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フォビア(蒙恬×信←桓騎)番外編②後編

フォビア6
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  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/桓騎×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

企み(桓騎×信)

馬に揺られながら、信はこれからどこへ連れて行かれるのかを考えていた。

堕胎薬さえ手に入ればもう桓騎に用はない。着物の左袖に懐に薬包紙をしまったのは見ていたし、自分を抱き込むように手綱を握っている今なら奪えるのではないかと考える。

しかし、桓騎は勘の鋭い男だ。自分がここに来た理由も目的も事前に知っていたのならば、今自分が何を考えているのかも見越しているかもしれない。

(そういえば…)

信の懐妊を知っているのは彼女自身と、懐妊を告げた老医と蒙恬。それから家臣たちだけだ。家臣たちには老医か蒙恬が告げたかもしれないが、桓騎はどこでその話を知り得たのだろう。

屋敷に忍び込んで盗み聞きをしていたとは思えないし、桓騎の配下が監視していたとは思えない。そこまで彼は蒙恬や自分に興味を抱いていないはずだ。

ましてや、蒙恬が桓騎に告げたとは考えられなかった。桓騎が忠誠を誓っていたのは蒙驁で、将の位だと桓騎は蒙恬よりも上である。
蒙驁の孫とはいえ、自分より下の立場にある蒙恬に関わるとは思えなかった。

信が桓騎と会うのは随分と久しぶりのことで、最後に会ったのは恐らく桓騎軍の兵と娼婦たちを殺めた時だ。信自身、その当時のことは記憶に靄が掛かっていて覚えていないのだが、あれから桓騎とは一度も会わなかった。

蒙恬との婚姻が決まり、飛信隊の将の座を降りる時も、祝いの言葉を掛けられることはなかったし、もう二度と会わないとばかり思っていた。

(何でこいつ、今になって・・・・・現れた?)

桓騎に従うことは取引だと頭では理解しつつも、嫌な予感が拭えない。

自分の知らないうちに、彼の策通りに進んでいるのではないかという不安を覚え、信は僅かに怯えた瞳で振り返った。

目が合うと、桓騎は何も言わずに口角を吊り上げる。自分の嫌な予感が当たったと確信するには十分過ぎるほど、おぞましい笑みだった。

「ッ!」

咄嗟に馬から降りようとするものの、もともと桓騎に背後から抱き込まれるように手綱を握られていたので、簡単に阻止されてしまう。

「おい、危ねえだろ」

馬から降りたところで、この左足では走ることは不可能だ。それでも馬の入れない小道や建物の中にでも入り込めば、もしかしたら逃げ切れるかもしれない。

「放せッ」

腕の中で暴れる信に、桓騎が舌打つ。
それから彼は迷うことなく手綱を信の細い首に引っかけた。

「っ、ぐ…!」

巻き付けた手綱で容赦なく首を締め上げると、呼吸を遮られた信が手綱を外そうと首に手を伸ばす。

「このまま白老の孫んとこに帰るか?」

手綱で信の首を締めながら、桓騎が耳元で問い掛けた。

「っ、ぁ…、…」

必死に首を横に振る。
蒙恬のところには戻りたくないが、いっそこのまま殺される方が良いのかもしれないと考えていると、手綱が解かれた。

 

「げほッ…」

激しくむせ込んだ信が必死に呼吸を再開する様子を見て、桓騎はまた笑った。

「今さら逃げ出して、どこへ行く気だ?」

桓騎の冷たい声が降って来る。当てもないくせに、と残酷な言葉が続くような気がした。

(そうだ…俺、逃げても…どこに行けば…)

将軍への道は絶たれてしまった。蒙家に嫁いだ立場で今さら将へ戻ることなど許されない。
それは強要されたことではなく、飛信隊の兵たちの命を守るために、自ら選んだ道である。

きっとこれは、桓騎軍の兵と娼婦を殺した罰なのだ。

大人しくその罰を受け入れれば良いだけの話なのに、養父の背中を追い掛けて目指していた将軍への道を絶たれたことが信の心に未だ深い傷を残している。

養父を失ったあの時、早々に首を括れば良かったのだ。
そうすれば後ろ盾を失った自分の立場の弱さも、王賁の子を身籠り、その命を失う悲しみも知らずに済んだだろうし、ずっと友人だと思っていた蒙恬から凌辱を受けることもなかったに違いない。

いっそ何も分からなくなるくらい、蒙恬に酷い凌辱を受ければまた違っただろう。

しかし、蒙恬は残酷なまでに信を愛し、信の腹に宿る尊い命と、飛信隊を人質に取った。

その愛情と優しさが恐ろしくて、彼から逃げ出せばきっと楽になれるはずだと疑わずにいるのである。

欲しいもの・・・・・があるんじぇねえのか?」

大人しくなった信を見下ろして、桓騎が薄ら笑いを浮かべながら耳元で囁いた。
蜂蜜のように甘く、どろどろと意識を絡め取られ、信は生唾を飲み込んだ。

「………」

先ほど見せられた薬包紙を思い出し、信は静かに唇を噛み締める。

そうだ。堕胎薬を手に入れるために桓騎の手を取ったことを忘れてはいけない。

桓騎が何かしらの策を企てていたとしても、堕胎薬さえ手に入れられれば、信の策は成り立つ。
今は何としても耐えなくてはと、信は奥歯を噛み締める。

その瞬間、急に視界が何かに覆われて真っ暗になり、信は驚いて悲鳴を上げそうになった。

「なっ、何…!」

布で目元を覆われているのだと気づき、信は布を両目に押し当てている桓騎の手を剥がそうとした。

「黙ってろ」

布の両端を頭の後ろできつく結ばれる。
目を覆われたことと、桓騎が目的地も教えないことに繋がりがあるような気がしてならなかった。

場所を知られては面倒になると思われているのだとしたら、桓騎の屋敷へ向かっているのかもしれない。

大将軍として豊富な給金だけでなく論功行賞での褒美もあり、金には一切不自由をしていなさそうな男だが、大将軍の中でも彼の屋敷の場所の所在だけは誰も知らなかった。

屋敷の場所が知られていない、つまりは桓騎が誰にも教えていないということは、彼が自分の配下たち以外を信頼していないからなのか、別の理由があるからなのか、信には分からなかった。

敵味方関係なく残虐に命を奪う男だ。恨みを買っている自覚があって、報復されないように屋敷の場所を内密にしているのかもしれない。

桓騎のことだから何か別の理由も考えられたが、どちらにせよ、桓騎を尋ねて屋敷に赴く用事など一度もなかったし、もしも屋敷の場所を知ったところで興味などなかった。屋敷の場所を他者に告げ口をされるとでも思われているのだろうか。

「………」

真っ暗闇の視界の中で馬に揺られ、背後には桓騎がいる。もしかしたら連れて行かれた先で首を切られるのではないだろうかという形のない不安に胸が支配され、信は僅かに息を速めた。

未だ薄い腹に手をやり、中で眠る小さな命のことを考える。

自分のせいで一度ならず、二度までも、この命を散らせなくてはならないのかと胸が締め付けられるように痛んだ。

 

企み その二

しばらく馬に揺られていたが、目的地に着いたのか、ぴたりと動きが止まった。

先に桓騎が馬から降りた。未だ目隠しは外されていないが、自分も降りるべきなのだろうかと考えていると、ぐいと手首を引っ張られた。

「う、うわっ…!?」

馬上から引き摺り下ろされる。浮遊感と落下の痛みに構え、目隠しの下で咄嗟に目を瞑る。
しかし、背中と膝裏に手を回された感覚があって、どうやら桓騎に横抱きにされているようだった。

「じ、自分で歩けるッ」

まさかこの男に抱えられるとは思わず、信は目隠しをされた状態で身を捩った。

「こっちの方が早い。暴れたら落とすぞ」

「っ…」

脅迫めいた言葉を告げられ、信は大人しく腕の中で縮こまる。

ここが桓騎の屋敷だとしたら、彼の側近たちもいるのだろうか。下手に騒ぎを起こせば、信が仲間討ちしたことを未だに値に持っている者から報復を受けるかもしれない。

桓騎軍の残虐性は十分に知っている。女でも子供や老人であっても構わずにその身を細かく刻み、家畜の餌にしたという話も聞いていた。

じっとしていると、重厚感のある扉が開かれる重い音が鳴り響いた。桓騎の屋敷だろうか。

桓騎は信の体を両腕で抱いているので、誰かが扉を開けてくれたらしい。ここが桓騎の屋敷だとして、しかし一言も声を掛けられないのは、主の腕の中に部外者がいるからなのだろうか。屋敷の場所を洩らさぬよう、徹底しているのかもしれない。

幾度か扉を潜り、廊下を進んである部屋に到着する。

「うっ…!」

ようやく目的地に着いたのか、信は乱暴に身体を放り投げられた。
柔らかい寝具が背中に当たったことから、寝台の上に落とされたのだと気づくと同時に、信は目隠しの布を取った。

「とっとと目的を言え!」

こちらは時間がないのだと切迫した表情で怒鳴りつけると、桓騎はまるで怒りを煽るように、口角をつり上げた。

きっと今頃、蒙恬か侍女が信がいないことに気づき、屋敷では捜索が始まっているに違いない。

逃走を企てたことによって、蒙恬が飛信隊を消し去る計画を実行に移しているのではないかと思うと、気が気でなかった。

蒙恬が話していたのは戦場でしか成し遂げられない策ではあったが、聡明な頭脳を持つあの男が、隊を一つ潰すなど簡単に違いない。

一刻も早く堕胎薬を手に入れて処罰を受けなくては、自分のせいで仲間たちが殺されてしまう。

「ほらよ」

桓騎は先ほど着物の懐にしまった堕胎薬を取り出すと、信へ手渡した。
ここまで連れて来ておきながら、随分とあっさり渡してくれたことに信は嫌な予感を覚える。

桓騎の手から薬を奪い取ると、信はすぐに薬包紙を開き、中身を口に含もうとした。

「えっ…?」

薬包紙の中がだと気づいたのは、その時だった。

 

信のこめかみに熱くて鋭いものが走る。

「騙したなッ」

怒りのあまり、桓騎の胸倉を掴みかかろうとするが、呆気なくその腕を掴まれてしまう。

「騙した?お前が欲しいもんじゃなかっただけだろ?これがお前の望んでいる物だなんて、俺は言った覚えはないぜ」

掴まれた腕を振り解くことも出来ず、それどころか力を込められると、痛みに藻掻くことしか出来ない。

呆気なく体を組み敷かれてしまい、無様なまでに弱くなった自分を認めざるを得なかった。

「いや、いやだッ、放せ、放せよッ」

自分の下で力なく暴れる信に、桓騎は一切の情けを掛けることなく、高らかに笑った。
耳障りな笑い声に信はますます怯えてしまい、幼子のように泣き喚いている。

「お、俺のことが、憎いなら、さっさと殺せば良いだろッ」

「憎い?」

不思議そうに桓騎が聞き返したので、信は怯えながらも言葉を紡いだ。

「俺が、お前の仲間を、殺したから…!」

それは記憶にはないものだったが、変えられない事実である。
過去に信は桓騎軍の兵と娼婦を殺めた。信の記憶にはないのだが、合わせて十三人の命を奪い、本来なら仲間討ちの罪に問われて、死罪になっているはずだった。

蒙恬の情報操作によって、その事実は今でも隠蔽されているが、桓騎と桓騎軍の兵たちはそのことを今でも覚えているに違いなかった。

だからきっと、これは桓騎の復讐なのだと信は疑わなかったのである。

「憎いなら、一思いに、殺せよっ…」

叫ぶように訴えると、桓騎は呆気にとられた表情になり、静かに肩を震わせる。

彼が込み上げる笑いを堪えているのだと信が気づくまでに、そう時間は掛からなかった。
やがて、ギャハハと大らかに笑った桓騎に、信は気圧されたように縮こまる。

「まさかお前、楽に死なせてもらえるとでも思ってんのか?」

残酷な言葉が降って来る。
桓騎が配下を殺されたことを憎んでいるのかは分からなかったが、自分を甚振ろうとしているところを見る限り、少なくとも何とも思っていない訳ではなさそうだ。

骨ばった手に腹を撫でられて、信は反射的にその手を弾く。腹を庇うように、両手で腹を覆った。

「や、やめろッ…」

そう言うと、桓騎が一瞬目を見開き、それからまた肩を震わせて大笑いを始める。

「へえ?本当に孕んでたんだな。てことは堕胎薬だと思ったのか?」

「ッ…!」

腹を庇った彼女の行動に、今ここで初めて信の妊娠を知った言葉を洩らす。驚きのあまり、信は息を詰まらせた。

そうだ。今まで桓騎は、薬包紙の中身が堕胎薬だと一言も口にしていなかった。自分が堕胎薬を求めるあまり、勝手に桓騎が堕胎薬を持っていると信じ込んだのだ。

狼狽える信を見て、桓騎の口角がますますつり上がっていく。

「殺せって言うわりには、まだ死にたくないって顔だな」

堕胎薬を手に入れようとしているくせに、腹の子を守ろうとしている矛盾じみた信の行動に、桓騎が肩を竦めるように笑った。

 

 

着物の襟合わせを開かれて、信は青ざめた。目の前にある桓騎の下衆な笑みに鳥肌が止まらない。

「な、何ッ…!」

桓騎の骨ばった手が再び信の下腹部を撫でたので、反射的に体が強張った。

「堕ろしたいっていうんなら、ここ子宮の入口抉じ開けて、俺ので、中のガキを掻き出してやるよ」

その言葉が耳から入って脳に染み渡るまで、しばらく時間がかかった。

「放せッ!このくそ野郎ッ!」

桓騎の下から逃げ出そうと身を捩るが、強い力で抑え込まれてしまう。
まだ大きく膨らんでいない下腹部に視線を向けながら、桓騎が小首を傾げた。

「父親は白老の孫と王翦のガキのどっちだ?」

その問いに、胸に鉛が流し込まれたかのように、息が苦しくなった。

信が妊娠していたことは今知ったようだが、父親が蒙恬ではなく、王賁の可能性があることまで知っていたことに、信は驚きを隠せなかった。

もちろん蒙恬は、信が王賁の子を身籠っている可能性も知った上で彼女を娶った。

王一族の集まりがあったあの日に、友人だと信じていた二人に凌辱された時のことは今でも悪夢として思い出す。

今でもその悪夢に魘されることは珍しくないし、自分を追い詰めた蒙恬の腕の中での目覚めといえば、最悪という言葉に尽きる。

今でもまだ悪夢の中にいて、目覚めていないだけではないかと思うことがある。
全てが悪夢なのだとしたら、きっと今のこの状況も、この光景も、桓騎との会話も全てが夢に違いない。

(早く、目を覚ませ、覚ましてくれ)

早く悪夢から目覚めるように、信は何度も自分に訴えかける。

「う…うぅ…」

しかし、夢から覚める予兆はなく、桓騎の手が肌を撫ぜる嫌な感触をはっきりと感じた。
青ざめたまま、歯を打ち鳴らしている信を見下ろして、桓騎はやはり笑うのだった。

 

 

信の胸元に幾つも散らばっている赤い花弁や、手首に残る指の痕を見れば、彼女が異常なまでに男から愛されていることが分かる。
きっと左足の捻挫も、転倒して出来たものではないだろう。

女の愛し方をとやかく言うつもりはないが、白老の孫がこれほどまでにこの女に執着しているとは意外だった。

着物を脱がしても、抵抗する素振りを見せない。むしろ大人しくしていた方が早く終わるとでも言いたげな、全てを諦めたような態度だった。

それなのに、蒙恬のもとから逃げ出した理由は何なのだろうか。

もうその身に子を孕んでしまったのだから、全てを投げ出して、その身を委ねてしまえば良いのに、まだ信の中で諦め切れていないものがあるのかもしれない。

堕胎薬を手に入れようとしていた彼女の行動からは、生きたいという意志がまるで伝わって来なかった。

腹の子の父親が誰であろうと、今の信が蒙恬の妻という立場である以上、子の父親は蒙恬だと認識されている。
堕胎薬を内服しようとしたことが知られれば、名家の嫡男である夫の子を殺そうとした罪で、罰せられるに違いない。

そんなことは信も分かり切っているだろうに、どうしてわざわざ自らの首を締めるような真似をするのか。

そこまで考えて、それこそが信の狙いであると桓騎は気づいた。

今頃はどうやって蒙恬から逃れようか、一刻も早く楽になれる方法を考えているのかもしれない。

もしかしたら自分と身を重ねたことを打ち明けて、不貞の罪で首を跳ねられようと考えているのかもしれなかった。

そんなまどろっこしいことを考えるくらいなら、自ら首を掻き切れば良いものを、それをしないのは腹の下で眠る子のためなのだろうか。そうだとしたら、そんなものは偽善でしかない。

自ら命を絶とうが、他者に罰せられようが、腹の子の命共々失うだけだ。そんな簡単なことも考えられないほど、信の心は弱り切っているらしい。

自分の下で震えながら、何かを堪えようと拳を握る彼女を見ても、同情するつもりはなかった。

 

フォビア(蒙恬×信)

つい先ほどまでひっきりなしに悲鳴が聞こえていた部屋の扉を開けると、噎せ返るような独特な臭いが立ち込めていた。

それが男と女がまぐわっていた情事の香りだと分かったのは、蒙恬自身がこの香りをよく知っているからである。

「………」

もう日が沈みかけているのだが、部屋の中には明かりが点いていない。
薄暗い部屋の中に信はいた。だらりと四肢を投げ出して床に倒れている信の姿を見つけて、蒙恬はゆっくりとした足取りで歩み寄る。

乱れた着物と彼女の脚の間から白濁が溢れているのを見えたが、血は混じっていなかった。

捻挫をした左足首はまだ赤く腫れ上がっていたが、骨が折れている訳でもないし、今さら急いで処置をする必要もないだろう。

信の瞼は閉じておらず、虚ろな瞳のまま宙を見上げている。頬には涙の痕が幾つも伝っていて、未だに虚ろな瞳は大粒の涙で濡れていた。

「…信」

声を掛けても、彼女の意識は朦朧としているようで、蒙恬が迎えに来たことにも気づいていないらしい。

傍では桓騎が椅子に腰掛けて酒を煽っていたが、蒙恬の方を一瞥しただけで、何も話そうとしない。信にも蒙恬にも、もはや興味がないのだろう。

「信、信、起きて」

体を屈めて優しい声色で名前を呼ぶと、信の体が火傷でもしたかのように跳ねた。
虚ろな瞳の焦点が合い、顔を覗き込んでいる蒙恬の姿を捉える。

「ぁ、ぁあ…ぁ…!」

何か言いたげに唇を動かすが、上手く言葉を紡げず、無意味な音を発していた。抵抗しようとして押さえつけられたのだろう、手首に指の痕が残っていた。

「帰ろう?信」

そっと頭を撫でてやり、優しい笑みを浮かべる。しかし、信は震えるばかりで返事もしようとしない。

「…それとも、ここに残る?」

「や、…ぃ、や…!」

わざとそう問い掛けると、泣きながら信は首を振って、蒙恬の胸に飛び込んだ。
啜り泣きながら、胸に埋めたまま体を震わせ続ける信に、よほど恐ろしい目に遭ったのだと分かる。

左足の捻挫もあり、もはや自力で立ち上がることも出来ないほど怯え切っているようだった。

蒙恬は彼女の背中を膝裏に腕を回すとその体を軽々と抱き上げた。赤子が眠る腹を持つその体は、驚くほどに軽かった。

「…どーも」

部屋を出る間際、蒙恬は視線を向けることなく桓騎に礼を述べた。当然、返事はなかった。

 

 

待たせていた馬車に乗り込んでも、信は蒙恬から離れようとしなかった。

未だに身体の震えは止まず、散々泣き叫んでいただろうに、涙が止まる気配もない。それはまだ彼女の心が壊れていない証拠だった。

その態度からようやく反省したのだと分かると、蒙恬の乾いていた心にも少しだけ潤いが戻って来る。きっと乾いた心に降り注いだのは、信の涙だろう。

脱走を試みた信の左脚を捻った時に改心してくれることを願っていたのだが、それでも逃げ出したのは、信自身が招いた結果であり、自分の躾が足りなかった証拠だ。

躾を多少やり過ぎた・・・・・・・・・という自覚はあったが、徹底的に教え込まなければ、彼女はまだ自分から逃げ出すに違いない。
躾という名目で、あの男に妻を預けたことを、蒙恬は微塵も後悔していなかった。

「…信?」

名前を呼ぶと、信の肩がびくりと跳ねた。
怒っていないと教えるように、優しい手付きで蒙恬は彼女の震える背中を擦ってやる。

「俺もね、色々考えたんだ。どうやったら信が学んでくれる・・・・・・のかなって」

「…、……」

考えたのは安易な計画だった。
一度でも痛い想いをすれば、動物というものは学習するもので、人間もそれは同じだ。

諦めて全てを投げ捨てて、妻としての役割を全うすれば良いものの、彼女が今の状況に耐え切れず、自分のもとから逃げ出すことは予想していた。

しかし、どれだけ追い詰められても彼女が自ら命を絶つことが出来ないのは、他でもない腹の子のためである。

王賁の子種か、それとも蒙恬の子種で実った命かは分からないが、信にとってはかけがえのない存在なのだから、彼女が簡単に見捨てることが出来るとは思わなかった。

以前、王賁との子を身ごもった時、その尊い命が散ってしまったことを彼女は今でも悔いている。

だからこそ、彼女が再び自責を感じないように、他者によって命を切り捨てられることを選ぶと、蒙恬は分かっていた。

そして信は、蒙恬が自分の命を切り捨てることは絶対にしないと自覚していたからこそ、夫以外の蒙家の者たちに、子殺しの罪で裁かれるつもりでいたのだ。

堕胎薬を手に入れるために、屋敷から逃亡を企てて、わざと事を大きくしようとしたのもその計画のせいだろう。

蒙恬がその計画を事前に阻止したのなら、人質である飛信隊の命はきっと次の戦で失われてしまう。

飛信隊の大勢の副官や兵たちの命を守るためにも、信は何としても蒙恬に気づかれず、堕胎薬を手に入れようと焦っていたに違いない。

だからこそ、懐妊を知った信がこの数日の間で堕胎薬を探しに、無計画な逃亡を企てることも、蒙恬の中では想定内だったのだ。

この辺りの土地勘のない彼女が街医者を頼って、屋敷から一番近くにある街に逃げ込むことまで、全ては蒙恬の想定内だったのである。

あの街には酒場が多く、桓騎の配下が常日頃から出入りしている。そこまで治安が良いとは言い難いため、それなりに身なりの良い女がやってくれば必ず誰かの目に留まる。

…もしも自分の指示がなければ、桓騎は信の望み通りに命を奪っていたのか、それは定かではないが、恐らく死以上に辛辣な目に遭っていただろう。

蒙恬が事前に桓騎へ手を回していたことを、当然ながら信は知らない。
何とか逃げる機会を見計らって、人目を忍んで部屋の窓枠を外そうとしていた時から、蒙恬は既に手を打っていたのである。

自ら命を絶つことを選べない彼女に、その残酷な事実を告げれば、逃げ場などないのだと諦めてくれるだろう。二度と改修出来ないまでに、その心が壊れてしまうかもしれなかった。

しかし、それでは意味がない。信の意志がなければ、何も意味などないのだ。

その体だけが欲しいのならば、寝台に縛り付けておいたり、誰も近寄らぬ離れに幽閉しておけばいい。
それをしないのは、蒙恬が信という存在の隅々まで愛している証拠であり、彼女の心を欲しているからこそだった。

たとえ恐怖を利用することによる姑息な方法であったとしても、彼女が自分の名を呼び、自分の愛に応えてくれれば、蒙恬の心はそれだけで満たされるのだ。

 

「……怖かったね、信」

同情するように穏やかな声色を務め、腕の中にいる信の頭を撫でてやる。ずっと蒙恬の腕の中で震えている信が、その言葉を聞くと、再び声を上げて泣き出した。

まるで母が夜泣きをしている子供を慰めるように、その丸い背中を擦り、蒙恬は彼女の耳元に唇を寄せる。

「もうどこにも行っちゃだめだよ?また・・信のせいで、お腹の子が死んだら…大切な人たちが死んだら、辛いのは信なんだから」

火傷をしたかのように体を跳ねさせた信が、真っ赤に泣き腫らした瞳で見上げて来る。
涙で濡れた彼女の黒曜の瞳には、蒙恬しか映らない。

優しい笑みを偽りながら、蒙恬はいくつもの涙の痕がついている頬を撫でてやった。

「……、……」

虚ろな瞳で涙を流しながら、信が唇を戦慄かせている。
小さく声を発しているので耳を傾けてみると、ごめんなさいと、誰かに対しての謝罪が聞き取れた。

ごめんなさい。ごめんなさい。蒙恬様、ごめんなさい。逃げようとしてごめんなさい。もう二度と逃げません。言うことを聞きます。ごめんなさい。二度と逆らいません。だから許してください。どうか誰も殺さないでください。お願いします。どうかお許しください。

その謝罪が自分に向けられているものだと理解し、蒙恬はうっとりと目を細めた。

「分かってくれたらそれでいいんだよ」

涙の痕が途切れない頬に唇を寄せ、目尻に舌を伸ばす。
嫌がることもなくじっとしている信を見ると、口角がつり上がっていく。

涙の塩辛い味を味わいながら、蒙恬は彼女の震えが落ち着くまで、ずっと抱き締めたまま放さなかった。

「…さあ、帰って薬湯を飲んだら、ゆっくり休もう?」

もう二度と信が自分から逃げ出さないことに確信を得た蒙恬は、蜜のようにどろどろと身体に絡み付くような、甘く優しい声色で囁いた。

 

さらなる後日編(2200字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

このお話の本編(王賁×信←蒙恬)はこちら

番外編①(王賁×信)はこちら