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終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編①

終焉への道標2
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

前編はこちら

 

処刑場

趙国にある雷環広場に到着するまで、当然ながら国境を越えることもあって、それなりの日数がかかったが、李牧が処刑される日には間に合った。

処刑をされた後は、見せしめのために数日は首を晒されることになる。
雷環広場に李牧の首が晒されていなかったことが、まだ処刑が行われていない何よりの証拠である。

馬を走らせている間、もしも処刑場に駆け付けて、すでに李牧の首が晒されていたらと思うと恐ろしくて堪らなかった。

(間に合った…)

まだ李牧を救出した訳ではないものの、僅かに安堵してしまう。

雷環広場は趙の首府である邯鄲の一角にあり、城下町ということもあってか、大勢の民たちが生活を行っていた。

秦国でもそうだが、このように民が多く出入りしている市場で処刑が行われることは珍しくない。見せしめのために、あえて人の出入りが激しい場所が選ばれるのである。

よって、賑やかな日常の一場面に、罪人の断末魔が響いたとしても、疑問や恐怖を抱く者はいない。

「………」

信は素性を気づかれないように仮面で顔を覆い、背中に背負っている剣を隠すように外套を羽織っていた。

旅人の装いに見えることから、信を怪しむ者はいない。

邯鄲は首府であり、趙の中で一番広い領土だ。外から人が出入りすることは決して珍しくないのだ。

もしもここで自分の素性が気づかれれば、それは李牧の処刑から気を逸らす大きな騒動となり、彼の処刑が延期されるかもしれない。しかし、それが李牧の救出に直結する訳ではない。

一番望ましいのは、二人とも無事に趙国を脱出することだ。

李牧が処刑されることは、まだ秦国で広まっていない。
趙の宰相であった男を、秦国を滅ぼそうと企てた男を秦国へ連れ帰れば、もちろん裏切りだと罵られるだろう。

黙って趙へ行ったことだって謀反の疑いがあると責め立てられ、それ相応の処罰を受けることになるはずだと信は覚悟はしていた。

死罪は免れたとしても、将軍の地位を下ろされるかもしれないし、投獄されることになるかもしれない。

それでも李牧の命が助かるのなら、そんな処罰など喜んで受け入れようと思った。

(桓騎には…ぶん殴られても、手足の一本折られたとしても、文句は言えねえな)

絶対に行くなと引き止めてくれた桓騎のことを考え、信は唇に苦笑を滲ませた。

もしも秦国に李牧を連れ帰ったならば、桓騎から遠慮なく嫌味を言われるだろう。

彼が眠っている隙をついて黙って出て行ったのだから、何を言われても、何をされても許してもらえないかもしれない。

心の中では何度も謝罪をしていたが、彼に伝わることはないだろう。信も許されるとは思わなかったし、恨まれるのを覚悟で李牧の救援のために国を出たのだから。

(お説教や処罰のことを気にするのは後だな…)

信は軽く頭を振って、今は目の前のことに集中しようと考えた。

休まずに馬を走らせ続けていたせいで、体はくたくたに疲れ切っていたが、頭は冴えている。李牧の処刑が目前に迫っているせいだろう。

戦でも似たような経験はあった。体はもう動けないほど疲弊しているものの、気力だけでどうにか剣を振るっているあの感覚だ。

 

(どうやって助けたら…)

ここに来て、信は勢いだけで趙へやって来たことを悔やんだ。頼れる味方がいるのならまだしも、単騎で乗り込んだところで、やれることには限界がある。

李牧が広場に連行されたところで彼を連れ出せたとして、そこから逃走を企てるなら、大勢の市民たちの中に飛び込んで、追っ手を撒く必要がある。

市民たちを脱出の騒動に巻き込んで、傷つけてしまうのは本意ではないのだが、それも覚悟しておいた方が良さそうだ。

救出方法を考えながら、信が邯鄲を歩いていると、ある違和感を覚えた。

(…おかしい)

民たちの賑やかな会話に耳を傾けているものの、李牧の話が聞かれないのである。

趙の宰相であったあの男が、民たちから大いに支持を得ていたことは噂で知っていた。それなのに、彼の処刑どころか、投獄されている話すら聞かれないのは一体何故なのだろうか。

反乱の気を起こさぬよう、民たちには処刑を知らされていないのかもしれない。だが、それが事実だとすれば、李牧が処刑されるために広場に連行されて来た途端、民たちは大いに混乱するのではないだろうか。

その混乱に乗じて李牧を救出する方法も考えたが、もしその機会を失えば、信は目の前で李牧を永遠に失うこととなる。

せめて投獄されている場所が分かればと思ったが、邯鄲城内の牢獄だろうか。

(待てよ…カイネたちはどうした?)

そこで信は一つの疑問を抱いた。李牧に付き従っている側近たちについてだ。

(まさか、あいつらも一緒に処刑されるのか?)

処刑されるのは李牧だけではなく、彼の配下たちもなのだろうか。合従軍の敗北を李牧一党の命で償わせるつもりなのだとしたら、あまりにも惨い。

きっと李牧のことだから、配下たちの命は庇ったはずだ。どれだけ残虐な策を用いる男であっても、仲間の命を見捨てられるような薄情な男ではない。

しかし、悼襄王がその哀願を聞き入れるとは思えなかった。

側近たちの死罪を免れたとしても、処刑の邪魔を刺せないように配下たちも共に投獄されているのかもしれない。

(なんで李牧は…)

付き従っていた配下の命を容易く斬り捨てられる血も涙もない残虐な王に、どうしてあの李牧が忠誠を誓ったのか、信には何も分からなかった。秦趙同盟で再会した時に聞いておくべきだったかもしれない。

しかし、桓騎と同じで、李牧が考えなしに行動をする男ではなかった。

だからこそ、悼襄王に仕えることで、李牧が成し遂げようとしていた何かがあるに違いない。その目的が何なのかを聞いておくべきだった。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

秦趙同盟で再会した時、李牧は信に祖国を捨てて、自分と共に来いと言った。

もちろん秦王も祖国も裏切ることはせず、李牧とは決別を決めたというのに、結局はその誓いを自らで背いてしまった。

「…ん?」

それまで賑わっていた市場が、一変して民たちの動揺による騒がしさに包まれた。

 

(なんだ?)

大きな通りに何頭もの馬が走って来るのが見えた。
馬に乗っているのが血相を変えた役人たちだと分かり、咄嗟に近くにあった露台の裏に身を隠す。

秦将であると素性を気づかれてしまい、捕縛しに来たのだろうかと身構える。

しかし、李牧の処刑のことで情報を得ようと民たちの話に耳を澄ませている間、民たちが自分を怪しんでいる様子はなかったはずだ。信以外にも外套で身を包んだ旅人は大勢いたし、目立つようなことはしていない。

身を潜めながら様子を伺っていると、役人たちが大声で民たちに何かを伝えているのが分かった。

「悼襄王が崩御された!」

―――それが悼襄王が亡くなった報せだと知った信は、驚愕のあまり言葉を失った。

 

 

趙王の崩御

役人から国王崩御の報せを聞き、驚いた民たちだったが、すぐに服喪期の準備が始まっていく。

役人たちによって弔意を表す漆黒の弔旗があちこちに掲げられていき、賑やかだった市場にいた民たちも慌てて家に戻っていく。

普段ならば人の出入りが特に激しいであろう食堂や酒場も、たちまち静けさを取り戻していった。

国王が崩御したとなれば、その死を悼むために、民たちは働くことも好きに出歩くことが許されないし、服喪期が終わるまでは、役所もその他も、さまざまな場所が公休となる。王位継承の儀が終わるまで、つまりは次の王が即位するまで服喪期は続く。

早急に次の王が即位しなければ、民たちは働けず、つまりは大勢が食い扶持を失うと言っても過言ではない。

趙王には二人の子息がいると聞いていたから、そのどちらかが即位することになるだろう。もしも王位継承が煩雑化しているのなら、服喪期は長引きそうだ。

親友である嬴政と、弟の成蟜の王位継承争いを経験していた信は王位継承の複雑さをよく知っていた。

 

国王崩御の報せを届け、弔旗を掲げ終えた役人たちがいなくなると、市場に静寂が訪れた。それまで賑わっていた市場が葬儀一色になり、民たちの姿もまばらである。

露台の裏に身を潜めたまま、信はまさかの事態に戸惑うばかりだった。

病で亡くなったようだと噂が飛び交っていたが、重要なのは死因ではなく、その後のことだ。

(趙王が崩御したんなら、李牧の処刑はどうなるんだ…?)

きっと今の宮廷は次に即位する王を決める話で持ち切りだろう。そんな状況下で李牧の処刑を実行するはずがない。

彼の死罪を命じたのが悼襄王なら、彼の崩御によって、李牧の処刑が無くなることも考えられる。次に即位するであろう悼襄王の子息が、父の意志を継ぐ残虐な男でなければの話だが。

もしも死罪が免れなかったとしても、処刑執行は延期となるはずだ。

そのことに安堵した信は、趙国が国王崩御の喪に服している間に李牧を救出する方法を考えた。

王位継承のことで見張りの兵たちも手薄になっているに違いない。
子息たちの王位継承争いが煩雑化しているのなら、そちらに兵を割くだろうし、その隙に李牧を救出することが出来る。

まずは投獄されているであろう李牧が何処にいるかを捜し出さなくてはと信が前に踏み出した時だった。

 

 

「信」

聞き覚えのある声がして、信は反射的に顔を上げる。

「な…」

声の主を見て、信は驚きのあまり、喉が塞がってしまう。

李牧だった。
傍に控えている配下はいない。拘束されている様子もなく、それどころか死刑囚を取り締まる兵たちの姿もない。これから処刑をされる様子など微塵もなかった。

怪我一つしておらず、疲弊している様子もないことから、とても投獄されていたようには思えない。

(なんで李牧が)

どうしてここにいるのか問い掛けようとしたが、声が出て来なかった。

仮面の下にある彼女の顔が凍り付いたのを見て、李牧は穏やかな笑みを浮かべる。

信は素性を気づかれぬよう、仮面と外套で変装していたというのに、李牧はすぐに彼女だと見抜いたらしい。

「あなたなら来てくれると思っていましたよ」

まるで信がここに来ることを予想していた言葉。
ここで再会出来たことを喜ぶべきなのか分からず、信は呆然とその場に立ち尽くすことしか出来ない。

ゆったりと足取りで李牧が近づいて、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった。

「私を助けに来てくれたんですね?」

「………」

素直に頷くことが出来ないのは、信の胸の中に不安が渦巻き始めていたからだった。

李牧を処刑から救い出すために、全てを捨てる覚悟で趙国へやって来た。しかし、信が邯鄲に到着してから・・・・・・・・・すぐに悼襄王の崩御の報せが広まる。

国王の死を悼むために服喪期が始まったことは当然のことであるが、なぜか違和感が拭えない。

目の前の男は、自分の養父である王騎の命を奪う軍略を企て、秦国を亡ぼす一歩手前まで追い詰めた男である。

その聡明な頭脳で、軍どころか、国を動かすことも容易いはずだ。

しかし、いくら宰相という立場でありながら、本当にそのようなことが可能なのかと信は固唾を飲んだ。

処刑は偽装に違いないだと桓騎は推察していたが、李牧は昔から嘘を吐く男ではない。

―――俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ。

決別を決めた時も、彼はそう言っていた。

共に過ごしていた時も、冗談を言うことはあったが、決して嘘を言うことはなかった。

だから、書簡で知らせてくれた処刑のことも、信は真実だと疑わなかった。心のどこかで李牧のことを信じていたからだ。

だからこそ、ある疑惑が浮かんだ。

 

「此度の崩御によって、釈放されることが決まったんです」

処刑を命じられたのが事実で、しかし、悼襄王の突然の崩御によって彼が無罪放免となり、釈放されたというのなら、李牧は決して嘘を吐いていない・・・・・・・・ことになる。

「まさか…お前…」

信の背筋に冷たいものが走った。

「処刑を免れるために、趙王を」

途中で言葉が途切れたのは、李牧に頬を撫でられたからだった。

「あなたならきっと、私のために来てくれると信じていましたよ」

その言葉の意味を理解するよりも先に、弾かれたように後ろへ飛び退く。背中に携えている剣の柄を握ったのはほぼ無意識だった。

見たところ、李牧は武器らしいものを所持していない。着物の下に暗器など忍ばせているような男ではない。

しかし、彼が素手であっても、信は彼に一度も膝をつかせたことはなかった。

こちらの剣筋を見抜き、あっという間に間合いを詰められて剣を奪われることもあったし、呆気なく膝をつかされることだってあった。

彼とは、これまで通って来た死地の数が違うのだ。着物の下に、それを示す傷痕が多く刻まれていることを信はよく知っている。
彼と肌を重ねる時に、何度もその傷痕を見て来た。最後に肌を重ねた時より、傷跡は増えているに違いなかった。

「今は服喪期ですよ。ここで騒ぎを起こすのは賢明ではありません」

宥めるように声を掛けられて、信は剣の柄から手を放す。

「…お前の処刑がなくなったんなら、もうここにいる意味はねえな」

李牧が生きているのは、自分自身のこの目で確かめた。

どういった経緯で李牧が処刑を免れた・・・・・・のかは、自分の知るところではない。
結果として、彼の救出はもう必要ないのだと分かり、趙国から早急に撤退することを考えた。

辺りを見渡すと、民たちはほとんど市場からいなくなっていた。趙の首府である邯鄲が静寂に包まれている奇妙な光景に、信は気味悪さを感じる。

市場にある厩舎に預けていた馬のもとへ向おうと考えたが、李牧が阻むように道を塞いで来たので、信は仮面越しに睨みつけた。

「信、話をしましょうか」

まるで旧友に邂逅したかのような軽い口調で声を掛けられる。

もう決別は決めたというのに、今さら何を話そうというのか。秦趙同盟の時のように、趙へ来いとでも言われるのかもしれない。

ここに来たのは、李牧を処刑から助けるために来たのであって、決して趙に寝返るためではなかった。

「もう話すことなんて何もねえだろ」

秦趙同盟で彼と決別を決めた信は、冷たく言い放った。
しかし、まるで彼女がそう言うのを予測していたかのように、李牧は口角をつり上げる。

「その性格、昔から変わりないですね。安心しました」

共に過ごしていた頃を懐かしんでいるのか、李牧が目を細めた。

 

 

信は李牧と目を合わさないようにしていた。

長く彼の瞳を見ていると、昔の思い出が蘇って来て、李牧と離れることを躊躇ってしまいそうになる。

それは情に過ぎないことだと信自身も理解していた。しかし、戦場ではたった一つの情でさえ隙を生み出し、命を失うことにもなり兼ねない。

だが、李牧と決別を決めたのは自分自身なのに、彼が処刑されると聞いて、見捨てられなかった。

次に李牧に会う時には、秦の将と趙の宰相という敵対関係であると決めていたのに、それも出来なかった。

ここに来たのは、まだ李牧の存在が心に根付いている証拠だ。桓騎に指摘された弱みでもある。だからもうこれ以上、李牧と一緒にいてはいけない。

彼が生きていたことが分かり、信の心にあった不安の塊は呆気なく溶け去ってき、ここに来てようやく、不安の支配から解き放たれたような気がした。

今や彼とは敵同士であるというのに、相手の命の心配をするだなんて、自分は本当に情に弱い。きっと秦に戻ったら仲間たちに罵声を浴びせられるに違いない。桓騎には容赦なく殴られるだろうと思っていた。

「…じゃあな」

目を合わせないまま、信は李牧に声を掛け、彼の脇をすり抜けようとした。

きっと今度こそ、これが最後の別れだと考えながら、李牧に背中を見せた途端、

「きっと今頃、桓騎はあなたを追い掛けて、趙国こちらへ向かっているでしょうね」

まさかここで桓騎の名前が出るとは思わず、信は驚いて振り返る。

その瞬間、李牧が武器を所持していないことと、殺気を向けられていなかったことに対して慢心していた自分を後悔した。

瞬きをした時はすぐ目の前に李牧が迫って来ていて、片手で首を強く締め上げられていた。

「ぐッ、う…!?」

自分の注意を引くために、李牧はわざと桓騎の名前を出したのだ。信は苦悶の表情を浮かべながら、策に陥ってしまった自分を悔いた。

首を締め上げる李牧の手首に爪を立て、腕を振り解こうと試みる。しかし、その手が外れる気配がない。
未だ合従軍との戦で負傷した体は療養を必要としており、とても李牧の腕力には敵いそうになかった。

男と女の力量差を知らしめるように、彼は薄く笑んでいた。

内側から目玉が押し出される痛みに呻きながら、信は必死に抵抗を続ける。

「ッ、ぅ、う、…」

呼吸を遮断されているせいで、指先までもが痺れていく。
背中に背負っている剣を引き抜こうと腕を持ち上げる余裕もなく、視界に靄がかかっていった。

このままではまずいと、李牧の鳩尾を蹴りつけようしたが、李牧の手が首を締め上げる力を込める方が早かった。

「ッ……」

視界が暗くなったのと同時に、信はそのまま意識の糸を手放した。

 

人質

次に目を覚ました時、一番初めに喉の違和感を感じて、何度かむせ込んだ。
意識を失う前の記憶が雪崩れ込んで来て、信は李牧の姿を探す。

(ここは?)

机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。明らかに客人をもてなすための部屋ではないが、かといって頑丈な格子があるような黴臭い牢獄でもなかった。

締め切られた窓を見て、ここが地下でないことが分かる。蝋燭の明かりだけが部屋を薄く照らしていた。

外の光を遮断しているせいで、今が昼か夜かは定かではないが、きっと李牧がここへ連れて来たのだろう。

「くそ…」

椅子に身体が縄で縛り付けられている。両手は後ろ手に一括りにされていて、自分でこの縄を解くことは困難だと嫌でも理解した。

足だけは縛られていなかったが、縄を解かない限りは立ち上がることもままならない。

当然ながら剣は奪われており、顔と素性を隠すために使っていた仮面と外套も無くなっている。

口に布を噛ませられなかったのは、信が自害する気がないと見込んでのことなのか、それとも舌を噛み切る自由を与えてくれているのか分からなかった。

(なんで俺を殺さない?)

あの場で殺さなかったことは、趙王の崩御が関わっているのかもしれないが、わざわざ敵の将を生かしておく理由が分からない。

李牧のことだから、きっと何か考えがあってのことだろう。人質として利用されるのだろうか。

自分という存在が趙国に渡ったとなれば、親友の嬴政や仲間たちは大いに動揺するだろう。

今回の李牧の救出は完全なる信の独断であったが、かえって仲間たちに迷惑をかけることになり、信は今になって自分の行動を悔いた。桓騎も呆れているに違いない。

「気が付きましたか」

その時、李牧が数人の兵と共に部屋に入って来た。相変わらず李牧は武器を持っていないが、背後にいる兵たちは腰に剣を構えている。

「手荒な真似をしてしまってすみません」

「……、……」

何も答えようとしない信を見ても、李牧が表情を崩すことはない。この状況で優勢なのはもちろん李牧の方で、彼の機嫌次第で容易く命を奪われると分かっていた。

 

「…お前が欲しがるような情報なんざ、俺は持ってねえよ」

あの場ですぐに殺さなかったことから、何か情報を聞き出そうとしているのだろうか。

もしも拷問にかけられたとしても、絶対に口を割るものかと信は歯を食い縛る。

李牧のことだから、自分を活かした理由があるのだとしたら、それは秦国の弱みとなる情報を手に入れようとしているのかと考えた。

しかし、信は内政について一切関与していない。それはきっと李牧も知っているはずだ。だとすれば軍事に関与した情報を欲しているのだろうか。

合従軍の侵攻によって、秦国の領土は多大なる被害を受けたし、今でもその復旧作業や事後処理に追われている。

服喪期に入った趙国がすぐに動き出すとは思わないが、また時期を見て秦国に攻め入ろうとしているのだろうか。

しかし、信の言葉を聞いた李牧は不思議そうに小首を傾げた。

「…私が秦国の情報欲しさにあなたを生かしたと、そう思っているのですか?」

穏やか過ぎる声が信の耳朶を打つ。

「そんなものは密偵に任せておけばいい。私が欲しいのは情報ではありません」

密偵という言葉を聞いた信が切迫した表情で李牧を見た。

「…ああ、武器も持っていないのに拘束しておくだなんて、無粋な真似をしてしまってすみません」

李牧が前に出て、椅子ごと拘束されている信の縄を外し始めた。この状況で抵抗など出来まいと思われているらしい。

(ナメやがって)

李牧と、彼の後ろには、扉を塞ぐように三人の兵たちが立っている。

武器を持ってしても李牧に勝てなかった自分が、素手でやり合って勝てるとは思わなかったし、この人数差では呆気なく取り押さえられてしまうだろう。

窓も外から塞がれているようだし、この部屋から逃げ出すには兵たちの向こうにある扉を通らなくてはいけない。

きっと扉の向こうにも見張りの兵が待機しているに違いない。李牧が警戒を怠るような男ではないことを信は昔からよく知っていた。

「…少々きつく締め過ぎましたね。すみません」

縄を解かれると、李牧は手首に残っている縄の痕を慈しむように撫でた。その優しい眼差しと声色に、信は懐かしさと同時に嫌悪感を覚える。

「触るなッ」

弾かれたように李牧の手を振り払い、信は咄嗟に距離を取った。

拘束は解かれたが、武器を所持していないことからロクな抵抗も出来ないと思われているのだろう、後ろの兵たちが動く気配はなかった。

振り払われた自分の手を見下ろし、李牧はその双眸に寂しそうな色を浮かべる。
しかし、信が瞬きをした途端、見間違いだったのか、李牧の表情はもとに戻っていた。

 

「目的はなんだ。まさか俺が趙国へ寝返るとでも思ってんのかよ」

この状況下でそのようなことを言ったとしても、虚勢を張っているとしか思われないだろう。しかし、信にとってそれは本心だった。

どのような目に遭わされたとしても、自分の忠義が揺らぐことはない。

李牧が処刑されると聞かされた時は私情を優先してしまったのだが、処刑を免れたのならば、もうここにいる必要はない。
帰還すれば、無断で趙国へ行ったことを、趙の宰相を助けようとした罪を、秦将として償うつもりだった。

「あなたのことは昔からよく知っていますよ。そんな安易に国を捨てられるはずがないことも十分に理解しています」

当然のように返した李牧に、信は汗の滲んだ手を握り締めた。

「………」

李牧の瞳が動き、静かに拳を作った手に視線が向けられたことを信は気づいていたが、それを指摘されることはなかった。

「じゃあ、なんで俺を…」

何か考えがあって、李牧は自分を生かしておいたはずだ。

敵国の将軍には、大いに人質としての利用価値がある。
交渉の末、城や領土と引き換えにその命を保証されることもあり、過去にはそれで命を救われた仲間もいた。

しかし、首を晒される辱めを受けるよりも、仲間たちがいる祖国に迷惑をかけることの方が信は耐えられなかった。

李牧が口許に穏やかな笑顔を浮かべたが、その双眸は刃のように冷え切っていて、決して笑っていなかった。

「…あなたが趙国ここにいれば、桓騎は必ずやって来ますから」

その言葉の意味を理解した瞬間、信は目を見開いた。全身から血の気が引いていく。

「お前、最初から・・・・…桓騎を狙ってたのか…?」

思わず口を衝いた問いは、情けないほどに震えていた。

それが正解かどうかを李牧は答えようとしなかったが、少なくとも間違えではなかったのだろう、彼の口許の笑みが深まる。

しかし、その沈黙が答えであると察した信は青ざめることしか出来なかった。

自分が趙国へ行けば、李牧の策が成ってしまうと桓騎は危惧していた。

桓騎が虚偽だと訴えていた処刑は、実際には事実であったとはいえ、悼襄王の急な崩御により、結果として李牧は処刑は免れることとなる。

それを知らず、信は桓騎の忠告を無視して趙国へ赴いたのだが、李牧の目的は、信を呼び寄せることではなかった。

李牧の本当の目的は、桓騎の命だ。

捕らえられた信を救出するために、桓騎は絶対に趙国ここへやって来る。李牧は桓騎の首を取るために、信を利用したのだ。

ここに来てようやく李牧の本当の目的を知った信は、激しい後悔に襲われる。
しかし、ここで懺悔をしている時間はない。

何としても李牧から桓騎を守らなくてはと、信は迷うことなく、その場に膝と両手をついた。

「…何の真似です?」

その行動の真意を尋ねる李牧に、信は俯いて頭を下げながら口を開く。

「どうしたら、何を…したら、桓騎を、見逃してくれるんだよ…?とっとと答えろよ…!」

跪いて桓騎の命だけは見逃してほしいと許しを乞う信に、李牧は苦笑を隠せなかった。

「あなたが頼む立場だというのに、言動が釣り合っていない随分と傲慢な態度ですね。それも桓騎の影響でしょうか?」

「答えろッ!」

両手をついたまま、信が顔を上げて睨みつける。

とても許しを乞うているとは思えないほど無礼な態度だと自覚はあったが、信の頭の中は、自分はどうなってもいいから桓騎を助けることしかなかった。

 

取引

「…それでは、右手の親指を頂けますか?」

李牧が口にした取引の条件に、信は思わず息を詰まらせた。

「親指…?」

自分の命を奪うつもりはないのだろうが、大勢の兵たちが見ている手前、無傷で返す訳にもいかないのだろう。右手の親指だけというのは李牧なりの慈悲かもしれない。

「っ…」

しかし、右手は信の利き手であって、武器を持つことに大いに支障が出る。きっと李牧はそれをわかっていて、指定したのだろう。

信が躊躇っていると、追い打ちを掛けるかのように李牧が淡々と言葉を紡いだ。

「もし布を巻きつけてでも武器を持つようでしたら、残りの指を全て頂きましょう」

その言葉を聞いて、李牧は自分に二度と武器を持たせぬつもりだと確信した。

抵抗する手段を奪うというより、彼のことだから戦に出さないようにする目的があったのかもしれない。

信の存在は、強大な戦力である飛信軍にも、秦国にも欠かせない。
特に飛信軍は優秀な副官や軍師が揃っていても、信の存在がなければ士気に大きく影響が出る。それはきっと李牧も分かっていたのだろう。

しかし、指の一本なら命よりも安い。ましてや、桓騎の命を救えるのならと、信は迷うことなく彼の要求を呑んだ。

「…わかった。剣を貸せ」

もちろん承諾したのは建前であって、信はまだこの場からの脱出を諦めていなかった。

これ以上、李牧の策通りに動いてたまるかという憤りと、桓騎の言葉を信じなかった自分への怒りで支配されていた。

彼女の潔い返事に、李牧も迷うことなく、後ろで待機していた兵が持っていた剣を受け取る。そしてそれを信へ差し出した。

「どうぞ」

それは信から押収していた剣だった。秦王から授かった、信と幾度も死地を共にした剣である。

ここに来て都合よく自分の剣を渡されたことに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

(まさか、この取引まで李牧の策通りなのか?)

 

自分が趙国に来ることも、桓騎が追い掛けて来ることも、桓騎の命を見逃してもらう代わりに信に指を落とせと命じたことも。一体いつから李牧の策に嵌められていたのだろうか。

しかし、信は李牧の命令通りに、指を切り落とすために息を整えた。

左手で渡された剣を握り、信は机に右手を置く。何度か柄を握り直し、決して狙いを逸らさぬように構える。

すぐ目の前にいる李牧から鋭い眼差しを向けられていることにも気づいていたし、周りの兵たちも緊迫した空気の中で佇んでいた。

(…李牧と、扉の前に兵が三人、きっと外にも見張りの兵がいる。李牧は武器を持っていない。李牧を人質に、逃走用の馬を奪うか用意させるしかない)

信は指を落とすことに緊張をしている演技を続け、頭の中でこの場からの脱出の図を描いていた。

もとより人数差があり過ぎる。無茶を承知で乗り込んで来た代償が今になって全て降りかかって来たのだ。

救援など一切期待が出来ない状況で逃げ出すとなれば、やはり李牧を人質に取るしか手段はないだろう。

本当に処刑を免れたならば、李牧の宰相としての地位はそのままであるに違いない。

つまり、合従軍との敗戦の事後処理に追われている今の状況下で、これ以上の混乱を招かぬために、趙国はなんとしても李牧を失う訳にはいかないはずである。人質の価値は十分にあった。

「…怖気づきましたか?」

もう迷っている時間はない。からかうように声を掛けて来た李牧を一瞥し、信は低い声を放つ。

「黙ってろよ」

信はもう一度呼吸を整えてから、剣の柄を握り直した。

(失敗は許されない。桓騎のためにも、秦のためにも)

ここで脱出の機会を失えば、李牧の策通りになってしまう。
もしかしたら、自分と桓騎という多大なる戦力を失った秦国に、再び攻め入ることまで企てているかもしれない。

何としても失敗する訳にはいかなかった。

右手の親指を切り落とすために、剣を握っている左手を思い切り振り上げ、信はすぐに行動に出た。

その場にいる全員が信の行動に注視していたが、全員がそのまま命令通りに右手の親指を落とすと疑わなかっただろう。

「はあッ!」

誰もが縦に振り落とされると思っていた剣筋が、目の前の李牧に向けられる。

急所である喉元を突くつもりではあったが、趙国から脱出するまでの人質としての価値があるので、信は李牧を殺すつもりはなかった。

しかし、その生半可の殺意が、皮肉にも勝敗を分けたのである。

 

 

剣を振るった瞬間、李牧は驚く様子もなく、後ろに引いて斬撃を回避する。

信が剣を振り切った直後、李牧はすぐに間合いに入り込むと、追撃を許すことなく彼女の体を押さえ込んだのだった。

その動きは、幾度も死地を駆け抜けた直感というより、初めから信がこうすると分かっていた反撃だった。

「―――ぐッ!?」

気づけば信は思い切り顎を床に打ち付けており、李牧から凄まじい力で頭と身体をうつ伏せに押さえ込まれていた

「…ああ、残念です。あなたは私と違って、卑怯者ではなかったはずなのに」

少しも残念そうに思っていない李牧の声が頭上から降って来たかと思うと、左手首を捻り上げられる。

彼女の反撃を予想していたものの、本当に反撃を行ったことをまるで惜しむような口ぶりだった。

「うぁあッ!」

骨を折られる寸前まで容赦なく力を込められて、口から勝手に悲鳴が上がった。失敗の二文字が脳裏を過ぎる。

痛みに剣を手放してしまい、床に転がった剣が鈍い音を立てた。それを合図に待機していた兵たちが、李牧と入れ替わりで信の身体を取り押さえる。

彼らの表情は驚愕と焦燥に歪んでおり、恐らく信の反撃を見抜けなかったに違いない。

「くそッ、放せ!」

さすがに二人の男に抑えられてしまえば、信も抵抗が出来なくなる。

両腕を背中で押さえられ、肩も押さえ込まれると、顔を上げるくらいしか叶わない。脂汗を浮かべて、信は自分から離れた李牧のことを睨みつけた。

このまま首を落とされるかもしれない。もとより自分の命を捨てて趙に乗り込んだのだから、死への恐怖心は微塵もなかった。

ただ、無様に首を晒されるようなことだけは、秦のためにも避けねばならない。

いっそ自ら喉を掻き切ってしまおうと信は覚悟を決めた。無傷で帰還出来るとは考えていなかったし、失敗すれば死しかないことだって頭では理解していた。

どうにか拘束を振り解いて剣を手にしなければ、抵抗も自決もままならない。

「大人しくしろ!」

「うぐッ…」

信が暴れれば暴れるほど、兵たちも押さえつけようと力を込めて来る。

剣を奪い返すよりも、舌を噛み切った方が早そうだ。信は深く息を吸い込んでから口を閉ざした。

尚も無言の抵抗を続ける信を冷たい眼差しで見下ろし、李牧が静かに口を開いた。

「…あなたが全てを捨てる覚悟でここに来てくれることは分かっていました。いえ、そう信じたかっただけかもしれませんが」

信を見下ろすその瞳は刃のように冷え切っていたが、掛ける言葉は穏やかで優しいものを感じさせる。

李牧の言葉を聞き入れるものかと、信は舌を噛み切るために歯を立てる。

「きっと桓騎も、あなたが説得を聞かずに私のもとへ来ることを分かっているでしょう。今頃は馬を走らせてこちらへ向かっているはず」

「…っ」

まるで桓騎の行動を予見するような発言に、信は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうなおぞましい感覚を覚える。

舌を噛み切ろうとしていた信は、李牧の口から再び桓騎の名前が出たことに、思わず息を詰まらせてしまう。

顔を上げると、李牧が薄く笑みを浮かべていて、それは彼が企てた策通りに事が進んでいることを直感させた。

「秦趙同盟の時、あなたを動かせば桓騎も動くのだと分かりました」

淡々とした口調で李牧が語っていく。

「いくら奇策の使い手とはいえ、彼も人間ですからね。弱点というのは安易に見せてはならないものですよ」

自分が死ぬだけならまだしも、桓騎が殺されてしまうと直感的に悟った信は、喘ぐような呼吸を繰り返して、李牧に縋りつくような眼差しを向けた。

自分という存在が、桓騎の弱点であることを、どうしてここまで軽視していたのだろう。

「や、やめ…やめてくれ、頼む…!桓騎、桓騎だけは…!頼む…」

弱々しく首を振って、信は必死に懇願する。
一度は跪いて懇願したのだから、もうなりふり構っていられなかった。

「俺の命はどうなってもいい!だから、頼む…おねが、お願い、します…」

兵に押さえつけられながら、信は床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。
自尊心など微塵も残っておらず、何としても桓騎の命だけは見逃してもらおうと許しを乞う。

「…妬けるな」

溜息交じりに李牧が低く呟いたので、機嫌を損ねてしまっただろうかと不安に身体が竦んでしまう。
しかし、信は顔を上げることなく、額を床に押し付けたまま必死に哀願を続けた。

「とても、妬けますよ、信」

信の前に片膝をついた李牧が手を伸ばして、彼女の顎に指を掛けて、目線を合わせて来た。

 

その瞳には慈しみを感じさせるような優しい色が浮かんでいたが、なぜか信の目には恐ろしく映り、背筋は凍り付いた。

「私があなたのもとを離れる時は、そこまで止めてくれなかったのに」

あの雨の日のことを懐かしむようにそう言うと、信が口角を引き攣らせた。

「…どうせ、あの時…俺が止めたって、お前は、聞かなかっただろ…」

「それもそうですね」

あっさりと頷いた李牧は信から手を放して、自分の顎を撫でつけた。

「共に過ごした時間が長ければ長いほど、あなたは慈愛によって執着をするようになる」

執着という言葉に反応したのか、信が眉根を寄せた。

愛と執着は似て非なるものではなく、同じものだ。愛おしいからこそ追求したくなる。手に入れたいという欲求は、愛するからこそ湧き起こる人間の本能だと言ってもいい。

「…だからこそ、お前は桓騎を選んだ」

信がよく知っている・・・・・・・・・口調で、李牧は低い声を発した。

 

交渉決裂

「…は、ははッ」

引き攣った笑いを顔に貼り付けながら、信は最後まで抵抗の意志を示す。

どれだけ自分が懇願しても李牧が聞いてくれる気配はなかった。桓騎の命を奪おうとするのなら、何としてもここで李牧を殺すしかない。

「一人で逝くのが寂しいって言うんなら、お前が死んだのを見届けてから、すぐに後を追ってやるよ…!」

自ら命を絶つのは、李牧を手に掛けた後でも遅くはない。

もとより桓騎の反対を押し切って秦国を出て来たのだから、無傷で戻れるとは思っていなかったし、犬死する覚悟も出来ていた。

全ては秦趙同盟での李牧との決別を受け入れられなかった自分の甘さゆえに招いた結果である。桓騎と秦国を守るためには、ここで刺し違えてでも李牧を討たねばならないと直感的に悟った。

「それは是非ともお願いしたいですね。約束ですよ?」

形だけの笑みを浮かべた李牧が床に片膝をついたかと思うと、信の前髪を強引に掴み上げた。逸らすことなどしないというのに、無理やり目線を合わせて来る。

「私が死んだら、必ず追い掛けて来てください。あなたが先に死んだら、私も必ず追い掛けますから」

「ッ…!」

自分を見据える双眸はどんな刃よりも透き通った冷たい鋭さを秘めており、しかし、溶岩のように触れられないほど熱くてどろどろとしたものも彷彿とさせた。

初めて李牧のそんな恐ろしい顔を見た信は思わず息を詰まらせてしまう。その反応に満足したのか、李牧は信から手を放した。

「…随分と喋り過ぎましたね」

反省したかのように独り言ち、李牧はずっと信のことを押さえつけている兵たちに目を向けた。

「しっかり押さえていてください。医者の手配も済んでいますね?」

「はっ。隣の部屋に待機しております」

冷静な様子で話を進めていく李牧と兵たちの下で信は狼狽えた。一体李牧はこれから何をしようとしているのだろうか。

「ま、待て…!李牧、はな、話はまだ…」

必死に訴えても、李牧はもう何も答えようとしなかった。兵から布を受け取ると、それを信の口元へと宛がう。

「んんッ!」

布を咥えさせられたのは、舌を噛まないようにする配慮なのか、それとも騒がしい口を塞いだだけなのか信には分からなかったが、李牧のことだから両方かもしれないと思った。後頭部できつく布を結んでから、李牧はゆっくりと立ち上がった。

「っ!んんッ、うぅ!」

右腕を伸ばされた状態で固定される。それから、李牧が床に落ちていた信の剣を手にしたのを見て、冷や汗が止まらなくなった。

(まさか、こいつ…!)

剣を手にした李牧の行動に、一切の躊躇いがなかったことから、本気で自分の右腕を落とそうとしているのだと気づいた。

 

彼は自らを卑怯者と名乗る男だった。しかし、冗談は言うことはあっても、嘘を吐かない誠実さがある。

自分が大人しく右手の親指を落としていれば、きっと許すつもりだったのだろう。しかし、今となっては全てが手遅れだと、信は認めるしかなかった。

(まずい!)

くぐもった声を上げながら、信は必死に身を捩って抵抗を試みる。

「ん、んんーッ!」

塞がれた口で懸命に制止を訴えるものの、李牧はもうこちらを見向きもしなかった。

「暴れるな!」

兵たちも暴れる彼女を取り押さえるために、さらに力を込めて来た。

このまま右腕を失えば、武器を振るえなくなる。それはすなわち、李牧への勝算がなくなるということだ。

武と知恵、そのどちらで対抗したとしても、信は一度だって李牧に勝てたことがない。隻腕で武器を振るったところで、敗北は目に見えている。

相手が李牧でないとしても、慣れない隻腕で剣を振るったところで、何の抵抗にもならないだろう。今のように、易々と兵たちに押さえ込まれるに違いない。

足を奪われないとしても、利き腕を奪われることは、脱出の手段を失うのと同じであると言っても過言ではなかった。

手首の辺りに刃が振り落とされるよう、一人の兵が信の手を、もう一人が背中から覆い被さるようにして肩と肘を押さえ込む。

床と兵に上下に挟まれて完全に動けなくなってしまった信は、声を上げることしか抵抗する術がなくなってしまう。

「ふッ、ぅう、うーッ、んんーッ!」

必死に呼び掛けるものの、李牧は冷たい眼差しを向けて、柄を握り締めている。

右手の甲をゆっくりと足裏で踏みつけ、手首の辺りで剣の切先をゆらゆらと動かしている。切り落とす位置を見定めているようだった。

「信」

穏やかな声色で名前を呼ばれ、信は冷や汗を流しながらも、過去に愛していた李牧のことを思い返した。

見逃してくれるのかと僅かに希望を抱きながら顔を上げると、彼は静かに笑んでいた。

「これは、あなたが招いた結果ですよ」

冷ややかに李牧がそう言い放った、次の瞬間。

無慈悲にも刃が振り落とされて、自分の右手首の肉と骨が断たれる瞬間を、信ははっきりと見たのだった。

 

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