。

もしも今の格好のまま脱走して誰かに見つかれば、後宮の下女が逃げ出したとして騒ぎになるだろう。

敵国である以上、何としても決して目立つ訳はいかなかった。

秦の大将軍である自分が下女として後宮に売り飛ばされたなんて、とんだお笑い種である。死んでも死に切れない。

この失態は墓まで持っていこうと信は心に誓った。きっとあの世にいる父と母は、今頃呆れているに違いない。

 

悼襄王の勅令

(はー、終わった終わった)

水をきつく絞った洗濯物を籠に載せ、信は立ち上がる。

次は日当たりの良い場所に今度は洗った洗濯物を干す作業だが、着物の中に隠した下袴を落とす訳にもいかず、厠へ行くフリをして、信は洗濯場を離れた。

人目のつかないところまでやって来た信は、隠していた男物の下袴を取り出し、スカートの下から足を通す。

腰紐をきつく結んで、裾を膝の辺りまで上げておけば、外見は下女の着物のまま、何ら変わりない。

信は何事もなかったかのように洗濯場へと戻り、先ほど洗った着物を干す作業へと移った。

(よし。あとは機を見て後宮から脱出だな…!)

下女が堂々と後宮の入り口を通る訳にもいかないので、信は後宮を取り囲んでいる壁をよじ登って外に出ると決めていた。

下女の仕事をこなしながら、信は既に後宮から外に出られそうな場所に目星をつけていたのだ。

後宮を探索している時に、自分が二人立ったくらいの高さになっている壁を見つけたので、全員が寝静まった夜中にそこを飛び越えて後宮を脱出する手筈である。

あれくらいの高さならば勢いをつけて壁を蹴れば、手が届くだろう。

壁をよじ登った先で下女の着物を脱ぎ、あとはなるべく人目につかぬように韓皋の宮廷を脱出すれば、後はどうにでもなる。

皺を伸ばしながら着物を干していると、奥の方から人々のざわめきが聞こえた。

(ん?なんだ?)

ざわめきが聞こえる方を見ると、人だかりが出来ていることに気付き、信は小首を傾げる。

「大王様よ!早く頭を下げて!」

近くにいた女官に言われ、信は反射的にその場に膝をついた。

男色として知られている悼襄王が後宮に来るのは珍しい。後宮にいる二人の妃の顔を見に来たのだろうか。

その場にいる者たちが誰もが頭を下げ、信もそれに倣いつつ、悼襄王へちらりと目を向けた。

(やべ…!)

一瞬だけ目が合ってしまい、信は反射的に瞼を下ろす。

悼襄王たち一行の進行方向とは違う位置にいる自分の前に、複数の足音が近づいて来るのが分かった。目をつけられてしまったようだ。

(まずったな)

信は額に冷や汗を浮かべた。無礼だと処罰を言い渡されるかもしれない。

大王にとって下女の命など、その辺の石ころと何ら変わりない価値なのだ。

嬴政は低い身分の者であっても、絶対に命を軽んじることはないのだが、悼襄王がどんな人物か信はよく分かっていなかった。

顔に影が落ちて来て、目の前に悼襄王が立ったのが分かった。

「…そこの下女、顔を上げよ」

やはり無礼だと処罰が下されるに違いない。

もしも処罰を言い渡されたのなら、その騒ぎを利用して後宮から逃げ出そうと考えた。

打ち首はごめんだが、百叩きの刑くらいならば問題はない。その苦痛に耐え切れなかったとして、後宮から下女が一人脱走したとしても何ら怪しまれることはないはずだ。

信は諦めて目を開き、命じられるままに顔を上げた。

男にしては病的に白い肌は、建物からあまり出ていない証拠だろう。

病的な肌に見合った筋力のなさそうな細い体には上質な布で出来た着物と、陽の光が反射して目が痛くなるような宝石で彩られていた。

まるで狐のように細い瞳から発せられる、からみつくような視線に、信は鳥肌を立てる。

もしもこの場で首を斬られようものなら、従者である宦官の剣を奪い取って、混乱に乗じて逃げるしかないかと考えた。

「………」

発言の許可を得ていないので、信は黙って悼襄王を見つめていた。

顔を上げるように命じておきながら、悼襄王も信のことをじっと見つめるばかりで何も話そうとしない。

美貌も後ろ盾も持たぬ下女に大王自らが声を掛けるのは異例の出来事であり、辺りにいる下女たちも宦官も、物珍しい視線を送っている。

「そなた、今宵、私の部屋に来い。化粧はするなよ・・・・・・・

「……はっ?」

信はぽかんと口を開け、悼襄王へ聞き返していた。

しかし、彼は同じ言葉を告げることなく、宦官たちと行ってしまう。その場に残された信はただ茫然としていた。

大王たちの姿が遠ざかると、止まっていた時間が動き出したかのように賑わいが戻って来た。

(なんだ?趙の後宮の下女って、大王の部屋の掃除とかもすんのか?でも、なんで夜?)

悼襄王の命令の意味を理解出来ないでいる信に、後宮へ連れて来られた時から仕事を教えてくれた同僚の下女が駆け寄って来る。

「信、良かったわね!大出世・・・じゃない!後宮に来て、まだたった数日なのにすごいわ!」

「は?な、なんでだよ?」

悼襄王に呼び出されたことと大出世という言葉が結びつかず、信は顔をしかめた。

本当に何も分からないでいる信を見て、同僚の下女が呆れたように肩を竦める。

「今のは夜のお誘いよ!悼襄王様はたくさん稚児を侍らせていることで有名でしょう?だからあなたを気に入ったのね!」

「………」

だからという順接に、信は顔を引き攣らせる。

つまり、その目つきの悪さと化粧もしていない少年のような風貌が悼襄王のお気に召したのだと遠回しに言われ、信の思考はしばらく停止していた。

信は思い出した。後宮とは、大王の世継ぎを産むために作られた制度・・・・・・・・・・・・・・・・・・であることを。

 

後宮からの脱走

その後、後宮と外宮を出入りしている宦官から信は呼び出された。

(ふざけやがってッ!)

夜には悼襄王の寝室へ向かうため、隅々まで体を清めるようにと言われ、本当に伽の命令だったのだと信は絶望する。

秦の大将軍である自分が、趙の世継ぎを作るための道具にさせられるという訳だ。

陽が沈んだ頃に迎えに行くと言われ、何かの間違いだと信は宦官に縋りついたが、哀れみを込めた視線で首を横に振られると、まるで「諦めろ」と言われているようだった。

どこの国でも大王権力というのは絶対なのである。

「ねえ、どの子?」

「あの子だって!」

数日前に奴隷商人から身売りされて後宮にやって来た身寄りのない下女の大出世に、後宮にたちまち噂が広まった。

男色家で有名な悼襄王が見初めた下女が一体どんな女か気になった女官や下女たちが、わざわざ仕事を抜け出して、信の姿を見にやって来る。

「へえ、あの子なんだ…」

「確かに、大王様が好みそうね…」

しかし、誰もが信の顔を見て、彼女たちは納得したように仕事へ戻っていくのだった。

自信と美貌に満ちた女性だったのならば、とことん見る影もなくなるほど嫌がらせをしてやろうと考えていたに違いない。

しかし、化粧っ色もなく、生まれつきの目つきの悪さと、幼い頃から戦場に身を置いて来た傷だらけの身体を持つ女など、同じ土台に立つ価値もないと思われたようだ。嫉妬の対象にすらならないらしい。

(なら代わってくれよ…!俺は何としても目立つ訳にはいかねえんだからよッ!)

普段のように下袴を穿いて剣を振るっていれば当然、男だと間違われるし、信も彼女たちの好奇な視線には興味がなかった。

それに伽を命じられたことで、何としても今日中に後宮を脱出しなくてはならないと危機感を抱き、それどころではなかったのだ。

六大将軍の王騎と摎の養子であり、天下の大将軍の娘とその名を轟かせた信がどんな存在なのか気になっている者はこの中華全土に多くいる。

秦国でも、戦場でもそのような者たちから好奇な視線を向けられ続けていたことで、慣皮肉にも信は慣れていたのだ。

本当ならば陽が沈み、皆が寝静まった夜中に後宮を抜け出すつもりだったのだが、信はその計画を取り止めた。

このまま夜中まで時が過ぎれば、後宮の外ではなく、悼襄王と共に褥の中にいるかもしれないと思うと恐ろしさのあまり鳥肌が立つ。

こうなれば夜まで待つことはせず、人目を避けて後宮の外に脱出しようと信は誓った。

「な、なあ、仕事終わったんだけど、他に何かないか?届け物とかあるなら行ってやるよ」

洗濯の仕事を終えたのは事実だ。信は近くにいる同僚の下女たちに声を掛けた。

悼襄王の伽を命じられて、有頂天になっている様子は微塵もなく、謙虚に事をこなす信の姿に心を打たれた下女たちが穏やかな笑みを浮かべる。

「ありがとう。それじゃあ、これを診療所へ届けてくれる?」

丁寧に畳まれた洗濯物が入った籠を渡され、信はそれを両手でしっかりと受け取った。

「ああ、任せろ!」

診療所という言葉を聞いて、信の心に光が差し込んだ。脱出の目星をつけていた壁があるのは診療所に向かう道にあるからだ。

両手にこの洗濯物を持っていれば、何食わぬ顔で診療所へ向かっていても何ら怪しまれることはない。

仕事を教えてくれた同僚の下女たちに心の中で別れを告げ、信は洗濯物を抱えて走った。

(…よし)

診療所へと向かう道の途中で小道に入り、目星をつけていた壁の前に立つ。

訳も分からぬまま後宮に身売りされてしまったので、この壁の向こうがどうなっているのかは分からない。恐らく宮廷のどこかに繋がっているのだろう。

信は物陰に身を潜めながら、下女の裳を脱いだ。

ふんだんに布が使われている裳ではなく、宦官の下袴になると、途端に動きやすさを実感する。

「…よし」

丁度、休憩の時間ということもあり、下女や宦官たちの姿はない。

頼まれていた洗濯物を人目の付きそうな場所に置いてから、信は後宮からの脱走計画を実行する。

壁から十分に距離を空け、深く息を吸ってから全速力で駆け出した。

「たあッ!」

助走をつけて、信は壁の手前で地面を力強く蹴った。勢いを落とさずに今度は壁を蹴りつける。

屋根に手が触れた途端、絶対に放すまいと、信は腕に血管が浮き立つほど強く掴んだ。

「うっ…く…!」

腕力だけで自分の体を持ち上げ、屋根に足を掛けてよじ登る。

浮いていた足裏がしっかりと屋根につくと、信は後宮からの脱出が成功したのだと思わず歓声を上げそうになった。

「―――そこで何をしているのですか?」

「!?」

下から男に声を掛けられて、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

後宮で人目に触れなかったものの、後宮から一歩外に出れば宮廷である。下女や宦官以外の者たちが居たとしてもなんら不思議ではない。

逆光のせいで男の顔はよく見えなかったが、こちらを見上げているのは分かった。

騒ぎになっては信がまずいと、声を掛けた男を何とか黙らそう考える。

無関係の者に手を出すのは気が引けるが、自分の首が掛かっているのだから、仕方がない。

意識を失う程度に加減して急所を突こうと考え、信が屋根から降りようとした時だった。

「女ッ!そこで何をしている!

「やべッ!」

後宮の方から宦官の怒鳴り声を聞きつけ、まさか宮廷と後宮から同時に脱走が見つかることになるとは思わず、信は動揺した。

捕まったら終わりだ。

悼襄王の伽を強要されるのも、敵国で無様に首を晒すことになるのもどちらも嫌だった。何としてもこの場から逃げ出さなくては。

「うおぉッ!?」

動揺のあまり、せっかく登った屋根を踏み外してしまう。

降りようと思っていた宮廷の方に身体が大きく傾き、しまったと思った時には体が浮遊感に包まれていた。

激痛を覚悟して、信は反射的に目を瞑った。

趙の宰相

悲鳴を上げることもできず、信は屋根から落下していった。

覚悟していた激痛は少しもなく、代わりに力強い何かに包まれているような感覚がある。

「?」

ゆっくりと目を開けると、そこには信が今は一番会いたくない人物の顔があった。

「…少々お転婆が過ぎるのではないでしょうか。ここはあなたの母国ではないのですよ」

「―――」

驚愕のあまり、信は顔から血の気を引かせて、悲鳴と言葉を喉に詰まらせる。

趙の宰相、李牧。彼こそが今、信の体を抱きかかえている男の名前だった。

今日まで起きた不運の連続。七つ目の不運が何かと尋ねられたなら、信は間違いなく、李牧と出会ったことだと答えただろう。

「―――下女が脱走したぞ!」

「あの女は逃がしてはまずい!何としても連れ戻せ!」

壁の向こうにある後宮から、宦官たちの少し高い声とざわめきが聞こえる。

このままだと彼らがここまで駆けつけて来るかもしれない。信は焦燥感を覚え、李牧の腕の中で暴れた。

「お、下ろせッ!」

じたばたと手足を動かすと、李牧は苦笑を浮かべながら放してくれた。

しかし、すぐに逃げ出そうとした信の腕を力強く掴む。解放してくれる様子がないことに、信は冷や汗を浮かべた。

「受け止めたことに対するお礼がないのは構いませんが、こちらとしては色々と伺いたいものですね」

李牧があえて信の名前を口に出さないのは正体を見抜いているからであることと、周りにいる者たちに聞こえれば、混乱を招くことを理解してのことだろう。

後宮に務める下女と、後宮に出入り出来ない宰相が関係を持つはずがない。

そこから下女の正体を怪しみ、飛信軍の信だと気づく者が現れないとも限らないだろう。

とはいえ幸いにも、後宮から信が脱走するところを目的してたのは、宮廷で李牧だけだったようだ。

降りた先が、元々人通りの少ない裏道だったのは幸いだったのかもしれない。だが、信にとって李牧との遭遇はこれ以上ない不運であった。

「これは一体どういう状況でしょう?」

「ふ、不運が重なったんだよッ」

その言葉でしか言い表せない。

「………」

李牧が口元に手を当てながら何かを考えている。彼は思考を巡らせる時によく口元に手を運ぶ癖があった。信が言う不運とは何かを考えているのだろう。

しかし、少しも答えが分からなかったようで、彼は残念そうに肩を落とした。

「…どのような不運が重なったら趙の後宮に来れるんです?それに、下女だと聞こえましたが…まさか働いていたんですか?あなたが?」

ぐっ、と信が奥歯を噛み締める。

聡明な李牧であっても答えを導き出せないのは当然である。信だって目を覚ました時は何が何だか分からなかったのだから。

「うるせえなッ!お前に関係ねーだろ!」

父の仇とも等しいこの男に、一から十まで詳細は語りたくなかった。

騒ぎが大きくなる前にここから早く逃げなくてはと思うのだが、李牧は信の腕を放そうとしない。

「ここに後宮から逃げ出した下女がいますよー」

信の腕を掴んだまま、李牧は人通りの多い道に向かって大きな声を上げた。

「てめえッ、静かにしろ!!」

掴まれていない方の手で信は李牧の胸倉を掴んで凄んだ。少しも怯む気配を見せないどころか、李牧は再び人通りの多い道の方に顔を向けた。

「みなさーん、急いで兵たちを呼んでくださーい」

「わかった!わかったから黙れ!このバカッ!」

必死な形相で信がそう言うと、李牧はそれを待っていたと言わんばかりに人を呼ぶのをやめて、笑みを浮かべた。

秦趙同盟の時もそうだったが、この男の笑い方が信はどうしても好きになれなかった。

まるで全てを見越しているかのような恐ろしさがあり、全てを知っていることを告げずにこちらを躍らせているような、嫌な気分になる笑いだからだ。

「それで、どうしてあなたがここにいるのですか?

李牧に名前を呼ばれて、信はたじろいだ。

先ほどまでは名前を呼ばなかったくせに、まるで、ここにはお前の味方など一人もいないのだぞと知らしめているようだった。

「だ、だからっ、色々、不運が重なったんだよ…」

天下の大将軍の娘として中華全土に名を轟かせている信が、まさか奴隷商人によって後宮に身売りされたなど、李牧が信じるとは思えなかった。

李牧だけじゃない。この話を聞いた者たち全員がありえないと言うに決まっている。

それに、今日までの経緯は墓まで持っていくと誓った秘密であり、信はそう易々と打ち明ける訳にもいかなかったのだ。

「みなさーん、後宮から逃げ出した不届き者がここにいますよー」

「てめえ、からかってるだろ!」

自分の欲しい情報が手に入らないと分かるや否や、李牧は何の躊躇いもなく信を差し出そうとする。

腹立たしい男だが、趙では宰相として多くの兵や民から慕われている男だ。

その宰相の言葉を信じるに違いない。そもそも、敵国の女将軍の言葉に耳を貸す者などいるはずがないのだ。

このままでは本当に人が集まってしまうと思い、信は意を決して、李牧にこれまでの経緯を語り始めた。

いっそ全てが夢だったら良かったのにと、趙に連れて来られてから何回も考えていたことを願うのだった。

協力者

敵国で首を晒されるよりも辱めを受けた気分になった信は、顔を真っ赤にしながら、李牧の笑い声に耐えていた。

李牧自身も笑いの最中、「すみません」と少しも申し訳なさそうに思っていない謝罪を挟んでいる。抑えようとしても笑いが溢れて止まらないらしい。

ここが趙国でなければ信は両手で彼の首を締め上げていたに違いない。

笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、李牧はようやく笑いが落ち着いたようだった。

「…連れてくなら、さっさとしろよ」

笑われただけでなく、このまま衛兵たちに身柄を差し出されるのだろうと信は覚悟したようだった。

真っ赤な顔をして俯きながら体を震わせている信を見て、李牧は同情するように目を細める。

「事情が事情ですから、そんなことはしませんよ」

「は?」

兵たちに身柄を渡すことはしないと言った李牧に、信はぽかんと口を開けて聞き返した。

「見たところ、武器は持っていませんし、将軍であるあなたが情報欲しさに潜入なんてするとは思えません。…それに、あなたに限って、大王を暗殺なんて卑怯な真似はしないでしょう?もしそうなら、喜んで伽を引き受けたに違いありません」

穏やかな眼差しを向けられ、信はまさか今の話を信じるのだろうかと疑った。

自分の口から告げたのは確かに事実だが、信じるかどうかは聞いた側の判断に委ねられる。

天下の大将軍の娘が奴隷商人に捕まって下女として身売りされるなんて誰も信じないだろうと思っていたので、信は純粋に驚いた。

「奴隷商人を管理できていなかったこちらにも責任はあります。その詫びと言ってはなんですが、趙国を出る手伝いをさせてください」

何はともあれ、一番警戒していた宰相の李牧を味方にすることが出来たらしい。

一時的なものとはいえ、趙から脱出するにはこれ以上ない戦力だ。信はほっと安堵した。

「…しかし、あなたは宦官たちに顔を見られていますから、このまま宮廷と城下町を歩くのは危険ですね」

壁の向こうにある後宮では随分な騒ぎになっているようだが、広い宮廷に報告がいくまで随分と時間が掛かっているのだろう。兵たちが宮廷を走り回っている様子はまだなかった。

冷静に考えれば、宦官が衛兵たちに下女の脱走を知らせるために宮廷へ走るのも、知らせを受けた兵たちが情報を頼りにここまで駆けつけるまでにはそれなりに時間が掛かる。

きっと李牧が先ほど、大声で衛兵に呼び寄せていたのは、それを見越してのことだったに違いない。

衛兵たちがすぐに信を追って来ないことを知った上で、信の動揺を煽り、彼女の口から情報を聞き出したのだ。

この策士の手の平で踊らされていたことに信はむかむかと腹を立てたが、今となってはもうどうしようもないことだ。

「抜け道とかねえのかよ」

信が辺りを見渡す。李牧は笑いながら首を横に振った。

「そんなものがあったとしても教えませんよ。攻め込まれたらどうするんですか」

「………」

趙からの脱出を手伝う意志を見せ、信が卑怯な真似をしないとは分かっているくせに、やはり宮廷の構造を敵に知られるのはまずいと思っているらしい。

そもそも抜け道の有無さえも言わない辺り、本当にこの男は口が堅く、そして交渉に長けている。

認めたくはないが、父が討たれたのも納得出来る頭脳の持ち主だ。

「それでは、兵たちの目を欺くために、まずは偽装工作をしましょう」

「偽装工作?」

ええ、と李牧が頷いた。

「あなたが悼襄王の伽を命じられたのなら、兵は何としてでもあなたを捕まえに、宮廷の外まで探しに来るでしょう」

だから兵たちに気付かれないようにその姿を隠すのだと李牧は言った。しかし、信は納得が出来ず、小首を傾げる。

「そんなこと言われたって…どこに隠れてりゃ良いんだよ。近くにお前の屋敷でもあんのか?」

「何も隠れるというのは身を潜めておくだけではありませんよ。さ、急ぎましょう。そろそろ報せを受けた衛兵たちが人数を集めてやって来ますよ」

李牧が歩き出したので、信は慌てて彼の背中を追い掛けた。

途端に、彼が眉間に皺を寄せて足を止めたので、何かあったのだろうかと信は目を見張る。

「どうした?」

問い掛けると、李牧はその場に屈んで右足首の辺りを擦っていた。

「…いえ、先ほど貴女を受け止めた時に、少し足を捻ってしまったようです」

軽々と受け止めてくれたように感じていたが、信は落ちた時に強く目を瞑っていたので、李牧が苦痛に顔を歪めていたのか分からなかった。

「えっ…だ、大丈夫か?」

その瞳に不安の色を宿し、信が声を掛ける。立場は敵同士であるとはいえ、自分を受け止めて怪我をしたとすれば、自分に非がある。

李牧は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「そこまで酷いものではありませんが…そうですねえ、もしかしたら、時々手を借りるかもしれません」

「あ、ああ。分かった」

それくらいなら、と信は何の疑いもなく頷いた。

「では、行きましょう」

李牧の先導によって、信は後宮脱出の後、宮廷の脱出に成功するのだった。

偽装工作

宮廷を出る時には門番を務める衛兵たちがいるのだが、宰相である李牧の姿を見ると、すぐに通してくれた。

後ろを歩いている信は下袴を穿いており、少年のような風貌から、李牧の側近か見習いの軍師であると誤解したようで、特に詰問されることはなかった。

「ふあー…やっと外の空気が吸えたぜ」

多くの民で賑わっている城下町を歩きながら、信が長い息を吐く。ぐーっと両腕を伸ばし、いかにも解放されたという顔つきだった。

まるで牢獄から出て来た囚人のような言葉を聞き、李牧は唇に苦笑を浮かべた。

「後宮だってそう狭い場所ではないでしょう。私は入ったことはありませんが…」

「どれだけ広くたって壁で仕切られてるんだぜ?牢獄と同じ・・・・・だろ」

彼女の言葉を聞き、確かにそうだと李牧は納得したように頷く。

後宮に住まう女性たちを、籠の中の鳥だと比喩していたのは後宮に住まう女性たち自身であったが、それとも彼女たちを傍で見る宦官の言葉だっただろうか。

後宮の美女たちは王のために用意された存在だ。

だというのに、悼襄王といえば彼女たちには見向きもせずに美少年たちを侍らせている。

まさか信の風貌を見初めて伽を命じることになるとは思わなかったが、そうなると悼襄王の趣味はますますよく分からないものであった。

戦のために多くの知識を得て来た李牧だが、唯一分からないことと言えば、自分が従える悼襄王の趣味くらいだ。

歩いていると、目的の店が見えて来た。

「ああ、見えて来ました。まずはあそこに寄りましょう」

「ん?」

呉服店であることに気付いた信が目を丸めている。

彼女としてはもう宦官の下袴を穿いていることで変装したつもりになっているらしいが、顔も知られていることから、それだけでは当然気づかれてしまう。

だからこその偽装工作であった。

久しぶりに顔を出した呉服店の年老いた女主人は、宰相である李牧の来店に大層喜んでいた。

先ほどから歩いている時にも李牧に「宰相様」と喜んで声を掛ける民や、李牧を見て笑顔を浮かべる民が多くいた。

よほどこの国では慕われているのだなと思いながら、信は複雑な気持ちを胸に浮かべる。

父の仇だと憎んでいるこの男も、この国では英雄扱いをされているのだ。李牧だって趙国を守るために軍略を使って王騎を討ったに過ぎない。

守るべきものが違えば、守るべきもののために戦は避けられない。それぞれの国に住まう民たちや生活があるとしてもだ。

「すみません。今日はお願いがあって参りました」

人の良さそうな笑みを浮かべながら、李牧が信の肩に手を回す。

「彼女に、似合う着物を見立てて欲しいのです。これから私の家臣たちにも挨拶をさせるので、なるべく良いものを見立てて下さるとありがたいのですが…」

「えっ」

信は驚いて李牧を振り返った。家臣たちに挨拶という言葉が気になったのだが、恐らくそれは李牧の嘘だろう。

(なるほどな…)

逃げた下女に服を与え、匿ったとなれば店の主も処罰を受けることになるかもしれない。
上手い言い訳を考えたものだと信はいっそ感心してしまった。

年老いた女主人は信のことをじろじろと見つめ、少ししてから、李牧が言ったように「彼女」…つまり信が女であると察したようだった。

「なるほどねえ」

女主人が顔に深く刻まれている皺をより深くして、にやりと笑った。

その恐ろしい笑みに信は嫌な予感がして、つい後退る。

しかし、李牧の骨ばった大きな手が信の背中を押さえたので、逃亡はそこで終わってしまう。

「それでは、後ほど迎えに来ますので。よろしくお願いします」

「えッ!?お、おい!?」

急に一人にされることが分かって不安になった信は李牧を呼び止める。

しかし、彼は笑顔で手を振ると、呉服屋を後にしたのだった。

 

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