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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)後編

平行線の終焉5 桓信 牧信
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編③はこちら

 

決意

李牧が部屋を出て行ってから、信はずっと泣き崩れていた。

ずっと一緒にいてくれると思っていた李牧が、自分のもとを去って行ったあの雨の日も、今みたいに声を上げて泣いていた。

昔から声を堪えて泣く癖があったのに、あの時ばかりは嗚咽を押さえられなかったことを思い出す。
情けない声を上げないよう、信は感情的になると拳を握るのが癖になっていた。酷い時には爪が食い込んで血を流してしまう。

それを李牧は「無意味」だと比喩していた。

自分の手をそっと包んでくれて、こんな傷を作ってまで悲しみを堪える必要はないのだと、彼はそう言ってくれたのだ。

―――泣きたい時は声を上げて、気が済むまで泣けば良い。

李牧はいつも泣いている自分を抱き締めては、その胸を貸してくれた。

そんな優しい態度をとられるものだから、李牧からいつまでも子ども扱いされていることも、甘やかされていることも、信は自覚していた。

声を堪えて泣いていると、必ずといっていいほど李牧が現れて、泣き止むまで抱き締めてくれた。その思い出は、信の心に今でも深い杭となって残っている。

だから、我慢せずに泣いていれば、李牧はすぐに自分のもとに戻って来てくれるのではないかとずる賢いことも考えたこともあった。

しかし、あの雨の日から、自分のもとを去った李牧が戻って来ることはなかった。

長い月日を経て、ようやく李牧のことを思い出さない時間が長くなっていたというのに、此度の秦趙同盟で趙の宰相として現れた李牧に、信は喜悦と不安を抱いたのである。

生死も安否も分からなかったのに、再会できることはおろか、まさか敵対することになるだなんて誰が想像出来ただろう。

王騎を失っただけでなく、まさか今度は李牧と敵対しなくてはならないのだという悲しみに、信は無意識のうちに拳を握る。

心に深く突き刺さった杭を、いよいよ引き抜かなくてはならない時が来たのだ。

過去と決別し、自分の歩むべき道を進まなくてはならない。このままいつまでも、平行線の関係を続ける訳にはいかなかった。

守るべき国の未来のため、そして自分自身のためにも。

ようやく涙が止まってから、信は杯に注いだ水を一気に飲んだ。失っていた水分を一気に取り戻し、長い息を吐く。

泣き過ぎて目元がひりひりと痛むし、頭も鈍く痛む。

このまま眠ってしまおうかと思ったが、横になればまた李牧のことを考えてしまいそうだった。

いつまでもこの部屋に閉じ込められていては気が狂いそうだ。もう今は熱もないのだから、見張りの兵に言って、少しの間だけ外出させてもらおう。

真っ赤に泣き腫らした瞳をした飛信軍の女将軍が宮廷を歩いていたら、あらゆる噂が立ち回りそうだが、このまま部屋に閉じ込められている方が具合が悪い。

恐らく扉越しで李牧との会話は聞こえなかったに違いないが、彼が部屋を出て行ってから大きな声を上げて泣いていたのは、見張りの兵に聞かれていたのだろう。気分転換をしたいという信の意志を尊重して、兵は外出を認めてくれた。

一刻だけと約束をして、信は一時的に部屋から釈放・・される。

李牧が王騎の仇であることは、この秦国では誰もが知る周知の事実だ。もしかしたら亡き養父のことを想って泣いていたのかと誤解してくれたかもしれない。

「…?」

城下町でも眺めに行こうかと廊下を歩いていると、天井まで伸びている太い柱の根元に誰かが座り込んでいるのを見つけ、信は思わず眉根を寄せた。

秦王がいるこの咸陽宮には多くの兵が常駐しており、そういった不届き者はすぐに追い出されるはずだが、廊下を通る女官も兵たちも横目でその者の姿を見やるばかりで、誰も声を掛けようとしない。

座り込んでいるということは、具合が悪くて動けないのだろうか。しかし、誰も声を掛けようとしないことに信は疑問を抱いた。

近づいていくうちに、座り込んでいる男に見覚えがあることに気付き、信はまさかと息を飲む。

(桓騎…?)

座り込んで自分の膝に顔を埋めているせいで、顔は見えない。

しかし、幼い頃から彼を知っていたこともあり、その男が桓騎だと信はすぐに分かった。
あの夜のことが脳裏を過ぎり、心臓を鷲掴みにされたように、胸が苦しくなる。

(こんなところで何してんだ)

しかし、桓騎がここで何をしているのかという疑問の方が前面に出てしまい、信は立ち止まることなく彼に近づいていた。

すぐ傍まで近寄っても、桓騎は気づいていないのか、顔を上げようとしない。

僅かに身体を震わせている桓騎から、鼻を啜る音が聞こえて、まさか泣いているのだろうかと信は驚いた。

彼が泣く姿なんて、未だかつて見たことがあっただろうか。自分に凌辱を強いた男だというのに、やはり無下には出来ない。

それが自分の弱みだとか甘さという類であり、仲間たちからこっぴどく叱られてしまう悪いクセだ。しかし、信は桓騎を見捨てることなど出来なかった。

「…桓騎、お前…泣いてんのか?」

声を掛けると、桓騎が弾かれたように顔を上げた。頬に涙の痕が幾つも残っていた。

「…見りゃ分かるだろ、バカ女」

あの夜があったというのに、開口一番それかと信は苦笑した。

 

決断

その場に座り込んだまま桓騎が動こうとしないので、信は彼の前に片膝をついて目線を合わせた。

桓騎が泣いている姿を思い返してみたが、やはりこれが初めてだった。

珍しいものを見る目つきで、信が桓騎のことを見据えていると、その視線が癪に障ったのか、桓騎がぎろりと睨み返して来る。

「………」

何か言いたげに唇を戦慄かせたものの、信も自分と同じで真っ赤に泣き腫らした瞳をしていることに気づいたのようで、桓騎は視線を泳がせた。

桓騎の泣き顔を見るのは初めてだったが、信が彼に泣き顔を見せたのはこれが初めてではない。

子どもの頃から桓騎を知っている信は、あまり情けない姿を見せたくなくて、さり気なく目元を擦ると、照れ臭そうに笑う。

無理やり犯された時は、確かに辛かった。

しかし、それはずっと成長を見守って来た彼に裏切られたことや、屈辱だとか、そういった痛みじゃない。

李牧の身代わりだと誤解されたことが辛かった。その誤解を解けずにいることが、今でも信の心を苦しめている。

そして、桓騎も同じように苦しんでいることを、彼の涙を見て悟った。

「…桓騎、聞いてくれ」

縋るような眼差しを向けるものの、桓騎は目を合わせようとしない。しかし、黙って自分の言葉に耳を傾けてくれているのは分かった。

自分が李牧に利用されていたと分かった時の胸の痛みは、今でも続いている。
自分の物差しで桓騎の苦痛を測るつもりはないが、どうか、この苦しみから桓騎が解放されて欲しい。それだけを願いながら、信は言葉を紡いだ。

「俺は、お前を李牧の代わりだと思ったことは、一度もない」

その言葉は紛れもなく本心だったのだが、果たして桓騎の胸に届いただろうか。

あの夜はどれだけ訴えても信じてもらえなかった。そう都合よく聞き入れてくれるはずがないと信も分かっていたのだが、伝えずにはいられなかった。

凌辱を及んだのは、親鳥を追いかけ回す雛鳥のように、いつも自分の傍にいたがった桓騎の本気の反抗だったのだろう。

それほどまでに、李牧の身代わりとして育てられたという誤解は、桓騎の心を傷つけたのだ。だからこそ、このままではいけない。

自分も李牧も振り返らずに前へ歩み出すことを決めたのだ。もう後ろを振り返ることはしたくないし、桓騎もそうであってほしかった。

「………」

桓騎は相変わらず何も言葉を発さないが、話を遮ることはしない。
ただ、何かを考えるように瞼を下ろして、じっと俯いていた。

その表情が、初めて彼と出会ったあの雨の日に、凍えて死にかけている時と全く同じに見えて、信は弾かれたように腕を伸ばしていた。

「桓騎っ…」

彼の体を強く抱き締めて、腕の中の温もりを確かめる。

もちろん桓騎はしっかりと呼吸もしていたし、その体も冷え切ってはいなかったのだが、目を離せば自分の知らない場所へ行ってしまうのではないだろうかという不安が込み上げて来た。

李牧と同じように、このまま桓騎が自分を置いていくのではないかという考えが過ぎる。
その考えを振り払うように信は首を振ったのだが、そこで彼女はようやく気付いたのだった。

(ああ、そっか…)

どれだけ自分が否定しようとも、無意識のうちに桓騎のことを、李牧と重ねていたのかもしれない。

いつか自分の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという不安と、あの時と同じ苦しみを味わいたくないという気持ちに支配されていた。
それこそが桓騎を戦に出したくない理由の根本だったのかもしれない。

桓騎を苦しみから救いたいと思ったのも、ただの独りよがりだ。

決めるのは他でもない桓騎自身なのだから、自分がどれだけ言葉を掛けたところで彼の胸に響かないのは当然である。

あの雨の日に桓騎を助けたのだって、桓騎が自分に助けを求めたからではなく、信の意志だ。
彼の身柄を蒙驁のもとに預ける時でさえ、将軍になる意志があるのか、桓騎に確かめようともしなかった。

(全部、全部…桓騎の意志を確かめないで、俺の意志で決めてた・・・・・・・・・から、桓騎のことを苦しめてたんだな)

きっと桓騎が苦しがっているのは、李牧の身代わりでいることではなく、いつまでも自分の傍から離れられないことだ。

桓騎は今までずっと、自分の意志で決めた道を歩むことが出来たはずなのに、死を選ぶ自由さえ、信が奪ってしまっていた。

それが桓騎を心を縛り上げているのだと気づき、信は胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。

「…悪い」

抱き締めた腕を放すと、信は無理やり笑みを繕った。

「もう、好きに生きろ。秦将をやめるなら、俺が何としても政を説得する」

信の言葉を聞き、桓騎が不思議そうに目を丸めている。何を言っているのか、理解出来ないのだろう。

今までずっと桓騎の意志と選択権を奪っていた自分が許せなくなり、信は涙を堪えるために強く歯を食い縛った。

自分が泣いて詫びたところで、どれだけ悔いても、桓騎の意志を奪い続けていた長い年月は戻って来ない。

しかし、今からでも桓騎は自らの意志で・・・・・・道を進んでいくことが出来る。

もしも桓騎が自分を見限るとしても、自分にそれを止める権利はないし、いい加減に彼を解放するべきだろう。

自分が桓騎を手放すことこそが、彼を苦しみから解放できる手段だったのだ。
どうして今まで気づかなかったのだろうと、信は自虐的に笑んだ。

 

「………」

桓騎はずっと押し黙ったままだった。しかし、信から目を逸らすことはしない。そして、その瞳に浮かんでいるのは嫌悪でも軽蔑でもなかった。

いつの間にか涙は止まっていたが、信の方は少しでも気が緩めば涙を流してしまいそうになる。

彼女が歯を食い縛って静かに涙を堪えていることに気付いたのか、桓騎は小さく溜息を吐く。

「…あいつに何を言われた?」

何を言われるのかと身構えていると、第三者の存在が出て来たことに、信は驚いて涙が引っ込んでしまった。

「えっ、あいつ…?」

「李牧だ」

桓騎の目が鋭い光を宿したので、李牧が部屋を出入りしたところを見ていたのかと気づいた。

「何も…ただ、話をしてただけだ」

彼と決別を決めたことに、後ろめたさはないのだが、つい目を泳がせてしまう。
その反応に確信を得たのか、桓騎がわざとらしく溜息を吐く。

「さっさと趙に来いって?」

「え?な、なんでっ」

扉の前には見張りの兵がいたはずだし、盗み聞きなど出来るはずがない。それなのに、李牧が自分に伝えた用件を口に出したことに、信は心臓を跳ねさせた。

「やっぱりな」

低い声で吐き捨てた桓騎がようやく立ち上がったので、信も慌てて立ち上がった。

「俺は、趙に行くつもりなんてない!」

良からぬ疑いを掛けられぬ前に、すぐにそう伝えると、

「んなこと分かってる」

わざわざ聞かずとも、そう答えると知っていたと桓騎が返した。
眉根を寄せている信の顔を眺めながら、何か気に食わないことでもあるのか、桓騎が不機嫌に舌打つ。

「…あの野郎、ただのフラれた負け惜しみじゃねえか」

「え?」

独り言のように呟いたその言葉を聞き、まさか李牧と何か話したのかと信は瞠目する。

それが桓騎が幼子のように泣きじゃくっていたことと関係があるような気がして、再び信の胸に不安が募った。

「桓騎…」

一体李牧に何を言われたのだと問おうとしたのだが、桓騎が信の顎に指を掛ける方が早かった。

 

平行線の終焉

「あ…」

桓騎の顔が近づいて来て、信は思わず目を見開いた。

唇を柔らかい感触が包み込み、胸に蕩けるような甘い疼きが走る。
互いの唇が触れ合っていたのはほんの一瞬だったのだが、信には随分と長い時間に感じられた。

しかし、桓騎からはっきりと意志が浮かんだ強い眼差しを向けられると、途端に緊張が走った。

「…お前が言ったように、俺が行く道は、俺の意志で決める」

桓騎のことを解放すると決めたのは自分自身のはずなのに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

無意識のうちに拳を握って、張り詰める緊張を耐えようとしていると、桓騎が右手を掴んで来た。

食い込んだ爪の痕が残っているその手を開かせ、そこに唇を寄せる。

「桓騎…!?」

その仕草には見覚えがあった。李牧と同じことをしようとしているのだ。

まさか桓騎は李牧の身代わりになることを決意したのではないかと、信は不安と焦燥感に体を強張らせる。

手を振り払おうとしたが、それを遮るように鋭い痛みが走った。

「痛ッ…!」

人差し指と親指の付け根の辺りに桓騎が思い切り歯を立てていた。
容赦なく上下の歯で噛みつかれ、歯形に沿って血が溢れる。それを丁寧に舐め取り、唇を強く押し付けている。

李牧の口づけとは、少しも似ていなかった。

「俺は、他の誰でもない俺の意志で・・・・・、お前に惚れたんだよ」

信から視線を逸らすことなく、桓騎は想いを打ち明けた。

「今でもそうだったし、これからも同じだ。そこにお前の意志なんて関係ねえよ」

今までもずっと、自分の意志で信のことを愛していたという桓騎の熱烈な告白に、全身の血液が顔に集まってしまったのではないかと思うほど、信の顔が熱く上気していく。

「えっ…あ、…ぇ…」

まさかそのような告白をされるとは思わず、信は言葉を喉に詰まらせてしまう。

幾度も桓騎は信に想いを告げていたが、初恋に思いを馳せる少女のように恥じらった表情を見るのは初めてのことだった。

「か、桓騎…あ、あの…俺…」

上擦った声で名前を呼んだ信に、桓騎は思わず頬が緩んでしまう。

いつもは適当にあしらうはずの信が、目を逸らしてもなお顔を紅潮させたままでいる。

あまりにも愛らしい態度に、再び口づけをしそうになったのだが、ふと周りから向けられる視線に気づいた。

「…?」

そういえばここは宮廷の廊下だ。多くの女官や高官、兵たちが出入りしている場所である。

二人から少し離れたところで、誰もが立ち止まってこちらに視線を向けていることに気付いたのは、桓騎だけでなく信もだった。

今の今までやりとりをずっと野次馬たちに見られていたらしい。接吻も見られていたに違いない。興味に満ちた視線を感じた。

中華全土にその名を轟かせている女将軍の信と、彼女に保護されて立派に成長した知将の桓騎との男女の関係に、野次馬たちからの視線は熱かった。

桓騎が信のことを好いているのは、秦国では民衆にまで広まっている周知の事実だったし、もちろん桓騎もそれを知っていた。その上で噂を好きなように広めていたのだ。
事実である話を止める理由など何一つないのだから。

その甲斐あってか、誰もが満面の笑みを浮かべている。

まだ信は返事をしていないというのに、全方位から、自分たちの関係を祝福しているような温かな眼差しを向けられていた。

「~~~ッ…!」

桓騎の告白の時とはまた違った羞恥心に、信が顔を上げられなくなっている。
湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしているので、このまま失神してしまうのではないかと桓騎は危惧した。

「ここじゃ目立つな。場所を変えるぞ」

信の腕を掴むと、桓騎は彼女を引き摺るようにして歩き始めた。

療養に使っている部屋に戻り、見張りの兵には人払いをしておくよう告げる。彼も遠目で桓騎と信のやり取りを見ていたようで、礼儀正しく一礼で答えてくれた。

気づけば雨は止んでおり、抜けるように澄み切った青空が広がっていた。

 

扉を閉めて二人きりになると、信が両手で顔を覆ってその場にずるずると座り込んでしまった。

「どうした」

具合が悪いのかと問えば、信は大きく首を横に振る。指の間から泣きそうな顔を覗かせると、

「う、うう…これから、どんな顔して秦国を歩けば良いんだよ…!」

「はあ?」

野次馬たちの視線から逃げ切ったものの、今後の立ち振る舞いについて考えているらしい。

桓騎が信のことを好いている話を好きなだけ民衆に広めさせ、外堀を埋めておいたのは、信を落とす策の一つだった。

まさか今日という日に、この策が成されるとは思わなかったが、結果としては狙い通りに信の気持ちに揺さぶりをかけることが出来た。
もちろんその策は胸に秘めたままで、墓場まで持っていくつもりである。

「信」

先ほど噛みついた右手がまだ出血していることに気付き、桓騎はその場に膝をつくと、彼女の腕を掴んだ。

再び手の平に唇を寄せて、血の滲む歯形に沿って舌を這わせ、ちゅうと吸い付く。

「っ…」

傷口が痛むのか、切なげに眉を寄せて、信が桓騎のことを見つめていた。

「…返事を聞くつもりはねえぞ」

「え?」

間の抜けた声を上げて、信が桓騎を見やる。

どうやら大勢の野次馬たちに見られていたことに、よほど精神的な打撃を受けたようで、何のことか分からないと顔に書いていた。

もう一度、手の平に舌を這わせて、唇を落としていく。そして今度は血が滲まない程度に甘く歯を立て、桓騎は上目遣いで信を見た。

「たとえお前が嫌だっつっても、放すつもりは一生ねえからな」

先ほどの言葉の続きを告げると、信はあんぐりと口を開けて目を丸めていた。

「お、お、おま…」

誰が見ても動揺していると分かる信の狼狽ぶりに、桓騎はにやりと笑った。

彼女が再び顔を赤らめたことと、普段のように告白を無視されなかったことから、どうやら今まで以上に揺さぶりを掛けられたことが分かる。

それは間違いなく、信が自分を男として意識している証拠だ。

彼女が李牧の誘いを断って秦に残ることを決めたのは、すなわち李牧と共に生きる未来を拒絶し、共に過ごした過去との決別を意味する。
未だ自分が選ばれた訳ではないのだが、もうあの男が信の心を巣食うことはない。

信の泣き濡れた瞳を見る限り、彼女の心が李牧との決別を受け入れるまで時間が掛かるかもしれないが、その穴は自分が埋めるつもりだった。

これからも信を愛していく。
それは自分自身の意志で決めたことであって、決して李牧の身代わりではない。

他の誰にも代わりが出来ない唯一無二の存在として、これからも彼女のことを愛していくと桓騎は決意した。

それはもう、彼女と出会ったずっと昔から決めていたことだった。

 

平行線の終焉~桓騎と信~

「桓騎…」

何か言いたげにしている信に見据えられると、堪らなく愛おしさが込み上げて来て、桓騎は彼女の顎を捉えて顔を寄せる。

「っ…」

信が僅かに身体を強張らせたのが分かったが、桓騎を押し退けることはしない。
咄嗟に目をつむって、長い睫毛を震わせているのを見ると、まるで口づけを待っているかのようだった。

緊張しているその顔が可愛らしくて、いつまでも唇を重ねずに眺めていると、薄く目を開けた信がまさかといった表情を浮かべた。

「かッ、からかったな!」

「おっと」

平手打ちが飛んで来たが、桓騎は軽々とその手首を受け止める。

幼い頃は頭頂部にげんこつを落とされることもあったが、桓騎が成長するにつれて身長差が広まっていき、もう同じ技を繰り出せなくなったらしい。

本当にこれで戦に出ているのかと疑わしく思うほど細い手首を掴んだまま、桓騎は反対の腕で信の体を抱き寄せた。

体を密着させると、てっきり暴れると思っていたのだが、信は腕の中でじっとしている。

「信…?」

それどころか、抱擁を受け入れるように顔を埋めて来たので、桓騎は呆気にとられた。

「……、……」

名前を呼んでも信は顔を上げなかったが、しばらくの沈黙の後、彼女は意を決したように顔を上げた。

「…言っとくけどな」

急に信が低い声を出したので、桓騎は反射的に眉根を寄せた。

彼女がそうやって話を切り出す時は、いつも決まって無駄に長ったらしいお説教が始まるからだ。

ここに来て何の説教を聞かされるのだろうと桓騎が黙っていると、

「俺は、お前より年は上だし、これからも戦の前線で戦う。お前より早く死ぬ自信がある」

「そんな自信、誇らしげに持ってんじゃねえよ」

何を言い出すかと思えば、まさかそんな物騒なことを言われるとは思わず、桓騎は彼女の言葉を遮るように言い放った。

愛する女が死ぬ姿など見たくない。それは男なら誰でも同じだ。

きっと李牧が趙に来いと言ったのも、自分の知らないところで信を死なせたくなかったからに違いない。
それはつまり、李牧がまだ信のことを想っている証拠でもある。

もしも信の心が、李牧と共に生きることを望んでいたならば、確実に彼女は李牧の手を取っていただろう。

先ほどまで宮廷の廊下で無様に泣いていた桓騎に目もくれず、今頃は李牧と共に趙へ出立する準備を整えていたかもしれない。

忠義に厚い信が安易に国を見捨てるとは思えなかったが、それでも彼女が今でも李牧を愛していたのなら、その可能性もあっただろう。

だから今、腕の中にある温もりをしっかりを感じて、桓騎は安心感に浸っていた。

「お前…本当に良いのかよ」

確かめるように信が訊いたので、何がだと桓騎が返した。

「いつどこで死ぬか分かんねえ女より、いつでも帰りを待っててくれる女の方が、お前の心配を解消してくれるだろ」

それはつまり、自分のような女はやめておけと別言しているのだろうか。

「口の減らねえ女だな」

桓騎は両腕で信の体を力強く抱き締めた。このまま自分の胸で鼻と口を塞いで窒息させてしまおうかとも考えるくらい、両腕に力を籠める。

もぞもぞと肩口から顔を覗かせた信が「ぷはっ」とまるで小動物のような愛らしい声を上げた。

真っ直ぐに信のことを見つめると、桓騎は口元に笑みを繕った。

「お前が死ぬんなら、息絶える最後のその瞬間まで、俺が見届けてやるよ」

甘くて穏やかなその声に、腕の中にいる信が息を詰まらせたのが分かった。

「桓騎…」

「全部、俺の意志で決めたことだ。お前が何を言っても、俺はやめるつもりはねえよ」

しばらく信は戸惑ったように視線を彷徨わせててから、俯いてしまった。

ゆっくりと信の両腕が背中に伸ばされ、自分の言葉が彼女の胸に響いたことが分かる。
前髪で表情を隠していた信の頬に、一筋の涙が伝っていくのが見えた。

「だから信、お前も、お前の意志で決めろ」

返事の代わりに、背中に回された信の手が桓騎の着物をそっと掴んだ。泣き顔を隠したまま、信が桓騎の体に凭れ掛かる。

その瞬間、桓騎は自分と信の平行線にあった関係が、ようやく交差した終わったことに気付いたのだった。

 

平行線の終焉~李牧~

―――…俺は…お前とは、行けない。

あの時、信が自分の誘いを拒絶することは、李牧も誘いを口にする前から薄々勘付いていた。

それでも、もしかしたら信が祖国を捨てて共に生きてくれるかもしれないという想いが絶えなかったのは、紛れもなく自惚れだったのだ。

信と久しぶりに再会を果たして、もう一つ確信したことがある。

彼女は養父である王騎を討ち取ったことを責めはしたものの、一方的に別れを告げて自分の前から忽然と姿を消したことを責めはしなかった。

抱き締めた時も、唇を重ねた時も、彼女は親の仇だと頭では理解していても、拒絶をしなかった。

その事実こそ、未だ彼女の心に自分という存在が巣食っている証である。

秦将という立場を奪えば、守るべき国や民を彼女から全て奪い取れば、信はただの女に成り下がる。

自分と共に生きることが、何よりも平穏な人生を歩めることになるのだと信は未だに気付いていない。

国と共に滅ぶ運命から、彼女を救い出さなくてはならない。それは自分に課せられた使命のようなものでもあった。

帰る場所を奪えば、信が自分のもとに戻って来ると、李牧は信じて止まなかった。

「李牧様。準備が整いました」

楚の宰相との会談準備が出来たという報告を受け、李牧は馬を降りた。

密林の中に天幕を用意させたのは、万が一にも秦国に気付かれるのを避けるためだった。

この会談で成し遂げる同盟、そしてその先にある未来は、秦国の滅亡だ。

側近のカイネに目配せをして、李牧は一人で天幕の中へと足を踏み入れる。
先に中で待っていた楚の宰相・春申君がその鋭い眼差しを李牧に向けた。

「…では、始めましょうか」

穏やかな声色で、しかし、揺るぎない意志を込めて、李牧は会談を始めた。

全ては秦国の滅亡のため。
そして、その先にある自分と信の平行線の関係に終わりを告げるために。

 

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