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恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)前編

桓信 恋は毒ほど効かぬ1
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

 

信の縁談

「…なあ、桓騎」

屋敷で酒を飲み交わしていると、信は酔いで顔を仄かに赤らめながら、桓騎を見つめて来る。

それが情事の誘いではないことは、悩ましく眉を寄せた表情からすぐに察した。

「しばらく、泊まっても良いか?」

機嫌を伺うように、上目遣いでそう問われて断る男はいないだろう。好きなだけ泊まっていけばいいと返す前に、桓騎は理由が気になった。

「珍しいな。なんかあったか」

前触れもなくふらりと桓騎の屋敷にやって来た信と酒を飲み交わし、一夜を共に過ごすことは珍しくはないのだが、彼女は翌日になるとすぐに帰ってしまう。

いつも飛信軍の鍛錬の指揮を欠かさず行い、信自身も副官の羌瘣と手合わせをしたり、日々腕を磨いているのだ。

面倒見の良い彼女が自身の鍛錬や、軍の指揮を怠るとは想像出来ず、桓騎は理由を尋ねた。

「…罗鸿ラコウって商人を知ってるか?咸陽じゃ有名なやつらしいんだけどよ」

「いや、知らねえな」

聞き覚えのない名に、桓騎は首を振った。

下賤の出でありながら、褒美に一切興味を示さない彼女の口から商人の話が出るとは珍しい。
その男と屋敷に滞在したがっている理由がどう繋がっているのかと、桓騎は耳を傾けた。

「実は…そいつから、ずっと縁談を申し込まれてるんだけどよ…」

空になった杯に鴆酒ちんしゅのお代わりを注ぎながら、信が眉根を寄せていた。

ほう、と桓騎が興味深そうに片眉を持ち上げた。

信に縁談の話が届くというのは珍しいことではなかった。
大将軍である彼女の夫となり、その立場を利用して伸し上がろうと計画する男など山ほどいる。少しでも彼女に近づくために、飛信軍に入ろうと体力試練に挑む男も後を絶たないくらいだ。

縁談を申し込んでいる男たちもそれなりに秦国で名を広めている地位の者たちばかりで、そして信も、かなりの数の縁談を断っているというのも噂で聞いていた。

きっと信が大将軍という立場に留まっているだけなら、そこまで縁談の数も多くはなかったに違いない。

しかし、信は秦王である嬴政の親友という、唯一無二の立場に立っている。
今の地位に満足せず、伸し上がりたい男たちからしてみれば、秦王と繋がりのある信は良い踏み台なのだ。

縁談を申し込んで来た男たちと一人ずつ会っていたら時間がいくらあっても足りないと、溜息混じり話していたことはまだ記憶に新しい。

異性から好意を寄せられていることに対する自慢ではない。
信自身も縁談を申し込む彼らが自分の地位を狙っているのだという自覚があるからこそ、相手が誰かと聞く前から縁談をひっきりなしに断っているのだという。

嬴政が信を親友として大いに信頼を寄せているのは、彼女のそういった態度も含めてのことだろう。

彼女が大将軍の座に就き続ける限り、そして嬴政が王として即位し続けている間はきっと縁談の話が絶えることはないだろう。

しかし、信が顔も名も知らぬ男たちに靡くような女でないと確信していたこともあって、桓騎は過去に彼女の縁談話を聞いても不安を覚えることは一度もなかった。

 

「…で、その商人が何だっつーんだよ?」

鴆酒を口に運びながら、桓騎が話の続きを促した。

いつもは縁談を申し込まれてもさっさと断るくせに、珍しく信が縁談を申し込んで来た男の話を掘り下げたことに、桓騎は何があったのか気になった。

屋敷に帰りたくないと彼女が言ったのは、これが初めてのことである。
しかし、前向きに縁談を受け入れるか悩んでいるというワケではなさそうだ。彼女の表情を見て、その商人に惚れていることは絶対にないと断言出来た。

だとすれば、よほどその罗鸿ラコウとか言う商人に、決して無視できない事情・・・・・・・・・を抱えていると見て良いだろう。

「……あー、えーと…」

言葉を選ぶかのように信が俯いて表情を隠したので、桓騎は僅かに眉根を寄せた。何か普段とは違うことが起きているのだと、ある程度の予想は出来た。

「厄介事に首を突っ込んだか」

杯を口元に運びながら冗談交じりにそう言うと、信が大袈裟なまでに肩を竦めたので、桓騎は呆れ顔になってしまう。

お人好しの彼女が人助けをすることは珍しくないし、恋愛感情を抱くようになる男がいるのも珍しい話ではなかった。

しかし、信がこれほどまでに困り果てているということは相当厄介な問題を抱えているのかもしれない。

色々と訊き出したい気持ちを押さえるために、鴆酒を流し込んだものの、毒の程良い痺れが喉を襲うばかりで、一切味を感じなかった。

…まさか信は、その縁談話を受け入れざるを得ない状況に陥っているのではないだろうか。

「…まさか、本気でその商人の野郎と婚姻を結ぶつもりかよ」

こんなにも良い男が目の前にいるというのに、信は意外と男を見る目がないようだ。

怯えさせぬように穏やかな声色で問うものの、不自然に頬が引き攣ってしまう。付き合いの長い側近たちにこんな顔を見られたら大いに笑われるだろう。

知将として中華全土にその名を広めている冷静沈着な桓騎であっても、信のことになると途端に感情が露わになってしまうのは、やはり惚れた弱みなのだろうか。

「いや、そんなワケないだろ!」

すぐに否定されたので、表情には出さず安堵したものの、信の顔色は優れない。

「ただ、その…少し、…本当に少しだけ、面倒なことになってるだけだ」

「面倒なこと?」

聞き返すと、信が重い口を開いた。

「…そいつが、俺と結婚するって噂を勝手に民たちに流してるみたいで…」

「ああ?」

これには桓騎も思わずドスの利いた声を返した。少し・・という緩衝用語を使っていても、十分過ぎるほど面倒な事態になっていることは安易に予想がついた。

どうやら信も迷惑しているのだろう、重い溜息を吐き出した。

「お前は断ったんだろ?なんでそんな噂を広めてんだ?そいつだって、下手したら虚言を理由に首が飛ぶだろ」

「…一度、屋敷に泊めたせいで、それを言いふらしてるんだよ。それが何でだか結婚の噂にすり替わってて…」

桓騎のこめかみに鋭いものが走った。

まさか自分という存在がありながら、その商人を屋敷に泊めてやったというのか。顔に暗い影を差している桓騎を見て、信がぎょっとした表情を浮かべる。

「こればっかりは俺の首を掛けてもいい!誓ってやましいことはしてない!」

わざわざ宣言されなくても、嘘を吐けない信が隠し事など出来るはずがないのだ。

もしも自分以外の男と寝たのが事実だとしたら、たらふく毒酒を飲ませ、わざと副作用を起こさせてから、三日三晩は信の方から泣きながら自分を求めるように仕向けたに違いなかった。

以前、秦趙同盟が結ばれた際、信は呂不韋の企みによって毒殺されかけた趙の宰相を救い、その流れで彼と褥を共にしていたことがあった。

何度許しを乞われても弁明をされても、桓騎はそれを全て無視し、抱き殺す勢いで彼女を三日三晩は文字通りめちゃくちゃに犯したのである。

毒耐性を持っていることはともかく、副作用のことを考慮して人前で毒酒は絶対に飲むなと口酸っぱく伝えていたのに、自分の忠告を無視して裏切った信が悪い。

「………」

日を追うごとに情けないほど信に対する独占欲が増している自分を自覚し、桓騎は小さく溜息を吐いた。

 

僅かに鼓動が速まっている心臓を落ち着かせるために、桓騎は黙って鴆酒を口に運ぶ。

信は嘘を吐けない欠点を持っているが、決して弱い女ではない。簡単に寝込みを襲われたり、自分以外の男に組み敷かれるとは微塵も思わなかった。

しかし、どういった経緯があって男を屋敷に泊めたのか、桓騎の聡明な頭脳を以てしても、今回の経緯ばかりは分からなかった。

「…その罗鸿ってやつ、直接俺の屋敷に赴いて、縁談を申し込み来たんだ」

呆れた表情を浮かべたまま、信が罗鸿との経緯についてを話し始める。

正式に縁談を依頼する場合、直接会うまでにはそれなりの作法というものがある。まずは書簡のやり取りを行い、自分の身分を示す必要がある。そこで相手に気に入られてから、会う権利を獲得できる。

第一に重視されるのは顔でも体でもなく、身分だ。
相手の親からも信頼されるような地位に立っていなければ、その時点で話は無かったことになる。

縁談を申し込まれる女は、届いた縁談話を自らが吟味することはない。親が決めた相手と結婚をさせられることがほとんどだろう。一族の繁栄のために、娘であっても利用できるものは利用する。それがこの国の習わしだ。

しかし、信の場合は違う。養父である王騎が存命だったならまた違っただろうが、相手を見定めて結婚相手を決める権利は彼女自身にあった。

悪く言えば、断る手段も信本人にしかないということである。だからこそ、罗鸿という商人はそこを付け入ったのだろう。

信さえ頷かせることが出来れば結婚が認められるのだから、交渉に長けている商人ならば、どんな手段でも厭わないのかもしれない。

やましいことはしていないというが、一体どのような経緯があって屋敷に泊めてやったのだろう。

信だって女だ。男が彼女の屋敷に泊まったと言えば、その話だけを聞いた者たちが良からぬ想像をしてしまうのも分かる。

聡明な頭脳を持つ桓騎でさえも、その商人と信の関係を疑ったのだから、民たちは信がその商人と結婚するという噂を鵜呑みにしているに違いない。

もしもこれがその商人の策略だとしたら、それなりに厄介な相手だと桓騎は舌打った。

信がその策略に陥り、万が一でもその商人と結婚することになったら、正気でいられる自信がない。

幸運だったのは、完全にその策略から抜け出せなくなる前に、信が打ち明けてくれたことだった。

いくら信のことを愛しているとはいえ、彼女に関する噂話まで全て把握している訳ではない。
万が一、信が誰にも打ち明けずに、その策略に陥り、めでたく罗鸿との婚姻を結んでから助けを求められなくて本当に安堵した。

もしもそうなったとしても、速やかに罗鸿の存在を闇に葬り去って結婚自体をなかったことにするまでだが、信のためを想うならば穏便に済ませるのが一番の得策だろう。

戦では正攻法で攻め入る信と、奇策で攻め入る桓騎のやり方は、平行線のように交わうことはなく、理解し合えるはずもないのである。

「……面倒な奴に好かれるな、お前は」

つい愚痴のように零してしまうが、信の耳には届かなかったようだ。もちろん、面倒な奴というのには桓騎自身も含まれている。

秦趙同盟の時に信が趙の宰相と褥を共にした時は、桓騎は全力で手回しをして国中に噂が広まぬよう情報操作を行った。

あの時もしも自分が情報操作を行わなければ、秦趙の仲をより強固にするためだとか訳の分からない理由で、信は政治の道具として趙の宰相に嫁がされていたかもしれなかった。

報告によれば、趙の宰相が信と褥を共にしたことには丞相の呂不韋が絡んでいたという。厄介な輩共に絡まれたものだと毒づいたことを思い出す。

いくら戦場で多大なる強さを誇っていたとしても、本当に信はこの手の策には弱い。

だからこそ、桓騎は彼女から目を離せられなかったし、ますます他の男に手放したくなかった。

 

 

信の縁談 その二

詳しく話を聞けば聞くほど、罗鸿ラコウという商人に対して、嫌悪を抱くばかりだった。

書簡のやり取りを省いて、直接屋敷に赴いて縁談を申し込んで来たというのは、いくつも前例があったので、ここまではまだ珍しい話ではなかった。

事前の訪問を申し合わせすることもなかったので、もちろん見張りの兵から門前払いを食らったそうだが、信に会うまでは帰らないと、罗鸿はずっと門の前で粘り続けていたのだという。

大抵の者ならば、ガタイの良い兵に睨まれると逃げ帰るのだが、罗鸿はそうではなかった。

門番の兵たちも、鍛錬の指揮に出ていた信に報告はせず、そのうち帰るだろうと放っておいたようだが、彼の粘り強さは今まで縁談を申し込んで来た男たちとは比べ物にならないほどだった。

やがて雨が降り始めても、彼は寒さに凍えながら、ひたすら信のことを待ち続けたのだという。

陽が沈み始めた頃に帰還した信を見るなり、罗鸿はずぶ濡れの姿で自己紹介を始め、大胆にも縁談を申し込んだ。

状況が分からずに混乱する信に、門番が縁談を申し込むためにずっとここで待っていたのだと説明をされたらしい。

その時に信は罗鸿に面と向かって縁談を断ったし、門番もその時のことはちゃんと覚えているのだと力強く桓騎に訴えた。

言葉を濁らせることはせず、縁談には応じられないと何度も告げたのに、それでも罗鸿は引かなかったのだという。諦めの悪い男だと言うのはその話から十分に理解出来た。

「…それで?」

頬杖をつきながら桓騎が話の続きを促す。
どれだけ断りの返事を入れても引かない罗鸿が、冷え切った身体を震わせているのを見て、信は今夜だけ屋敷に泊まって明日帰るように伝えたのだという。

そのまま風邪でも引かれるのも夢見が悪いし、縁談を断られた勢いで血迷ったことをされては困ると思ったのだろう。

それは縁談を承認したものではなく、誰が聞いても信の善意による行為だと分かる。この話を聞けば誰もがそう思うだろう。

しかし、一晩屋敷に泊まって帰宅した罗鸿は、縁談の話を持っていった後に信の屋敷に泊まったのだと民たちに嬉々として語り、それがなぜか回り回って信が縁談を承認したという噂にすり替わり、咸陽で大いに広まってしまったのだという。

 

「はあ…」

一通りの経緯を語り終えた信は疲れ切った顔で机に突っ伏した。
どうやら一月近くその噂話に振り回されているようで、精神的にも参ってしまっているらしい。

「噂なんて放っておきゃ、そのうち消える」

信の口から話を聞いた桓騎も罗鸿の図々しさに静かに腹を立てながら、しかし、今は彼女を慰めるように穏やかな口調でそう伝えた。

もう少し早くその話を知っていたのなら、早々に情報操作を行い、信に気付かれぬように罗鸿ごと処理・・をしていただろう。

「それが…」

言いにくそうに言葉を濁らせたので、まさかまだ何かあるのかと桓騎がひくりと口角を引き攣らせた。

あまりにも咸陽でその噂が広まり過ぎて、丞相である昌平君や昌文君たちの耳にも届いたのだという。つまり、宮廷にもその噂が広まっているということだ。

用があって宮廷に訪れた際、昌平君から事実確認をされた信は驚愕した。

怒りのあまり罗鸿の屋敷に乗り込んで、一体何のつもりなのだと本人に問い詰めたのだという。

「………」

眉間に寄った皺を解すために目を閉じ、桓騎は無言で眉間に指を押し当てた。

そんなことをすれば、ますます罗鸿の思うつぼだと、きっと彼女は分からなかったのだろう。そういう鈍いところがあるから、趙の宰相にも呂不韋にも政治の道具として扱われたに違いない。

案の定、それは罗鸿の策略だったようで、屋敷に訪れた信はあれよあれよという間に彼の一族の者たちに厚遇されたのだという。

信が自ら罗鸿の屋敷を訪れたのを目撃した民たちは、罗鸿の結婚の噂は本物だと誤解することになる。そして今では、咸陽を歩けば民たちから祝福の言葉を掛けられるようになったのだとか。

その日を境に、屋敷に帰れば罗鸿が信のご機嫌取りのためか、異国から仕入れたという珍しい品物や着物を揃えて、彼女のことを待ち構えているのだそうだ。

民たちの間で広まった誤解にも、罗鸿の行動にも信はうんざりしており、今では自分の屋敷に帰るのも億劫になっているのだという。

「はあ…何でこんなことに…」

後悔しているとしか思えない独り言に、桓騎はやれやれと肩を竦めた。
善意で罗鸿を屋敷に泊めたことがまさかこんな大事になるとは思わなかったと、信は激しい後悔の念に駆られていた。

「………」

最初から自分を頼れば良かったものをという言葉を寸でのところで飲み込む。今さら彼女を責めたって何も変わりないし、それに信が罗鸿を屋敷に泊めたのは善意でしかない。その善意を利用した罗鸿に全て非があるのだ。

きっと罗鸿からしてみれば、このまま信の判断能力と反発力を奪っていけば、確実に自分のものに出来ると見ているだろう。

そして信が屋敷に乗り込んで来ることや、それを逆手に婚姻の噂を広めるのも策だったのならば、それだけ信との縁談に執着していることが分かる。

信が縁談を断ったのは確かだし、そして罗鸿も、信から縁談を承諾されたとは一言も言っていない・・・・・・

屋敷に泊まったことや、信が屋敷にやって来たという事実だけを広め、それが結婚の事実とすり替わるように情報操作を行ったのだから、相当頭がキレる商人なのだろう。

繁栄を意味する名であることから、商人としての才を芽吹かせたのも頷けるが、信を娶るのではなく、普通に商売をしていれば良かったものをと桓騎は小さく舌打った。

彼に唯一の誤算があったとすれば、それは紛れもなく信と深い繋がりを持っている桓騎自分の存在である。

他国だけでなく、秦国の中でも恐れられている残虐性と奇策の持ち主である自分を敵に回したのが罗鸿の誤算であり、敗因だ。

こちらの勝利を前提に桓騎がそう考えているのは、それが確定次項であり、当然の結果だからである。

「信」

「ん…?」

顔を上げた信の瞳はうっすらと潤んでいる。酔っているせいだろうが、男の情欲を揺るがせるその表情を他の誰かに見られるだなんて、絶対に許せなかった。

「一つ、貸しだぞ」

何度か瞬きを繰り返している信が、桓騎から協力を得られるのだと理解するまで少し時間がかかった。

「へへ、やっぱり頼りになるなあ、お前…」

安堵したのか、ふにゃりと顔を緩ませた笑みが堪らなく愛おしかった。

 

桓騎と信の関係性

そのうち信が机に突っ伏して眠ってしまったので、桓騎は彼女の体を抱えて寝台へと運んだ。

罗鸿という商人の話を始めた時から、顔に不安の色を宿していたが、今は親の腕に抱かれて眠る子どものように安心しきった顔を見せている。

普段なら共に就寝するのだが、桓騎は寝台に腰掛けたまま信の寝顔を見つめていた。

「………」

顔に掛かっている前髪を指で梳いてやってから、桓騎はもう少しだけ飲もうと立ち上がり、棚に収納してある酒瓶を眺めた。

一人で飲むのなら、信があまり好まない鰭酒にしようと思い、自分で浸けた酒を手に取る。
杯に注いだ酒から独特な生臭さが立ち上った。今回もよく毒魚の鰭を炙ったが、匂いは取れなかったようだ。

信はこの生臭さが苦手だというが、舌の上に広がり、喉に流れていくこの強い痺れには堪らない旨味がある。

(…婚姻か)

自分たちはこうして酒を飲み合っては体を重ねる男女の仲ではあるものの、婚姻を結んでいる訳でもないし、かといって許嫁のような堅苦しい関係でもない。

お互いに下賤の出であることから、そういった形式に縛られることないし、言ってしまえば気ままで楽な関係だ。

今後もその関係は平行線のように続いていくのだと桓騎は信じて疑わず、そしてそれは信も同じだと思っているに違いない。

お互いに将という立場にある以上、次の戦で死ぬかもしれない。桓騎は将軍というものに未練も誇りもないのだが、信はそうではない。

秦王に対する忠義が厚い女将軍。それ以上、信のことを知らずにいれば、桓騎は今も一人で毒酒を嗜んでいたに違いない。

そんな自分たちを引き結んだのは、毒に対する耐性があることだった。
その共通点がなければ、きっと信と毒酒を飲み交わすことなく、今の関係に至ることもなかっただろう。

信は秦将であることに誇りを持っており、国を守ることに命を懸けられる女だ。
この国を守ることが本望であり、役目であり、それ以上は何も望まないと言っていたことを桓騎は覚えていた。

裏を返せば、それは、女としての幸せを諦めているということである。

戦から離れ、自分と婚姻をして家庭を築くだなんて、夢にも思っていないだろうし、桓騎もそんな未来を想像したことなど一度もなかった。

「………」

ゆっくりと振り返り、桓騎は信の寝顔を見つめた。
ここに至るまでに、戦以外で彼女が幸せに生きる道は幾つもあったはずだ。下賤の出であっても、男と結婚して子を産み、女としての幸せを得ていたのかもしれない。

(…全然思い浮かばねえな)

頬杖をつきながら、信のもう一つの未来を考えてみたが、やはり少しも思い浮かばない。

着物の隙間から僅かに覗く傷だらけの体を見て、信が将という立場であるからこそ、自分は彼女に惹かれたのだと断言出来たし、将でない彼女など彼女ではないと断言できた。

だからといって、自分以外の男が彼女を狙っているという話を見過ごすわけにはいかなかった。

自分以外の男と幸せそうに微笑み合う信の姿など、考えたくもない。

それは紛れもなく独占欲の類だと自覚していたのだが、信はそのことに気付いていないだろう。本当に鈍い女だ。

苦笑を浮かべながら、桓騎はこれからも彼女の隣に居続けることを望んでいる自分に気が付いた。

 

 

「んー…」

寝台の上で眠っているはずの信が声を上げたので、起こしてしまっただろうかと桓騎は振り返る。

酔いと眠気のせいで潤んだ瞳と目が合った。

「……、……」

どこか気恥ずかしそうに、しかし、熱っぽい視線を送って来る信に、桓騎は杯に残っている鰭酒を一気に飲み干す。彼女が何を訴えているのか、すぐに分かった。

毒酒を一定量以上飲み、体に副作用が現れた時は媚薬を飲んだ時のように性欲と感度が増強するのだが、今日は違う。
息を荒げている様子もなければ、苦しさを訴えることもない。

副作用は関係なしに、自分のことを求めている瞳だ。それが酔いのせいだとしても、桓騎はとても気分が良かった。

自分に好意を向けている女が抱いてくれとせがんでいるのだ。断る気にはなれない。
空になった杯を台に置くと、桓騎は寝台へと向かう。

横たわったまま信が腕を伸ばして来たので、桓騎はその腕を抱き込みながら、褥に倒れ込んだ。

すぐに信の体を組み敷くと、言葉を交わすことなく、唇を重ね合う。

「ん、んぅ」

舌を絡めながら、信が性急な手付きで背中に腕を回して来る。

「んぁ…」

早く欲しいと訴えているような健気な態度に、口づけを交わしながら笑みが零れてしまう。
舌を絡ませながら、彼女の帯を解いて着物の襟合わせを開く。

現れた傷だらけの肌はもう隅々まで見慣れていたが、何度見ても飽きることはなかったし、この情欲が冷めることなど考えられそうもなかった。

 

信が目を覚ました時、桓騎は隣にいなかった。

隣にはまだ温もりが残っており、恐らく、先ほどまではここにいたのだろう。情事の途中で意識を失うように眠ってしまったようで、信は着物を着ていなかったのだが、風邪を引かぬように気遣ってくれたのか、肩までしっかり寝具が掛けられていた。

(なんだよ…)

桓騎は口は悪いが、こういう気遣いが出来る男だ。普段の態度を知っているからか、こういう気遣いの格差を知ると、いつもむず痒い気持ちに襲われる。

(あー、さすがに寝過ごしたな…)

窓から差し込む温かい日差しを浴び、すでに昼を回っていることを知る。

ここ最近は罗鸿ラコウのことで悩まされており、寝付けないほどではなかったが、こんなにも安心して眠ったのは随分と久しぶりのことだった。

情事の甘い疲労と、少しだけ疼くような痛みがあるが、随分と気分が良かった。

「ふあぁ」

大きな欠伸をして、信は瞼を下ろす。すっきりとした目覚めではあるが、もうひと眠り出来そうだった。

しばらくはこの屋敷に滞在する許可を得たことだし、ゆっくりと過ごさせてもらおうと信は二度寝することを決める。

「………」

眠ることだけに集中すればよかったものの、昨夜、桓騎に話したことを思い出してしまう。

罗鸿の狙いは、自分との婚姻の先にある秦王嬴政との繋がりであると、信も分かっていた。
たかが一商人ならば、秦王と謁見することはおろか、一生のうちに一度も姿を見ないでその生涯を終えてしまうかもしれない。

だが、親友の夫という立場にあれば、祝辞を贈られることは間違いないだろうし、どのような男であるか確かめられるのは必然だ。

秦将と秦王の後ろ盾を持つことで、商人はこの上ないものに昇格する。商売の一種だと考えているに違いないが、もともと将として生を全うする気でいる信には、男との婚姻など考えられるはずがなかった。

(…眠い)

再び瞼に睡魔が圧し掛かって来る。
桓騎の屋敷に行くことは、屋敷を任せている従者たちに告げてあるし、軍のことも信頼できる副官たちに任せてあるので何ら問題はないだろう。信は再び目を閉じた。

(きっと、大丈夫だ)

桓騎が力を貸してくれるというのだから、きっと全部上手くいくだろう。

…すでにこの時、桓騎が一連の作戦を練り終えて、動き始めていることなど、信は知る由もなかった。

 

 

桓騎の屋敷で十日ほど過ごした信は、そろそろ屋敷に帰ろうと考えていた。

軍の指揮や鍛錬は副官たちに任せているとはいえ、さすがにこれ以上屋敷を留守にすれば心配をかけることになる。

それを桓騎に告げると、引き止められることはなかったのだが、

「俺も行く」

「えっ?お前も?」

まさかそんな提案をされるとは思わなったため、信は驚いて聞き返した。

「罗鸿の野郎が屋敷で待ち構えてんだろ?」

「まあ、それは…多分な…」

しつこいほど屋敷で信の待ち伏せをしていたあの男が、数日留守にしたところで諦めるとは思えなかった。

過去に罗鸿のしつこさを見兼ねた副官の楚水が穏やかに説得を試みたが、少しも効果がなかった。かといって強引に事を起こせば、女子供や投降兵には手出しをしないと飛信軍の評判に泥を塗ることになる。

血気盛んな飛信軍の中でも冷静さがあり、なおかつ礼儀もしっかりと得ている楚水ですらも罗鸿を黙らせることは出来なかったのである。

しかし、桓騎が傍にいてくれれば、多少の抑止力になるかもしれない。

元野盗である桓騎と桓騎軍の素行の悪さは秦国でも有名だ。他国でも怯えられるほど残虐性を持っている彼と信が親しいのだと分かれば、もしかしたら罗鸿も我が身可愛さから手を引いてくれるかもしれない。

 

「…じゃあ、頼む」

同行を許可すると、桓騎は得意気に口角をつり上げた。

どうせ断ってもついて来るだろうと思ったが、水面下で物事を進められるよりは傍で監視しておいた方が良いだろう。

知将と名高い桓騎は、味方にも策を告げることのない男だ。
もしかしたら既に自分の知らないところで物事を進められているのではないかという不安もあったが、一緒にいる間はそんな様子は見られなかった。

「とっとと諦めてくれりゃあ良いんだがな…」

二人で馬を走らせながら、信が溜息交じりに呟いた。

桓騎の存在を知って、罗鸿が潔く婚姻を諦めてくれれば話は早い。しかし、秦王と親友である自分を踏み台にして商人として成功することを諦められないのかもしれない。

自分の夫になったところで、嬴政が商いの手助けなどするはずがないのに、やはり秦王と接点を持つということは、民にとってはこの上ない権力のようなものなのだろう。

屋敷へ向かいながら、信の溜息はますます深くなっていった。

 

中編①はこちら