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恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)後編

桓信 恋は毒ほど効かぬ4
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

中編②はちら

 

取引

「だ…誰か!誰かおらんのか!」

罗鸿ラコウは桓騎の言葉を信じようとせず、母屋の方に向かって声を掛けた。

すぐに桓騎の亡骸を処理できるよう、家臣たちには近くで待機しておくように指示を出していたというのに、まるで誰も居ないかのように屋敷は静まり返っている。

護衛も連れずに桓騎が信と二人きりでやって来たことに、罗鸿は事を進めやすいと気を良くしていたのだが、それもきっと桓騎がこちらを油断させるための策だったに違いない。

自分が二人をもてなしている間に、母屋の方ではまさか桓騎の仲間たちが侵入していたというのか。

「…そういやお前、俺たちが来る前に井戸の水を飲んだな?」

まるで罗鸿の行動を全て知っているかのような口調で、桓騎が問いかける。

確かに喉の渇きをいやすために水を飲んだ。しかし、それは人間なら誰でも行うことで、別に訝しむことではない。

桓騎の話術に呑まれてなるものかと、罗鸿は両足に力を入れる。

一杯だけなら・・・・・・、そうだな…せいぜい残りは一刻ってところか?」

桓騎の言葉が何を意味しているのか分からず、罗鸿は眉根を寄せる。

知将と名高い彼の前で動揺を見せてはいけないと分かっているのだが、桓騎という存在を前にすると、言いようのない不安に襲われてしまう。

「依頼の品を用意してくれた礼に、遅延性の毒にしておいてやったんだよ」

井戸に毒を投げておいたのだと打ち明けた桓騎に、罗鸿は全身の血液が逆流するようなおぞましい感覚を覚えた。

喉元に手をやり、乱れる呼吸を整えようとするのだが、冷や汗が止まらない。

家臣たちが来ないのも、その毒にやられたからだと直感で察した。

桓騎と信がこの屋敷に来る前に、井戸に毒を投げ込まれていただなんて、誰が予見出来ただろうか。

 

本来ならば信を別室で眠らせている間に桓騎を毒殺し、家臣たちがその亡骸を処理するという計画であったのに、誰一人として様子を見に来る気配もない。

母屋で待機している家臣たち全員が井戸の毒水を飲んで絶命している姿が浮かび、罗鸿は青ざめることしか出来なかった。

飲んで即効性のあるものであったなら、屋敷内は大きな騒ぎになっていたはずだ。毒を飲まなかった者が医者を呼びに走ったり、異変に気付いて毒の出所を探ったに違いない。

しかし、桓騎が言ったように遅延性の毒ならば、全身を蝕まれてから毒を飲まされたことに気づくことになる。しかし、それでは手遅れだ。

これ・・と同じ毒酒を使った。効果はお前も十分知ってんだろ?」

桓騎が薄く笑みを浮かべながら、罗鸿の動揺を煽るように言葉を紡いでいく。

「…そりゃあ当然か。この毒酒をお前に売ったのは・・・・・・・・俺だからな・・・・・

「…な…なに…?」

冷や汗が止まらず、慌てて記憶の糸を手繰り寄せる。
動揺することしか出来ない罗鸿に、桓騎は思い出し笑いを噛み堪えながら話を続けた。

「神経毒っては、少しずつ体を蝕んでく。…そろそろ呼吸に支障が出始める頃だな」

聞き覚えのある説明に、罗鸿は固唾を飲み込んだ。

蛇毒の酒を手に入れる時、闇商人としての繋がりがある者から情報を仕入れ、毒酒の製造を行っている男と引き合わせてもらった。

その毒酒を製造した男は顔のほとんどを隠していたのだが、罗鸿は不審がることはなかった。保身のために、顔を知られないようにしている仲間は多い。

毒酒の売買さえ終われば、もうこの男とも会うことはないだろうと思っていたし、罗鸿は深く追求しなかった。

しかし、それは間違いだったのだ。
桓騎は初めから、こちらの策に気づいており、その上でこちらを好きに動かしていた。

毒酒を売買するところから桓騎の策通りだったのだとすれば、一体いつから自分は彼の手の平で踊らされていたのだろうか。

「あ…」

唇を戦慄かせて、なんとか呼吸を繰り返す罗鸿は自分の喉元に手をやった。

毒を飲まされたことを桓騎に指摘されてから、呼吸の苦しさは自覚していた。間違いない。これはきっと毒の症状だ。

どれだけ息を吸っても楽にならず、罗鸿は死が近づいて来ているのだと認めざるを得なかった。

桓騎の楽しそうな表情からは殺意というものをまるで感じられなかったのだが、残酷なまでの愉悦が浮かんでいる。

きっと自分が毒でもがき苦しむ姿をせせら笑うつもりでいるのだ。

全ては信に手を出した自分の愚かさが招いたことだと、罗鸿は今になって後悔した。

「ど、どうか、どうかお許しください!」

自分が膝を折ることで、桓騎をさらに楽しませることになると分かりつつ、罗鸿はその場に再び手と膝をついて、地面に額を擦りつけつ勢いで頭を下げた。

この中華度全土で、桓騎軍の残虐性を知らない者はいない。女や子供、老人に至るまで容赦なく死に至らしめる桓騎が、謝罪一つで許してくれるとは当然思えなかった。

今から医者のもとへ駆け込む方法もあったが、解毒剤の調合には時間がかかる。

飲まされた毒の種類によっては解毒剤の種類は異なるし、解毒の方法が解明されていないものだってある。

こうしている間にも、無情にも毒は体内を侵食していく。

何とか命だけは助けてほしいと訴えると、桓騎が長い足を組み直して何かを考える素振りを見せた。

「…なら、また取引でもするか?交渉はお前の得意分野だろ」

微かに希望を感じさせる言葉に、罗鸿は縋る思いで何度も頷いた。

 

 

桓騎は懐から小瓶を取り出し、それを見せつけるように、罗鸿の眼前に翳す。中には薄い桃色の液体が入っていた。

「解毒剤だ。俺はよく毒を飲む機会があってな、常にこれを持ち歩いてる」

毒を飲む機会があるというのは物騒なものだが、多くの者たちから恨みを買っている桓騎のことだから、食事や飲み物に毒を盛られることがあるのだろう。

解毒剤を持ち歩いていると知り、ここで罗鸿はようやく桓騎が死ななかった理由を納得したのだった。

小瓶の中身が解毒剤だと知るや否や、罗鸿は助かったと言わんばかりにその小瓶に手を伸ばす。

「まだ取引の途中だろ?」

罗鸿の手が小瓶を掴む前に、桓騎は彼の手から小瓶を遠ざける。

「俺はこれをお前に譲る。…その代わり、お前は俺に何をしてくれる?」

「う、うう…」

もしもこれまで築いて来た地位も財産も失うとしても、命には代えられない。

これまで闇商人として生きて来た罗鸿だが、命を狙われる危険がなかったわけではない。しかし、高い金を払って護衛を雇ったり、事前に手を打つことでその危険を幾つも回避して来たのだ。

だからこそ、罗鸿は怠慢していた。

相手が秦の大将軍だとしても、これまで上手く生き抜いて来た自分の悪運を過信し過ぎていたのである。

しかし、桓騎という強敵を前に、罗鸿は自分の悪運がとうに尽きていたとようやく思い知った。

「しょ、将軍が、ご所望のものを、何でも、何でもご用意いたします!信将軍にも、金輪際近づかないとお約束します!」

解毒剤を手に入れるために、罗鸿は必死に訴えた。
自分の命の灯が消え去ろうとしている今の状況で自分に出来ることといえば、無様に許しを乞うことだけである。

「何でも、お望みのものを必ずご用意しますッ、どうか、どうか」

「…交渉成立だな」

満足そうな桓騎の言葉を聞き、取引が成立したのだと察した罗鸿の双眸に希望が灯る。

解毒剤を手に入れて、命さえ助かればこちらのものだ。

今回のところは仕切り直すとして、再び桓騎が所望したものを提供する際に、再度暗殺計画を試みよう。

表面だけの態度だとしても、完璧な服従を装えば、ほとんどの相手は騙される。
いくら桓騎であっても、此度の交渉を通して罗鸿のことを多少は支配下に置けたと誤解するはず。

命の危機に晒されているというのに、未だ信との婚姻も、その先にある高い地位の確立も諦めずにいる罗鸿は心の中でほくそ笑んだ。

 

交渉成立

「…ほらよ。お望みの品だ」

桓騎は跪いている罗鸿ラコウの前に、再び解毒剤が入った小瓶を突き付けた。

すぐさま掴み取ろうとする罗鸿だが、先ほどと同じように、桓騎は小瓶を遠ざける。

「おっと、手が滑っちまった」

それだけでなく、桓騎は手首の捻りを利かせて、小瓶を遠くへと投げつけたのだった。誰が見聞きしてもわざとだと分かる白々しい態度である。

四阿しあ ※東屋のことを取り囲んでいる池に、小瓶が小気味良い音を立てて落ちてしまい、驚いた鯉たちが水飛沫を上げて跳ねた。

「ああ、そんなッ!」

命綱でもある解毒剤を手に入れようと、罗鸿はまるで犬のように追い掛ける。上質な着物が濡れることも構わず、池に飛び込んで、手探りで小瓶を探し始めた。

「おいおい、早く見つけねえと毒がどんどん回っちまうぞ」

投げ捨てたのは自分だというのに、桓騎は手伝う素振りを見せず、空になっていた杯に残っている毒酒を注ぎながら大らかに笑っていた。

「うう、くそっ、くそっ…!」

息苦しさが増して来る中、罗鸿は必死に池底にある小瓶を探す。

夜のせいで辺りは暗く、小瓶らしきものは水面からは全然見つからない。
池の深さは膝くらいまでだが、罗鸿は四つん這いになって、顔を池に時々沈めながら必死に小瓶を探した。

解毒剤を飲んで命を繋ぎ止めたのならば、いつか必ず桓騎に報復してやると罗鸿は心に誓う。

「あっ…!?」

何かが指先に触れ、藁にも縋る気持ちでそれを手繰り寄せる。水面から上げると、それは桓騎が投げ捨てた解毒剤の小瓶だった。

しっかりと蓋がされていたので、中の薬は無事だったらしい。

「よか、良かった…!」

安堵のあまり手が震えてしまうが、罗鸿は何とか蓋を取り外すと、一気に中身を飲み干した。

 

舌の上に広がる仄かな甘みに、思わず眉根を寄せてしまう。この味には覚えがあった。

「…ん?ああ、そりゃあ解毒剤じゃなくて、お前からもらったお近づきの証・・・・・・だな」

頭上から影と声が降って来て、罗鸿は声の主を見上げる。

桓騎は四阿で腕を組みながら罗鸿を見下ろしており、口元には楽しそうな笑みを繕っていたものの、その双眸は決して笑っていなかった。

獲物を狩る獣のような、貪欲と殺意に満ちたその鋭い瞳に見据えられると、それだけで体が動かなくなってしまう。

「悪いが、もっと良い代物・・・・・・・を知っている。要らねえからそれは返すぜ」

飲んだのが解毒剤ではなく、初めて会った時に桓騎に渡した強力な媚薬であったことを知り、罗鸿の心は絶望の真っ只中に落とされた。息苦しさが増していく。

まるで笛を吹いているような音を立てて、か細い呼吸を繰り返す罗鸿を、桓騎はただ見下ろしていた。

この男は、最初から自分を助けるつもりなどなかったのだ。

刃のように研ぎ澄まされた瞳を見て、それを直感した罗鸿はいよいよ死が迫っていることを自覚した。

 

桓騎の策~仕上げ~

昏々と眠り続けている信の身体を、まるで荷のように桓騎は肩に抱えた。

乱暴に抱きかかえたというのに、信は未だに寝息を立てており、目を覚ます気配がない。よほど強力な催眠作用のある香を嗅がされたのだろう。

百歩、いや、千歩譲って罗鸿の策通りに事が進んだとしたら、もしかしたら今頃は、意識のないまま信はあの男に身体を暴かれていたかもしれない。

石橋を歩いていると、池の中で金色の鱗を持つ鯉たちが気ままに泳いでいる姿が見えた。
あとであの鯉たちも質屋に出してしまおうと考えながら、桓騎は母屋と向かう。

「終わったか」

母屋の廊下を渡り、一番奥にある広間の扉を開けると、豪勢な屋敷には不釣り合いな格好をした仲間たちがこちらを見る。

「おう、お頭。遅かったな」

「屋敷にいたのはこれで全員か・・・・・・?」

その問いに、屋敷の制圧を任せていた雷土が頷いた。
信の着付けも行っていた侍女たちも含め、家臣たちは全員この場に集められていた。後ろ手に拘束され、轡を噛まされている。

元野盗である気性の荒い仲間たちに拘束された家臣たちは、全員が身の危険を察して青ざめた顔のまま震えていた。

予定通り、桓騎と信が屋敷に招かれてから、仲間たちは早々に屋敷の制圧をこなしてくれたようだ。

「へへ、かなり良い代物ばっかりだったぜ」

拘束されている家臣たちと少し離れた場所に、家財道具や金品がごっそりと並べられていた。

摩論が自慢の髭を指でいじりながら、回収した財宝を眺め、その価値を吟味している。にやけを隠し切れていないことから、相当な値打ちであることはすぐに分かった。

 

 

罗鸿が自分たちをもてなしている間、側近たちは桓騎の指示通りに行動を起こしていた。

もちろんこの計画は、罗鸿の誘いを受けてから企てたものではない。
信から罗鸿に悩まされていると打ち明けられたあの日から、桓騎は既に仲間たちの手を借りて下準備を進めていたのである。

手始めに、日頃から付き合いのある情報屋に罗鸿の正体を探らせた。

彼の正体は、表向きは宮廷御用達を目指している豪商。しかし、裏の世界ではそれなりに名が知れ渡っている闇商人であった。

金になることなら何でもするという罗鸿の信条には共感出来るものがあったが、人の所有物を奪おうと企んだことには、何としても制裁を与えなくてはならない。

そこで桓騎は、罗鸿から奪えるものを根こそぎ奪ってしまおうと、元野盗の性分を発揮してしまったのである。

彼の屋敷の構造から侵入経路まで完璧に把握し、仲間たちと共に今日という日に備えていた。

信と桓騎の関係を知って焦った罗鸿が、手っ取り早く桓騎を殺せる道具を探し始めることも想定内であったし、祝いにかこつけて酒に細工をすると考えるのは難しいことではなかった。

それを利用して、桓騎は素性を隠しながら、罗鸿に蛇毒の酒を高額で売りつけたのである。

罗鸿にとって、桓騎の暗殺は気づかれる訳にはいなかった。信との婚姻が破談になるどころか、大将軍の殺害を企てたとして死罪に直結することになるからだ。

そのため、信が見ている手前、罗鸿が直接手を出すことはしないと桓騎は睨んでいた。

だからこそ、毒殺の現場とその後の死体の処理を信に見られないよう、彼女を眠らせるか、何かと理由を付けて別室に隔離されるかのどちらかだとは思っていたが、まさかこうも予想通りに動いてくれるとは思わなかった。

 

 

もしも罗鸿が潔く信のことを諦めてくれたのならば、闇商人であることを延尉ていい ※刑罰・司法を管轄する官名に告げないでおくつもりだった。

もちろんタダではなく、口止め料と引き換えにだが、罗鸿も自分の地位を守るために納得のいく額を用意してくれるに違いないと睨んでいた。

信の話を聞いた時から、桓騎にとって罗鸿は良い金づる・・・・・だったのである。

しかし、残念なことに罗鸿は信のことを諦めなかった。だからこそ桓騎は、人の女を奪おうとした罗鸿へ制裁も兼ねて、根こそぎ奪うことを決めたのである。

罗鸿の策通り、信が眠らされてしまったのも、桓騎にとっては都合が良かった。

彼女は桓騎軍の素行の悪さを個性として受け入れているものの、他者のものを奪うことを良しとしない。

大将軍として他国の領土や大勢の命を奪っているくせに何を言うのだと笑うと、逆上されてしまったことがあった。

…思えば、摩論が茉莉花まつりか ※ジャスミンの一種の茶を淹れてくれたのはあの時だったかもしれない。

もしも信と毒耐性という共通点がなければ、きっと性格の不一致から今のような関係を築くことはなかっただろう。

今も寝息を立てている信の姿を横目で見やり、出会いとはよく分からないものだと苦笑してしまう。

「お頭。用が済んだんなら、とっととずらかろうぜ」

雷土に声を掛けられて桓騎は頷いた。
しかし、お宝を持ち帰る前にまだやらなくてはならないことがある。

未だ拘束されている家臣たちの前に立った桓騎は、にやりと笑みを浮かべた。

 

目覚め

…目を覚ますと、見慣れた部屋の天井が視界に入り込み、信はしばらく寝台の上から動けずにいた。

窓から差し込む温かい光に、すでに昼を迎えていることに気づく。

「はっ?な、なんで…?」

罗鸿の屋敷でもてなされていたはずだったのに、どうして桓騎の屋敷にいるのだろうか。

記憶の糸が途中で途切れており、その後のことを一切覚えていないのだ。
酒に酔った記憶もなかったのだが、こんな風に記憶が途切れているのはあまりにも不自然だ。

確か母屋の一室で侍女たちに嫁衣の着付けをしてもらい、化粧が終わってから桓騎と罗鸿がいる四阿へ戻ったはずだった。

未だに赤い嫁衣を身に纏っていることから、罗鸿の屋敷から帰って来たのだと分かったが、四阿に戻ってからの記憶が一切ないのは何故なのだろうか。

いつの間にか桓騎の屋敷に帰って来ていたことから、確実に桓騎が何かを知っているに違いない。
信は桓騎から事情を聞こうと、寝台から起き上がり、床に足をつけて立ち上がった。

「あっ、え…!?」

立ち上がるのに腹に力を入れた途端、脚の間から粘り気のある何かが伝っていく嫌な感触に瞠目する。

さらには、下腹部に違和感があった。何度も覚えがあるそれは、身体を重ねた翌朝に感じる甘い疼きで、まさかと思い、嫁衣の中に手を忍ばせて恐る恐る確認する。

「~~~ッ…!」

寝起きだというのに顔が燃え盛るように熱くなる。

一級品の嫁衣が見事なまでに皺だらけになっていたことも合わさって、記憶はないのだが、昨夜に桓騎と身を交えたことを信は嫌でも察したのだった。

「か、桓騎ぃーッ!!」

堪らず信は悲鳴とも怒鳴り声とも取れる大声を上げた。屋敷中にその声が響き渡る。

記憶がなくなっている間、彼は自分に何をしたのだろう。以前、王翦の前で辱めを受けた記憶が蘇り、まさか罗鸿の前でも同じことをしたのではないかと恐ろしくなった。

 

「うるせえな。やっと起きたか」

声を聞きつけたのだろう、呆れ顔の桓騎が部屋に入って来るなり、信は一級品の嫁衣がさらに乱れるのも構わずに大股で近づいた。

「お、お前、俺が寝てる間に、な、な、何しやがった!」

両腕を伸ばして桓騎の胸倉を掴んだ信は、嫁衣と同じくらい真っ赤な顔のままで昨夜のことを問い詰めた。

物凄い剣幕で迫る信に、桓騎は少しも動揺することなく、肩を竦めるようにして笑う。

「言っとくが、誘って来たのはお前の方だぞ?」

「嘘吐け!じゃ、じゃあ、なんで記憶がないんだよッ!?」

「ああ、昨夜は毒酒も飲んでねえな。俺の技量が良過ぎて、トんじまったんじゃねえのか」

澄まし顔でさらりと言って退ける桓騎に、信は悔しそうに奥歯を噛み締める。恥ずかしげもなくそんな言葉を口に出せるところもそうだが、顔も良いところが余計に腹立たしかった。

この男に口で勝てるはずがないし、そういえば一度も勝てたことがない。それは嫌というほど分かっていた。

「そ、そういや、罗鸿ラコウはどうしたんだよ」

思い出したように信が罗鸿の名を口に出すと、桓騎がとぼけるように小首を傾げた。

「ああ、お前はもてなされてる最中に寝ちまったからな」

不自然に記憶がないこともそうだが、全てを知っているような口ぶりで話す桓騎に嫌な予感を覚えて、信は不安そうに眉根を寄せた。

「お前…何したんだよ?」

まるでこちらが何か事を起こしたを前提として問いかける信に、桓騎は苦笑を深める。

「とりあえず湯浴みして来い。総司令からお前宛てに呼び出しがあったぞ」

信の問いには答えず、桓騎は寝ぐせの目立つ頭を優しく撫でてやった。

上手くはぐらかされたことに信は納得がいかないと顔を曇らせたが、総司令である昌平君からの伝令を無視することは出来なかったらしい。

「…ん?なんで昌平君が俺がここにいるって知ってんだ?」

「お前が俺の屋敷に入り浸ってるって知ってるからだろ」

罗鸿の件があって、信は十日ほど桓騎の屋敷に滞在をしていた。それ以外でも桓騎の屋敷には頻繁に訪れているのだが、まさか昌平君にそれを知られているとは思わなかった。

昨夜のことがどうしても気になったが、軍の総司令からの呼び出しとなれば何か重要な話があるのではと思い、信は湯浴みと支度を済ませてから、すぐに宮廷へと出立した。

 

 

宮廷に到着するなり、信は待機していた兵に、昌平君が執務を行っている部屋へと案内された。

「おい、昌平君。用って何だよ…ん?」

「来たか、信」

部屋に入ると、そこにいたのは昌平君だけではなかった。

二人の男は信を見るなり、礼儀正しく供手礼を行う。
しっかりとした身なりを見れば、それなりに地位のある者たちだと分かる。しかし、見慣れない顔であることから昌平君の配下でも宮廷の高官でもなさそうだった。

「えっと…?」

昌平君の話によると、二人は咸陽の官署に務めている延尉ていい  ※刑罰・司法を管轄する官名と捕吏だという。

地方行政に携わっている役人たちが、国の行政を取り纏めている右丞相である昌平君と話をしているのは何ら不思議なことではない。

しかし、三人がまるで自分のことを待っていたような態度に、信は此度の呼び出しと何か関係があるような気がしてならなかった。

てっきり軍事の指示だろうと思っていたのだが、別件らしい。

「咸陽で名を広めていた闇商人を捕縛したそうだな。その時の状況について詳しく尋ねたいそうだ」

読む気も失せてしまうような、文字がびっしりと綴られている木簡に目を通しながら昌平君が本題を切り出した。

「は?闇商人…?」

信が頭に疑問符を浮かべていると、延尉と捕吏が顔の前で手を合わせながら信に深々と頭を下げた。

「ずっと足取りを追っていたのですが、なかなか捕らえるに至らず…信将軍には感謝しております」

感謝の言葉を贈られるも、信は小首を傾げることしか出来ない。

「お、おい、何か勘違いしてねえか?俺は闇商人なんか捕らえた覚えは…そもそも、何の話だよ」

身に覚えがないのだと言えば、延尉と捕吏だけでなく、普段は冷静沈着である昌平君も珍しく目を丸めていた。

闇商人の罗鸿・・・・・・だ。お前に縁談を申し入れていただろう」

「は…?罗鸿が闇商人だとッ!?」

まさに今初めて知ったという反応に、三人が瞠目する。

昌平君は延尉と顔を見合わせると、手に持っていた書簡を信に差し出した。

反射的に受け取った書簡を見やると、それは帳簿のようで商売の取引や資金の動きに関する内容が記されていた。

金勘定に疎い信であっても、そこに記されている膨大な資金を見ればただの商売ではないことが分かる。

「…な、なんだ、これ…?」

「それが罗鸿が闇商人であることを示す動かぬ証だ」

狼狽している信に、昌平君が普段通り冷静な口調で答えると、捕吏が丁寧に説明を足してくれた。

「罗鸿がこれまで過去に行っていた裏商売です。この帳簿と一緒に、捕縛された罗鸿が官署の前に置かれていた・・・・・・のです」

少しも状況が理解出来ず、信はぽかんと口を開けている。その様子を見て、昌平君は何かを察したように頷いた。

「…罗鸿の正体を突き止めるのに、婚約者を名乗っていた訳ではないようだな」

咸陽で信と罗鸿の婚姻の噂が広まっていた時、宮廷にもその噂が舞い込み、昌平君はそれが本当なのかを信本人に確認したことがあった。

もちろんそんなはずがないと全面否定していたし、そして今もなお驚いている信の反応を見て、昌平君は彼女がこの事件を解決したのではないことを理解する。

それどころか、信に事件を気づかせぬよう、念入りに裏で手を回していた人物がいるのだと気づき、そして昌平君はそれが誰であるかをすぐに察したのだった。

「ではもう一度、調査の報告を頼む」

右丞相の命令により、延尉と捕吏は再び闇商人罗鸿に関しての調査報告を始めるのだった。

 

桓騎の策~裏工作~

宮廷へ行ったはずの信が血相を変えて屋敷に戻って来ることは、桓騎の想定内であった。

昨夜のことで少々寝不足気味だった桓騎は欠伸を堪えながら、彼女を出迎える。

「か、桓騎ッ!お前、昌平君たちから全部聞いたぞッ!」

右丞相と軍の総司令を担う男の名前を再び聞き、これから面倒なお説教が始まりそうだと肩を竦める。

昌平君たちと複数形で語ったことから、恐らく延尉と捕吏からも話を聞いたのだろう。

罗鸿ラコウが闇商人だって、お前、最初から知ってたのか!?」

胸倉を掴む勢いで詰め寄って来た信に、ここでと知らないフリをしても彼女の怒りを煽るだけかと考える。

「…お前が眠っている間、偶然・・あいつの商売帳簿を見つけたんでな。調べてみりゃ、とんでもねえ利子や賄賂が絡んでるって分かったんだよ」

何か言いたげな顔で信が唇を戦慄かせている。きっと知りたいことが山ほどあり過ぎて、何から聞き出すべきか悩んでいるのだろう。

「あ、あいつを官署の前に置いてたのもお前の仕業か…!?」

「さあ?よく覚えてねえな」

当然ながら、眠らされていた信は昨夜のことを一切覚えていない。だからこそ何とでも言い訳を思いついた。

…本当はあの男の亡骸をバラして家畜の餌にでもすれば、証拠隠滅が図れると思っていたのだが、信との婚姻騒ぎもあって、名前と存在を広めている商人が急に失踪したとなれば大勢が怪しむだろう。

突然の失踪によって、信に何かしらの疑惑が掛けられることは目に見えていたし、それは桓騎としても気分が良いものではない。

もしそうなっても、罗鸿が闇商人であることを後付けで広めてしまえば、失踪した理由など勝手に納得されると思っていた。

しかし、今回は信が絡んでいることもあって、桓騎は死人を出さず・・・・・・、なるべく穏やかに解決することを最優先としたのだった。

結果としては穏便に解決してやったのだから、むしろ感謝してほしいものだ。

しかし、全てを打ち明ければ、それはそれで信が騒ぎ出すのは目に見えていたので、桓騎は都合の良い部分だけを答えることにしたのである。

 

上手い具合にとぼけようとしている桓騎に、信の目つきが鋭くなる。

「…側近たちも動かしたんだろ」

「ん?」

桓騎が信頼している側近たちも今回の件に協力していたことは事実だ。

眠らされていた信がそこまで予見するとは思えなかったが、もしかしたら桓騎が関わっていたと知った昌平君が何かしら予見を伝えたのかもしれない。

「罗鸿の身柄を取り押さえてから、あいつの屋敷を調査した捕吏が、屋敷はもぬけの殻だった・・・・・・・・って言ってたぞ。お前らが全部持ってったんだろ」

信が勘付いた理由は単純なもので、屋敷にあった金目の物が全てなくなっていたことから側近たちが協力したのだと気づいたらしい。

官署の前に縄でぐるぐる巻きにされていた罗鸿(拘束されているというのになぜか悶々としていたらしい)と、彼の傍に置かれていた帳簿から、闇商人の疑いで身柄を確保した延尉と捕吏は、すぐに罗鸿の屋敷の調査を行った。

しかし、調査のために屋敷に乗り込んだ途端、役人たちは驚愕した。

あの豪勢な屋敷に相応しい家具や調度品だけではなく、初めからそうであったかのように家臣や使用人たちも一人残らず消え去っていたのだという。

その話を聞いた桓騎は椅子に腰を下ろすと、頬杖をついて目を細めた。

「昨夜は美味い酒でもてなされたからな。酔ってて覚えてねえよ」

しかし、信の疑惑はますます深まるばかりだった。

「…都合よく忘れたフリしても無駄だぞ。じゃあ、なんで今日はオギコたちがいねえんだよ」

いつも付き従っているはずのオギコや他の側近たちが揃いも揃って屋敷を空けていることに、信はいち早く気づいたらしい。

「屋敷から持ち出した物を質に出してんじゃねえのか?秦国中にある質屋を回れば証言が取れるはずだ」

「ちっ…」

時々鋭い感が働くのは少々厄介だ。これ以上隠し通すのは無理かもしれない。

信の機嫌を損ねても面倒なことにしかならないので、桓騎は小さく溜息を吐いてから素直に打ち明けることにした。

 

 

「…罗鸿から財産を一式譲り受けた・・・・・だけだ。家臣たちにも十分な取り分を渡してやったし、奪ったワケじゃねえ」

奪ったのではなく、譲り受けたと主張するものの、信は当然ながら納得出来ないでいるようだ。桓騎のことだから、穏便に譲り受けたとはどうにも考えづらい。

しかし、主が役人に捕らえられてしまい、働き口を失った家臣たちや使用人にも十分な取り分を与えたことに信は驚いた。

てっきりお宝を独り占めしているとばかり思っていたので、桓騎が家臣たちのその後の生活を気遣うとは思いもしなかったのである。

しかし、そのお宝を譲ってもらうために、罗鸿に何をしたのだろうか。

「桓騎、お前…まさか罗鸿を脅したんじゃねえだろうな?」

脅したという言葉が気に食わなかったらしく、桓騎が片眉を持ち上げる。

「人聞きが悪いな?命だけは助けてくれって懇願して来たのは向こうの方だぞ」

「やっぱり脅したんじゃねえかッ!」

残念ながら予想が当たってしまい、信はやるせない気持ちに襲われた。

 

桓騎への貸し

桓騎と信が罗鸿の屋敷に招かれた直後から、作戦通り、雷土を筆頭に屋敷の制圧が始まった。

まずは家臣たちを取り押さえること、その次に闇商人である証拠となるものの確保、あとは金目になりそうなものの徴収。

優秀な仲間たちはこの三つの目的を、罗鸿が桓騎と信をもてなしている間に早々に行ってくれていたのである。

桓騎が毒酒を飲んだ後、その死体を片付ける役目を担っていた家臣たちが一人も現れないことから、罗鸿は家臣たちが全員、桓騎が話していたように、井戸の毒によってやられてしまったのだと信じ込んでいた。

もちろん家臣たちの亡骸を見たわけではなく、単なる桓騎の言葉のあや・・・・・だったのだが、追い詰められた罗鸿は家臣たちが全滅させられたのだと疑わなかった。

人間は精神的に余裕がなくなれば、言葉の術に陥りやすくなる。
言葉巧みに相手を陥れるそれは、桓騎がもっとも得意とするところであった。

井戸に毒を流したというのも虚言でしかないのだが、味方を失ったと思い込んだ罗鸿は、その虚言にまんまと陥れられた。
毒を飲んだと信じ込み、勝手に一人で苦しがる姿は滑稽だった。

結局のところ、一人として犠牲は出ておらず、罗鸿は桓騎に返された強力な媚薬を飲み干して一人で悶々と苦しんだというワケだ。

それからもう一つ・・・・、今回の騒動を幕引きするために行っていたことがあったのだが、それは言うに及ばないだろう。

「…で?礼は?」

「へ?」

話を切り替えるために、桓騎は今回の貸しをどう返却するのかと切り出した。

「今回の件は一つ貸しっつったろ。俺とお前の仲に免じて、百でいいぜ?」

「百ぅっ!?なんで一の貸しが百にまで膨れ上がってんだよ!?」

「金勘定には疎いくせに、計算できるんだな」

感心しながら返すと、信は狼狽えながらも今回の貸しをチャラにする方法を考えている素振りを見せた。

「まあ、金で払うなら、別に…」

大将軍という立場である信は、十分過ぎる給金も戦での褒美も得ており、大金を用意することなど容易いことだ。

桓騎軍と違って、飛信軍は派手に金を使うことはない。
そこらの娘なら目を輝かせそうな着物や装飾品にさえ信は興味を持たないので、貯め込む一方なのだろう。

それにしても、今回協力した目的が金のためだと思われているのかと桓騎は苦笑した。

「まさか、お前…俺が金目当てに動いたと思ってんのか?」

心外だと、わざとらしく肩を竦める。

「は?じゃあ、なんだよ」

何だか既視感のあるやり取りだと考えながら、桓騎は苦笑を深めた。

「返すどころか、さらに貸しの上乗せをしてやろうか」

「はあ?」

何を言っているのだと信が聞き返す。

戸惑いながらも視線を逸らすことなく、桓騎を見つめ返している円らな黒曜の瞳は、これまで手に入れたどのような宝石よりも美しい。

小さく咳払いをしてから、桓騎は目の前の女をじっと見据えた。

 

 

「…これから先、面倒な男に絡まれない方法・・・・・・・・・・・・を教えてやるって言ってるんだよ」

僅かな緊張が声に滲んでしまったことに、ダセェなと内心狼狽しながらも、桓騎は腕を組んで信の返事を待った。

「………」

何度も瞬きを繰り返している彼女が、返事を迷っているというより、こちらの言葉の意味を少しも理解出来ていないことを桓騎は直感的に悟った。

「…すでにお前が面倒な男だけどな?」

斜め上の返答に、桓騎は思わず噴き出してしまう。自分との付き合いが長くなって来たせいか、随分と面白い返しをするようになって来たものだ。

もちろん桓騎を笑わせるためではなく、素で答えているというところが憎めない。

「言うようになったじゃねえか。…で、どうする?知りたいか?」

少し俯いてから、信は悩ましげに眉根を寄せて桓騎を上目遣いで見上げた。

もしも信が知りたいと答えたのなら、次に言う言葉は、ずっと前から決まっていた。

「それ聞いたら、また貸しか?勘弁してくれ」

「………」

しかし、こちらの意図を少しも理解していない上に断られてしまい、桓騎の口角が思わず引きつる。
やはりこの鈍い女にはもう少し噛み砕くか、直球で伝えるべきだったらしい。

「ん?なんだよ?」

表情に出すことはないが、哀愁が漂っていたのか、信が小さく小首を傾げている。本当に何も理解していないようだ。鈍感女めと心の中で毒づく。

「…つーか、今回は俺が助けたんだから、それでチャラだろ!」

今度は桓騎が小首を傾げる番だった。

「助けた?何の話だ」

聞き返すと、信の顔がみるみるうちに赤くなっていく。過去に幾度となく見たことのある反応だ。

「そ、その、…毒酒のせいで、お前が苦しいって言うから…」

何とか言葉を紡いでいくものの、羞恥によってその声は掻き消されていた。
しかし、桓騎の口角は自然とつり上がってしまう。

目覚めた時には何も覚えていないと言っていたが、どうやら昨夜、屋敷に帰って来てからのことを思い出したようだ。

真っ赤にした顔を上げられなくなってしまった信は、再び昨夜のことを思い返しているのだろう。

昨夜は普段以上に毒を摂取し過ぎたせいで、随分と久しぶりなことに、桓騎の方が毒の副作用――まるで媚薬を飲まされた時のように性欲の増強と感度が上昇する――を起こしてしまったのだ。

信よりも桓騎の方が毒の許容量は多い体質なのだが、罗鸿に売りつけた蛇の毒酒はかなり強いものだった。

それに加え、屋敷に帰ってから毒酒を飲み直したことが良くなかったらしい。

…とはいえ、副作用で苦しむ自分を懸命に慰めてくれた信の淫らな姿はしっかりと目に焼き付いている。

一級品の嫁衣を身に纏い、ひたすらに自分の名前を呼んで身を委ねる信との淫らで甘い時間は、まるで婚儀の後の初夜を想像させた。

きっと毒の副作用を起こさなければ、あそこまで信が自分を介抱してくれることはなかっただろう。

いつだって自分たちが身を寄せ合う時には、必ず傍に毒酒がある。

二人で毒酒を飲み交わすのは、桓騎が信に恋心を抱くよりも前から続けていた習慣でもあって、今となっては随分と厄介な存在だ。

恋心を打ち明けようと葛藤するより、毒酒を飲んだ方が、いつだって素直な想いを打ち明けられる。

しかし、いつまでもそれを言い訳に本心を隠しておくことはしたくなかった。

今回の件で、信がいかに戦場以外ではいかに弱い存在であるかを思い知らされた。それは桓騎の信に対する独占欲をさらに大きく掻き立てることになったと言っても過言ではない。

「…桓騎?」

「仕方ねえから、昨夜のことでチャラにしてやる」

渋々と言った様子で貸し借りを相殺すると、信は安堵したように笑った。

 

…その後、信は咸陽を歩く度に、罗鸿との婚姻を祝福していた民たちから、今度は別の言葉を掛けられるようになっていた。

罗鸿の闇商人としての悪事が公になったことから、民たちはいずれは自分も被害に遭っていたかもしれないと恐怖を抱いた。

しかし、それを未然に防いだのは民を救うために、信が婚約者のフリをして彼に近づき、結果として闇商人である証拠を見つけ出し、罗鸿を捕らえたおかげである。

民への被害を未然に防ぐことが出来たのは信将軍の活躍があってこそ。
罗鸿が捕らえられてから、これまでの婚姻話を塗り替えるように、すぐさまその噂は咸陽に広まっていった。

不自然なほど・・・・・・急に広まったその噂は、信の活躍を讃えるものであったが、桓騎軍の存在を感じさせるものは何一つとして含まれていなかった。

信は民たちから感謝の言葉を掛けられる度に、脳裏に恋人の姿が浮かび、複雑な想いを隠し切れず、ぎこちない笑顔を浮かべていたという。

そして時々、罗鸿から譲ってもらったあの一級品の嫁衣を着るよう強要して来る恋人に、付き合い切れないと信はとことん呆れてしまったのだが、…それはまた別のお話。

 

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